75.居心地のいい場所
いつの間にか帰ってきていた寝室。
着ている服も、いつも寝る時にジュリアが準備してくれているものに変わっていた。
ベッドから降りて大きな窓の前に立てば、外もすっかり夕暮れに染まっている。
遠くに見える山の方にいたっては、もうすぐ紺色に染まろうとしていた。
隣の部屋に続く扉を開けると、そこには調度品を拭いてくれているジュリアがいた。
彼女はリーナが目を覚ましたことに気づくと、すぐに雑巾をバケツにかけてリーナのもとへとやってきた。
「! お目覚めになられましたか」
「リーナ!?」
目の前のソファが少し動いたかと思えば、そこには座っていたフィリウスが腰から上だけで振り返る姿があった。
「えっフィリウスさま!?」
「殿下! 妃殿下は今お目覚めになられたばかりですから、もう少し──」
ふいに彼と目が合うと、紫水晶の瞳が大きく見開かれた。と同時に、彼は腰から上を元通りにしてソファにもたれかかってしまった。
「リーナ様。まずはお召替えをしましょう」
「え、ええ。でもジュリアは休んで──」
「わたしの体調不良は治りましたから、お気になさらず」
このまま夕ご飯を食べるわけにもいかないので、ジュリアの提案に頷く。
寝室に戻り、鏡台の前に座ると鏡に映るジュリアはまだ少し震えているようだったけれど、表情はどこか楽しそうに見えた。
「えっと、この服は……」
「ここは町ではないのですから、この服でも大丈夫です。それとも、リーナ様も殿下を待たせたいのですか?」
「たしかに、わたしもこの服が一番着替えに時間がかからないと思うわ……」
ジュリアが持ってきてくれたのは、リーナが今朝「今日はこの服がいい」と伝えた、領地で着ていたワンピースだった。
たしかに着たいと言ったわりにはあまり着ることができていなかったし、これならすぐに着替えることができる。
というわけで着替えを終えたリーナは早速、フィリウスの待っている隣の部屋に向かう。
もちろん自分の部屋の中だから、この服でも問題ないはず──と思いたい。
ジュリアに扉を開けてもらうと、先ほどと同じようにソファ越しにフィリウスの後ろ姿が見える。
「お、お待たせしました」
「リーナ。体調は大丈夫……か?」
振り返ったフィリウスはけれど、一瞬で目をそらされてしまった。
これはもしかして。
「ご迷惑をおかけしました!」
「? 何の話だ」
「そのっ……フィリウスさまがわたしを見てくださらなかったので──っ」
言ってしまった。今のは間違いなく「白い結婚」を始めてから今まででも、かなり大きな失言に入るのではないだろうか。
そう思って必死に謝罪の言葉を並べたのだけれど、フィリウスから返ってきた答えは、想像していたものと違ったものだった。
「なぜその服なんだ……。私の理性がもっていなかったら『白い結婚』ではなくなってしまっていたかもしれないのだぞ」
「ご、ごめんなさい! でもあの小屋にだけは帰りたくないです……っ」
こうなったらリーナにできるのはひたすら平謝りすることだけ。
あそこに帰るのだけは嫌だ。──目からぽたり、ぽたりと涙がこぼれていく。
「──だろう?」
「?」
フィリウスの声がよく聞き取れなくて、顔を上げる。
眼鏡越しに彼の紫水晶の瞳がとてもきれいだ。
「聞こえているか?」
「は、はい! 何でしょう!?」
「君をあのような環境に帰す訳がないだろう」
「──っ!」
そうだ。フィリウスは優しい人なのだ。
たとえ「白い結婚」がなかったことになったとしても、彼はどうにかしてリーナをあの家に帰らなくてすむようにしてくれるのだろう。
それでも、リーナが本当に望んでいるのはまぎれもなくフィリウスの隣にいることで。
「そもそも──。いや、何でもない」
「? わたしでよければ聞きますよ?」
「この話は。……カールに禁句だと言われているのだ」
そう口にするフィリウスは本当に申し訳なさそうな顔をしていた。
きっとフィリウスにはもっと伝えたいことがあるのだろう。何ならリーナにとっては、決して受け入れたくないようなこともその中には含まれているはずだ。
今の自分は間違いなく、彼に甘えている。彼に出会ったあの日からずっとそうだった。
けれど、それでもフィリウスが「それ」を許してくれるなら、ずっとこのままでいたい。
だから。
「そういえばフィリウスさま。ジャガイモのカフェの店長は見つかったんですか?」
リーナは今日も現実から目をそらす。
見たくもない現実から、知りたくもない「彼の本音」から目を背けるために。
心の中ではそんなことを思っていたのに、優しいフィリウスは「君は気を失っていたのだったな」と穏やかな、気遣うような声で眼鏡を軽く上げる。
「立ったままで大丈夫か?」
「いいんですか? ……では、お言葉に甘えて」
彼はどこまで甘いのだろうか。どうしてリーナにここまで優しくしてくれるのだろうか。
そんな自省の心が頭をよぎったのは一瞬のことで。
次の瞬間にはいつも通り彼の隣に腰掛けて、そのような一切はすっかり忘れていた。
「まず、店長だが馬鹿兄の予想通り、大量の荷物が積み上げられた奥の部屋から見つかった。発見当時は衰弱していたが、今は治療を受けている。数日以内には良くなるだろう」
ひとまず店長の無事を聞いて、ほっと胸をなでおろす。
あんなにおいしい料理が食べられなくなったとしたら、どれだけ大きな損失になってしまうのだろう。考えただけで恐ろしい。
それはそれとして、リーナには他にも気になることがあった。
「あの、武器を持っていたおじさんたちはどうなったんですか?」
「ああ。あいつらは捕らえて地下牢に放り込んでおいたのだが──死んだ。奥歯に毒物を仕込んでおいて、万が一の時には服毒できるようにしていたらしい」
「えっ」
それまで落ち着いて話していたフィリウスの声のトーンが急に下がったのでびっくりしてしまった。
でも、命を狙ってきた相手のことを思い出すと気持ち悪くなってしまうのも当然だと思う。
リーナにはそんな経験はないけれど、フィリウスが剣を向けられた時のことを思うと吐き気がするのだから、本人はもっと大変なはずだ。
「リーナ、大丈夫か?」
「! あの、わたしは大丈夫です。むしろフィリウスさまの方が大丈夫ではないのではないかと思いましてっ」
「私ならもう大丈夫だ。君は時々隠し事をするから心配なのだ」
「隠し事の一つや二つ、誰にだってありますよ……」
ものすごく気まずくて、俯く。
フィリウスの言う通り、リーナには彼に伝えたくない秘密が──さっき頭の中の奥深くに閉じ込めた「それ」があるのだから。
何を言われるだろうかと不安で満たされていく心。
けれど降ってきたのは言葉ではなくて。気がつけば、温かくて大きな手がリーナの背中を何度も何度もさすっていた。
そのぬくもりに、先ほど止めたつもりだった涙がほろほろとおちていく。
「話したくないなら話さなくてもいい。だが、辛くなったら私に言ってくれ。私は君の、ただ一人の夫なのだから」
その言葉はリーナの心を溶かすのに十分で。
リーナの目の前の世界が再び暗転するまでに、時間はかからなかった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
活動報告にも書きましたが、8月2日投稿分をもちまして第2章は完結とさせていただきます。また、第3章の更新再開予定の具体的な時期は未定です(冬頃に出せたらな、と思っています)。よろしくお願いします。