6.出立
リーナはフィリウスとアルトと共に、辺境伯邸の玄関ホールにある大階段を降りた。
すると、すぐ後ろからフィリウスのリーナを呼び止める声がかかる。
「リーナ嬢。本当に荷物はないのか?」
振り返ってみれば、尋ねられたのは荷物の心配。
どうやらフィリウスは、細かいところまで気づかいのできる人らしい。
「わたしが持っているものなど、きっと城では見劣りしてしまいますわ」
「必要なものは買い与えるつもりではあるが……。持って行きたいものがあるのだろう? 君はわかりやすい」
フィリウスに心の中を指摘されて、思わず背筋が伸びてしまったリーナ。
彼の言う通り、リーナには持っていきたいものがひとつだけあった。けれど。
(おかあさまの形見のサファイアのネックレスはもうマリアのものよ。それに、おかあさまの形見なのだから、大好きなおとうさまの故郷にいた方が幸せなはず……)
「お嬢様、アレを取り戻さなくても本当にいいので?」
「大丈夫だから心配しないで、アルト」
アルトにも同じことを心配されていたらしい。
フィリウスがいるからか、相変わらず他人行儀だ。
けれど、リーナとしては本当に大丈夫なのだ。逆に王城に持って行って捨てられた日には、立ち直れる気がしない。
リーナは話を逸らすために、アルトに別の話題を振る。
「それに貴方はもう我が家の使用人ではないのだから、わたしのことをお嬢様だなんて呼ぶ必要はないのよ?」
「解雇されたところで私が平民であることは変わらないのですから、お嬢様のことをお嬢様と呼ぶのは、領民として当然のことです」
「むしろ、先ほどの小屋の前のような会話を王城でされては困るのだがな……」
フィリウスが呆れたように溜め息をつく。
彼が言っていることはまぎれもなく正しい。
他に誰もいない場所ならともかく、王城で王子の妻が平民に呼び捨てされてそれを咎めなかったら大問題である。
それはリーナが、王子妃が平民と対等に振る舞っているように見えるわけで。
まわりまわってフィリウスが他の貴族たちから舐められるということに繋がりかねない。
「勿論です。あれはお嬢様のためを思ってしていたことですから。殿下がきちんと、私共がお嬢様をお守りしてくださるのであれば、何も申し上げることはございません」
「ぜ、善処します」
二人の返答に、フィリウスは小さく苦笑する。
「善処ではなく、間違いなくしてもらわねば困るのだがな。私共がお嬢様、か──」
そう言いながらリーナの前を通り過ぎていったフィリウス。
一歩遅れてそれに気づいたリーナが彼の背を追って再び歩き出した時には、もうフィリウスはもう邸の玄関ホールを後にしていた。
最後にボソリ、とフィリウスが何かを呟いたらしいというのはリーナにもわかったけれど、何と言ったのかまではわからなかった。
アルトが息を呑んだのもフィリウスのその言葉が理由だと思う。けれどアルトのことだから聞いても答えてくれないだろうな、と思うリーナであった。
♢♢♢
はしたなく見えないように気をつけながら、リーナができる限りの速足でフィリウスに追いつけたのは玄関を出て少し、彼が乗って来たらしい馬車が止まっている目の前だった。
王族が乗ってきたというだけはあり、領主館本館の玄関近くに横付けされたそれは、リーナがこれまでに見たどんな馬車よりも豪華だった。
上品な黒を基調として、王家の象徴である獅子をはじめとした金色の装飾が施された馬車は、リーナが「一生縁がないだろうな」と思っていたもののひとつだ。
「リーナ嬢」
「はい。いかがいたしましたか殿下?」
「手を」
かなりの至近距離でフィリウスに呼ばれたリーナは思わず彼の顔を見上げた。
けれど、続く言葉に彼が差し出してくれた手に一瞬視線がいき、再び彼の顔を見て頭を下げる。
「た、大変失礼いたしました」
「いい。それよりも早く」
「はい」
フィリウスの機嫌を損ねてしまったらしい。
でも、今リーナにできるのは笑顔で彼の言う通りにすることだけだ。
セディカと離れたのに、フィリウスの言うことに従うだけで、何も変われていない。
けれどそもそも、場所が変わったところで人は急に変われるものではないわけで。フィリウスの言う通り、少しずつ変わっていけたらな、と思う。
タラップに足をかける。
はじめて乗った馬車の車内は、小さいながらもアグリア家の邸のどの部屋よりも豪華な造りをしていた。
「座れ。……それでは進行方向と逆になるだろう?」
「失礼いたしました。不慣れなもので……。ですが殿下が進行方向を向いて座るべきなのではありませんか?」
「大きめの二人掛けだ。座ろうと思えば三人座れるのだから、遠慮する必要はない」
それではまるで恋人みたいだ。……と思ったけれど、リーナはこれから恋人も何もかも通り越してフィリウスと夫婦になるわけで。
気にすることではないと言われたらその通りなのかもしれないけれど、リーナの気持ちとしては急すぎるというのが本音だ。
馬車の進行方向を向ける側の三人掛けの右半分を開けてくれているのは嬉しいけれど、そこに座るのは気が引ける。
「殿下、もう少し開けていただけませんか?」
「わかった。だからこちら側に座れ」
思いのほか、フィリウスはあっさりとリーナの願いを承諾してくれた。
アルトのことも救ってくれたし、悪い人ではないのだろう。
御者が馬車の扉を閉めてからしばらくすると、馬のいななきが聞こえ、続けて外の景色が動き出した。
「あの、アルトのことですが──」
「彼なら私の使用人たちと共に他の馬車に乗ったぞ」
「いえ、そうではなくて。アルトの次の職場を提供していただいて……。元主人の義娘として感謝させてください。ありがとうございます」
「そんなことか。君が気にする必要はない」
「ですが」
「だから、君が気にする必要はないと言っているだろう。……だがその気持ちだけは受け取っておこう」
リーナとは反対側の窓の外を眺めながら、そう告げるフィリウス。
その言葉に思わず胸が温かくなってしまったのは、アルト以外の人とまともに話すのが久しぶりだったからなのかもしれない。
「はい。感謝しております、殿下」
その日の夜。リーナたちが到着したのは、アグリア辺境伯領内で二番目に大きい、温泉街で有名な街一番の高級宿だった。