57.閉ざされた扉
貸衣装店で着替え終わったリーナが階段を降りれば、そこにはすでに着替え終わったフィリウスがいた。
前と違って、今回は髪色が茶色だから町の人の中でも浮かないはずだ。
さすがに細かい所作まではごまかせないけれど、それでも前回よりはずっと溶け込めているような気がするのはリーナの気のせいではないと思う。
「フィ、ル」
一瞬「フィリウスさま」と言いかけたけれど言わなかったリーナは褒められるべきではないだろうか。
壁にもたれかかって足を組んでいたフィリウスのもとまでリーナが近づけば、彼はリーナの姿を見た途端に目を大きく開いた。
「以前から思っていたことだが、やはり君はどんな服でも似合うな」
「そう、ですか?」
「やはり、先ほどは君のためと言ってはいたが、私自身のために使っていたのかもしれないな……」
「妃殿下様。今度もお着替えはこちらで預かりましょうか?」
店主の奥さんの声に、今は二人きりではなかったことを思い出す。
もしかして、今のリーナはフィリウスという夫がいながら自分の使用人と親密な仲になっているように見えてしまっているのだろうか。
「あの、これは」
「さすが妃殿下様の側仕え様ですね。まさか妃殿下に第二王子殿下以外の恋人がいらっしゃるとは町の誰も思わないでしょう」
「あ、あはははは……」
どうやらフィリウスの変装はバレていないようなので、一安心だけれど苦笑いしてしまう。説明したいけれど説明できないので、もどかしい。
笑顔で何とか乗り切ったリーナは、夫婦にお礼を言って、フィリウスと共に再び王都の喧騒の中に足を踏み入れた。
今日も今日とて、目抜き通りは人でごった返している。
日も昇ってきたからか、朝のような寒さはない。心なしか手も温かくて──。
「フィル!?」
「どうした」
「こ、その手は」
いつの間に手が結ばれていたのだろう。何回かしか会ったことがないはずの店主と握手していたのといい、フィリウスは手を繋ぐ天才なのだろうか。
彼と手を繋いでいるだけで疲れが感じられなくなるのだから不思議だ。
「さてリーナ。どこか行きたいところはあるか?」
「! ジャガイモカフェに行きたいです!」
「敬語──いや、この服装であれば問題もないか」
歩きながらフィリウスの顔を見上げれば、彼は安堵したような表情を浮かべる。
「君ならそう言うと思った」と言われてしまったのは、きっといつもジャガイモばかり食べているせいだと思う。
そんな中、リーナが見つけたのは。
「フィル。あれは──」
小道へと続く細い街路の方に、気になる人たちを見つけて思わず立ち止まる。
けれど、リーナはフィリウスに促されて、通りの端まで移動することになった。
「ここの方が見やすいだろう。それに街中で急に立ち止まると危ない」
「ごめんなさい。あの人たちの持っているものが気になって」
リーナの視線の先にいる人たちの中心にいた男性は、何かを抱えているようだ。
両手で抱きかかえてやっと二、三冊運ぶことができるようなサイズ感の本一冊分ぐらいの大きさに膨らんだ、ジャガイモのような形状の球体。
それが何なのか気になってフィリウスに尋ねてみれば。
「あれは星送りと呼ばれている祭の前祝いだな。本来は年越しの夜に行うものだが──ほら」
ジャガイモのような球体の下には小さな蝋燭がついていて、段々と空の方へと上っていく。
「ジャガイモではありませんでしたね……」
「カフェは逃げないから安心するといい」
そう言ってお互い、穏やかな笑みを浮かべながら王都の街中を歩いていく。
この時はまだ、リーナもフィリウスもジャガイモカフェが「あんなこと」になっているなどとは、露ほども思っていなかった。
「えっ、どうして──」
ジャガイモカフェに到着して早々、リーナたちを出迎えたのは店の賑わいではなく、扉に大きく書かれた赤色のバツ印だった。
扉が閉じているだけではなくて、中からも人の気配を感じられない。
街の人たちも、どうやらこの店のあたりを避けているらしかった。
「何があったんでしょう……」
「おー! 嬢ちゃんじゃねぇか!」
聞こえてきた見ず知らずの男性の声に思わず振り向けば、フィリウスがリーナの前に立つ。
そこにいたのは声の通り、リーナの知らないおじさんだった。しかもちょっと顔が赤い気がする。
ちょっとお酒臭いので昼間から飲んでいたのかもしれない。
「おお兄ちゃん! そこの嬢ちゃんはこの前銀髪の兄ちゃんと一緒にいたからヤメておいた方がいいぞ」
「私は側仕えなので問題ない」
「そうかそうか。けどな、あの時の嬢ちゃんたちは本当に微笑ましかったからな」
「単刀直入に聞こう。何が言いたい」
リーナの気持ちを代弁してくれるフィリウス。
今の話でわかったのは、以前この店に来た時に偶然居合わせた人だったらしいということぐらい。
あの時のリーナたちはそこまで目立っていたのだと思うと、ものすごく恥ずかしいような、嬉しいような。
「昨日の夜、ここの店の料理を食べて腹を壊したヤツがいたらしいんだが、その中によりによってお貴族サマがいたらしくてな」
「そういうことか。だが偶然貴族の客が来た時に限って食中毒か……。妙だな」
「ああ。かなりの慰謝料を吹っ掛けられているらしくてさ。払えなくて店は営業禁止ッ! 笑えねぇ笑い話ほど怖ぇモンはねぇってもんよ!」
おじさんはお腹を抱えて笑い始めたけれど、今の状況はどう考えてもそんな状況ではない。
ジャガイモが食べられなくなることが、どれだけ大きな損失なのかわかっていないのだ。
「あの、今日はこのお店では食べられないんですか?」
「おそらく集団食中毒を起こした店として、国から検査が入るだろうな。最悪、事業権をはく奪される可能性だってあり得る」
リーナの質問に答えてくれたのはおじさんではなくフィリウスだった。
けれどこの店が潰れてしまうのは本当にいただけない。
「何とかならないんでしょうか」
「君がそこまで言うなら私も打てる手は打とう。ところでなぜリーナのことをご存知で?」
「さっきも言っただろ? お貴族サマなのにあんなに食べっぷりがいいヤツってのは、嬢ちゃんたちぐらいなものだったぜ?」
「お貴族様? そ、そんなにわかりやすかったですか?」
「あたぼうよ!」と親指をピンと立てるおじさん。
でも、貴族がわざわざこんな店を訪れて、その時偶然食中毒になるなんてフィリウスが言う通りどう考えてもおかしい気がする。
リーナだってフィリウスがカールから聞いていなかったら、今でもこのお店のことを知らなかっただろうから。
「その腹を下した貴族とやらが誰だとか、支払いを請求しに来た者がどんな身なりの者だったかといった話は聞いたか?」
「いや、特にはねぇな。まぁ、噂なんてあッという間に広まるもんさ。遅かれ早かれ分かるだろうよ。……嬢ちゃん、本当に残念だったな」
このおじさんと会うのは二度目のはずなのに、ものすごく食べ物の好みがばれている気がするのは気のせいだろうか。
あとフィリウスの方から真冬の朝のアグリア領よりも冷たい空気を感じる気がする。
「じゃあな」とおじさんが去っていった後には、町の喧騒だけが残される。
しばらく茫然としていると、背中に優しい温もりを感じる。
言われなくてもわかる。フィリウスの手だ。
「気に病むことはない。君を泣かせようとした者は必ず見つけ出して、審判の場に引きずり出してやる」
「あのっ、そこまでしなくていいですからね? それに今フィリ──」
リーナが「フィリウスさま」と言いかけたところで、急に目の前が暗転する。
感じたのは心地よい温もり。
冬の冷たい空気が、一瞬でどこかに行ってしまったようだ。
そのまましばらくすれば、王都の光景が再び視界に入る。
どうやらリーナの視界を塞いでいたのはフィリウスだったらしい。
うっかり彼の名を呼んでしまいそうになったから、リーナが最後まで言い切らないように包み込んでくれたのかもしれない。
「……行くぞ」
「フィル?」
促されるままに歩きだす。けれど、今度こそ今日の彼の名前を呼べばフィリウスはリーナの方を振り向いてくれた。
「本当にすまなかった。下調べもほとんどせずに君に期待させるようなことを言ってしまった」
「逃げていませんでしたから大丈夫ですっ! それに今、」
「そ、それは君があの汚らわしい視線を浴びせられたのが──」
突然、フィリウスが挙動不審になる。
彼は「自覚がないようだな……ではこうするか」と貸衣装店から本来の価格よりもものすごく高額で買ったジャケットをリーナの頭に被せた。
「あの、さっきも思ったのですが寒くはないですか?」
「君があの視線に追われていると思った方が身震いするから問題ない」
「? あの視線って、おじさんのですか?」
フィリウスはリーナの質問に答えるかわりに、再び手を繋いで歩きだす。
きっとそれが答えなのだろう。
冷たい風が通っていったけれど、フィリウスの匂いと温もりがずっと側にいてくれたおかげで、へっちゃらだった。
途中、どこかの家の家紋が描かれた馬車が停まっているのが見えたけれど、もしかしてジャガイモカフェに食べに来たのだろうか。それとも、お腹を壊して怒っているのだろうか。
「リーナ?」
「あの馬車の貴族ですが、もしかしてここのお店でお腹を壊した家の方なのでしょうか」
「たしかに珍しいが……さすがに私もそこまでは調べてみないと分からないな」
フィリウスが空いた手を顎に当てる。
「もう一度営業を再開させてください!」と言いたくて、一度馬車の方を見てみたけれど。残念ながら御者台にはもちろん、中にも誰かがいる様子はなかった。