50.迷路の中で
国王陛下夫妻と四人で会食をした次の日の朝。
リーナはまだ日も昇ってすぐという頃にフィリウス、ジュリア、カールの三人と自室から見える中庭にやって来ていた。
「寒くないか?」
「アグリア領に比べたら全然平気です」
若干息が白く見えなくもないけれど、王都周辺はもうすぐ年末といった時期なのに、そこまで厚手のコートがいらない。
リーナに言わせれば今日の気温は「寒い」ではなく「涼しい」の部類に入る温度だ。
いつも部屋から見ていたはずの場所なのに、思わずわくわくしてしまう。
そんなリーナたちの目の前に佇んでいるのは、フィリウスの倍ぐらいの高さはある大きな生垣だ。
「この生垣は中が複雑な迷路になっていて、出入り口は二箇所しかない」
「折角ですし、殿下方で別々の入口から入って中で合流できるか試してみるのはいかがでしょう?」
「カール。お前は──」
「はじめて見ました。何だか楽しそうですね……!」
「そうか。君がそう言うならやってみようか」
「変わり身が早すぎます。こういうのはもう少し──」
「私は時間が惜しいだけだ」
ペアが決まるとフィリウスはカールと軽口を叩き合いながら、かなり遠くの方まで歩いていった。
二人がジャガイモの芽よりも小さく見えるぐらいの距離でリーナたちの方を振り返ったのを合図に、リーナはジュリアと共に迷路へと足を踏み入れた。
「リーナ様~! 道は見つかりましたか~?」
「ごめんなさい! まだ見つかっていなくって!」
迷路の中は、文字通りの大迷宮だった。
お互いの声こそかなり近くから聞こえているのに、どうすれば合流できるのかがわからない。
いつの間にかジュリアを置いてきぼりにしてしまったリーナが悪いのだけれど、どうすれば合流できるのかも、あるいは先に進めるのかもまったくわからない。
「はじめての迷路だからといって貴女を置いてきぼりにしてしまうなんて、フィリウスさまの妻失格ね……」
「っ! いいえ! そんなことはありません。リーナ様について行けないわたしがまだまだなだけですのでお気になさらず。それに、リーナ様を差し置いて他に殿下の妻にふさわしいご令嬢をわたしは知りません」
ジュリアからはそう思ってくれていたらしい。それだけで、心がほんの少しではあるけれど温かくなる。
「ありがとう。でもやっぱり、ジュリアのことを放っておいてしまったのは──」
「主失格、だなんて言わないでくださいね。とにかく、今参りますから!」
そう言い残して遠ざかっていく足音。
ジュリアには待っているように言われたとはいえ、このままここにいる気にもなれず。
「前に進むしかない、わよね」
そうは言ってみたものの、先ほどまで皆と楽しく庭を散策していたはずなのに、気がつけば一人だけになっていたわけで。
この世界がどこまでも続いていたらどうしようと思ってしまう。
まだ朝日が昇ったばかりの、ただの庭の中のはずなのに。
アグリア領にいた頃も、ほとんどずっと似たような状況だったのに。あの頃は怖くなんてなかったのに。
そこまで思ってようやく気がついた。
リーナには失いたくないものができてしまったのだ。
フィリウスの温かさが。互いに別々のことをしているとはいえ、あの執務室で共に過ごす時間が愛おしい。
それと同時に、喪失感で胸がいっぱいになる。この迷路から抜け出せば「いちおうは」彼の妻として彼の隣に立てるのに。
──「白い結婚」が終わってしまったら。きっとその日が人生の最期の日なのではないか。
ジュリアの言葉は本当に嬉しかった。
けれど、彼女はリーナの侍女なのだ。それが本当に客観的な評価なのかというのもわからない。
「──?」
そのとき。
ぐるぐるとネガティブな感情の渦にはまっていくリーナの思考をかき切るように、どこからともなく風を裂くような剣の素振りの音が聞こえてくる。
アグリア邸でも、リーナが畑仕事をしていると領地の兵たちが訓練していたのと同じ音──何の音か気になって見に行ったこともあった──なのでたぶん間違いない。
方向もわかるけれど、薔薇の生垣をまっすぐと越えて通り抜けられそうにない。
でも、もともとここでずっとジュリアを待っている気にもなれなかったので、どうせならこの音の正体を確かめに行ってもいいだろう。
気を取り直したリーナは、迷路の先を急いだ。
音が聞こえてから歩き続けることしばらく。
リーナがたどり着いたのは、とてもこの迷路の中にあるとは思えないほど開けた場所だった。
こんなに広い場所があるのに周りの迷路は複雑で。外から見た時と中から見た時では、大きさが全然違うもののように感じられるのは気のせいではないと思う。
そんな開けた空間の真ん中あたりでは、フィリウスと同じくらい背の高い、金色の髪をした男性が剣を振るっていた。
単に縦に振るだけでなく、横に薙ぎ払ったり突きを繰り出したりと、こういったことに詳しくないリーナでも、実践を意識したものだということがわかる。
「誰だい?」
けれど突然、彼は動きを止めたかと思えばリーナの方を振り返らずに問いかけた。
距離は離れているはずなのに気づかれたことに、背筋が凍る。
「すみません。迷路に迷ってしまって」
正直に告白すれば、青年はリーナの方を振り返る。
瞳は海のように深い青で、心なしかどこかで見たことがあるような形をしている気がした。
彼は剣を鞘に収めると、リーナのもとまでやって来た。
「君──名前は?」
「あっ、リーナです」
スカートの裾を軽く持ち上げる。
顔を上げれば、考えるように顎に手をあて出した青年。やはり心なしかものすごく見覚えのある動作だ。
名前を尋ねられたので答えたけれど、よくよく考えるとものすごく怪しい気がする。
リーナはここにひと月前ほど前にフィリウスの妻としてやって来たのだから、城で働いていてまだ知らない人が本当にいるのだろうか。
──そもそもほとんど外を出歩いていないせいでリーナだとわからないとか、そういう可能性はありそうだけれど。
「リーナはどうしてここに?」
「あっそのフィリウスさまに──というかカールさんに迷路に入ってみないか提案されまして」
「フィルの……。なるほどなるほ──」
そのとき。青年は突然リーナに背を向けたかと思えば、再び剣を手にしていた。
「おおっと危ない」
「馬鹿兄。私のリーナに何をしている」
聞こえてきた声の方に視線を向ければ、そこにいたのはフィリウスだ。
彼もまた、どこから持ってきたのか剣を手にしていた。
「人の物を盗ってはいけないと父上から習っただろう? それに馬鹿兄ではなく兄上と呼ぶんだ」
「その辺りに捨てておく馬鹿兄上が悪い」
「怖いねぇ。予備だからそれ勝手に持っていかないでね? というかフィリウス、君こんなタイプだったかな? 結婚なんて絶対してやるもんかと鋼の意志を持っているのだとつい」
「陛下が煩かっただけだ。それに──」
フィリウスが「馬鹿兄上」? という人物に何かを耳打ちする。
二人の距離が離れていくと、笑顔で肩を竦めて今しがたフィリウスたちが来たであろう方へと去っていく「馬鹿兄上」。
フィリウスと親しそうに話していて年が近くて、それも「兄」だなんて彼に呼ばれる人なんて、この国には一人しかいないはずだ。
でも、アルトも王家の家名こそ教えてくれたけれど、名前は全然教えてくれなかった。
彼の名前を知っていれば、もう少し上手に立ち回ることができたと思っても仕方がない。
「……大丈夫か?」
「あ。えっとはい。今の方は?」
「私の馬鹿兄だ。また今度紹介しよう。──そろそろ朝食の時間だな。折角の料理が冷めてしまう。カールはヒルミス嬢を探して来るように」
「御意」
フィリウスに言われて空を見上げれば、太陽はもうそこそこの高さまで上がってきていた。
リーナがフィリウスの言葉に無言で頷くと、彼に手を取られる。
その手に導かれるままに進むと、迷路を抜けるのはあっという間だった。




