5.一歩を踏み出して
「アルト? あなた、解雇されたのでしょう? ここに来て大丈夫なの?」
アルトが出て行くということは、リーナは本当の意味でひとりぼっちになるということだ。
でもそれはそれとして、その解雇を言い渡した本人の前まで来てただで済むとは思えない。
「心配しなくても大丈夫。リーナが心配する必要はないから」
「使用人。お前、アルトと言ったか?」
「今はもう使用人ではございませんが、いかがなさいました?」
いつもとは違う態度に思わず驚いてしまう。
けれど、もしかしたらこれが普段の、本当の彼なのかもしれない。だとしたら今までリーナが見ていたものは何だったのだろう?
「アグリア辺境伯家には二人の娘がいる。そうだな?」
「はい。マリア様は現辺境伯夫妻の一人娘で、リーナ様は前辺境伯夫妻の娘ですが……対外的にはそうなっておりますね」
淡々と答えるアルト。
けれどフィリウスも当然といった様子で驚いていない。アルトの言い草と合わせて考えると、公然の秘密というものなのだろうか。
「そして、彼女は邸で暮らしているのか? それともあの小屋で?」
フィリウスの問いかけにいち早く口を開いたのは、セディカだった。
「いえ。彼女はこの部屋──」
「ではなくわたしはあの小屋で生活しておりまして。そういうわけで、マリアの方がより貴族としての暮らしになれていると……」
「やはりか」
途中でリーナが口を挟むとは思いもしなかったのか、再び硬直するセディカ。
先ほどまでセディカ、そしてアルトに向けられていた視線が、とうとうリーナに向けられた。
紫水晶の色をした瞳。レンズの向こう側のその目元が本気で怒っているようで、ちょっと怖い。
けれど、両親の愛した辺境伯領を解体させるという選択肢はリーナの中には、ない。
フィリウスの後ろでわなわなと手を震わせているセディカには気がつかないリーナ。
一歩、また一歩とフィリウスが近づいて来るたびに下がっていったリーナはとうとう、廊下の大きな窓と窓の間にある柱を背に追い詰められてしまう。
「王族である私の前で嘘をつくとは、なかなか肝が据わっているな」
真後ろにある柱に手をつくフィリウス。
身長差もあるせいで、思わずリーナは彼を見上げるような体勢になってしまった。
「お褒めにあずかり光栄、です。ですが嘘はついておりませんわ」
「そうだろうな──だがそれは少なくとも表面上は、だろう? たしかにお前よりもマリア嬢の方が貴族の暮らしに慣れているだろうというのは見ていればわかる。君のように利口な娘はそうそういない。陛下が私の妻に、と命令したのも納得だ」
「はい?」
(えっ、まって)
最後が聞き取れなかったけれど、そのちょっと前の部分に問題がありすぎる。
まず、王族がリーナと結婚するということ自体があり得ないのだ。令嬢らしい華憐なマリアならいざ知らず、地味な容姿のリーナがフィリウスと釣り合うわけがない。
そんなフィリウスの目元から怒りがすっと引いていったかと思えば。彼が再び振り向いたのはセディカの方だった。
今度は、先ほどまで余裕そうにしていた彼女の顔が青ざめた。
「そういうわけだ。伯爵にはよろしく伝えておいてくれ。──ああそうだ、それからアルト」
続いてセディカの反対側、アルトの方へとフィリウスが振り返ると、彼は「何でしょう」と短く尋ねて、彼の言葉の続きを待った。
「お前は解雇されたのだったか」
「そうですね。この通り、身軽といえば身軽ですが」
肩を竦めるアルトに、フィリウスは軽く眼鏡を指で持ちあげる。
「王城で文官をやらないか?」
その言葉に、今度はリーナが驚く番だった。
王城の文官といえばレーゲ王国内で身分か、あるいは能力の少なくとも一方がトップクラスの人にしか就けない仕事だ。
平民のアルトの実力が買われているみたいで嬉しいけれど、それは身分の後ろ盾を持たない彼を、魔物の巣窟に放り込むようなもので。
アルトも冷静なのか、すぐに頷く様子はない。
「失礼ながら殿下、理由をお伺いしても?」
「リーナ嬢に立ち振る舞いを教えたのは其方ではないのか?」
「そうですね。基本的なことは」
「読み書き計算もできるだろう?」
重ねられるフィリウスの質問に「はい」と答えるアルト。
けれど、これは──。
「殿下。それは横暴というものです」
「リーナ嬢。君には関係ない」
「関係あります。彼はわたしの友人ですから」
リーナがそう口にすれば、驚いたと言わんばかり目を大きく見開いたアルト。
本当は兄のように思っているのだけれど、それはさすがにここで言うべきではない気がしたので自重した。
「……なるほど。ではなおのこと、君が私の婚約者として王城に来るべきではないだろうか」
「と、言いますと?」
「彼は優秀だが、今のまま王城に来ては何の後ろ盾もない。だが、第二王子妃が後ろ盾ならどうだ? この邸をクビになった彼では、領内に仕事も見つからないだろう。だが、君が私と結婚し、彼の後ろ盾となれば──悪くはない話だと思わないか?」
そこまで言われてリーナはようやく気づいた。気づいてしまった。
今までの自分は、自分以外の都合を考えていなかったのだ、と。
けれど、長年培ってきた癖というものはなかなか治らないもので。
「ですが殿下、わたしはこの土地を……両親が愛したこの土地を離れたくないのです……っ」
「そうか。だが曲がりなりにも君はアグリア辺境伯家の令嬢だ。たとえそれは、君が小屋暮らしだからといって変わるものではない。他の男に嫁がされて一生、この地に帰って来られないかもしれない。だが、私と共に来れば、たまの里帰りぐらいは認めよう」
「──っ!」
思わず、フィリウスの顔を見上げてしまった。それはリーナにとってとても魅力的な誘いだ。
けれど同時に、自分は他人のことを考えられないどころか、貴族社会の常識にすら疎いことにも自覚が至ってしまった。
「殿下。とても嬉しいのですが、わたしは他の家に嫁がされるかもしれないとは思い至りませんでした。こんなわたしでは、殿下の妃として力不足なのでは──」
「力不足、か。だが、君は私が見てきたどのご令嬢よりもマシだ。保障しよう。それでも力が足りないというのなら、これから成長していけばいい」
「マシ」。フィリウスの言葉が再び胸に突き刺さる。
けれど、それでも。見た目はもちろん、中身も素敵なフィリウスがそこまで言うのであれば、少しぐらい自信を持ってもバチは当たらないのではないか。
それに彼の言う通り、力不足ならこれから成長していけばいいのだ。
リーナはこの日、今までの人生で一番前向きになれた気がした。
「……承りました。殿下。このリーナ、アグリア辺境伯家の名にかけて、殿下にふさわしい立派な婚約者になってみせます」
「期待している。アルトも出発するぞ」
「かしこまりました。殿下」
その場を立ち去っていくリーナたち三人。
セディカは、フィリウス立ち去り際に射殺さんばかりの視線を送ったせいで、数分の間腰を抜かしていたのだが、幸か不幸かリーナがその事実に気づくことはなかった。
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