48.時間が足りない時は
国王夫妻に夕食への同席を求められていることを、フィリウスの口から聞かされたその日の夕方。
リーナはいつも通り何事もないかのようにフィリウスの執務室でユスティナから妃教育を受けていた──はずだった。
「それでは、今日のレッスンはここまでです」
「ありがとうございました、ユスティナ様」
ユスティナが鞄の中に次々と教本やら何やらをしまっていく中、リーナの心の中はもうすでに夕食のことでいっぱいになっていた。
そう思っていたけれど。
鞄の口を閉じたユスティナがリーナの方に向き直ると、突然ユスティナが口を開く。
「リーナ殿下」
「何でしょう?」
「レッスンの間、ずっと心ここにあらずといった様子でしたよ。わたくしに伝わってしまうようでは今後のことが思いやられます」
「──っ。わたし、そんなに顔に出ていましたか?」
「とてもわかりやすかったですよ。パーティー会場ではどうかそのようなお顔をなさいませんよう」
おもむろに頷くユスティナ。
ものすごく恥ずかしい。ここに畑の畝があったら、ジャガイモみたいにその中に埋まってしまいたいぐらいだ。
「叔母上はいつもそうしてリーナのことを」
「殿下もです。いつもと比べてペンがゆっくりでしたね」
「殿下も妃殿下も、今夜は国王陛下夫妻との食事がありますのでそのせいでしょう」
「カール、余計なことを……」
「殿下方のことを思ってのことです」と言っているけれど、ちょっとからかわれているような気がするのは、リーナの思い違いだろうか。
「そうでしたか。それでは、お召替えの時間が必要ですね。では、わたくしはこれでお暇いたしますね」
ユスティナが退出していき、三人は夕暮れ時の部屋に残される。
「予めレッスンを早く切り上げるように伝えておくべきだったようだ。時間がない」
「どういうことでしょう?」
「叔母上も今少しだけ言っていたが、そのドレスで君を晩餐会に連れて行ったらどうなるかなんて目に見えている。着替える時間もほとんどないだろう?」
言われてみればまだ邸で一緒に夕食を取っていた頃、セディカもマリアも日によっては着替えていた気がする。
あれはまだ幼くて一緒に食事を取っていた頃の話だったけれど、着替えるドレスのないリーナはいつも笑われていた。
国王陛下夫妻との食事だ。
今日はマリアたちだったら間違いなく普段着から着替えるような、特別な夕食なのだろう。
リーナとしては今着ているドレスでも十分豪華なものだけれど、王族としては普段着なのかもしれない。
「では急いで着替えて参りますね」
「今から歩いて部屋まで戻るのか? 着替える時間が足りないだろう」
「そ、そうかもしれませんが歩いていくしか」
リーナが切実に訴えているのに、対するフィリウスはどこ吹く風といった表情でリーナのもとまでスタスタと歩いてくる。
「こうした方が早い」
「えっフィリ──」
ふわっと足先から床の感覚が消えたかと思えば、世界が回る。
気がついた時には、かわりに背中とスカート越しの膝裏にしっかりとした感覚が回っていた。
「殿下、そのお姫様抱っこは見せつけているので?」
「どうだろうな。生憎私は急いでいるので、戸締りは任せた」
「分かりましたよですがイチャイチャするにしても残り時間を考えてくださいねと部下の私からは一言お伝えさせていただきます」
カールの口からまたよく分からない言葉が聞こえた気がするけれど、どういう意味だろう──と考え始めた頃には、目の前には廊下の壁が広がっていた。
「下ろしてください! こんなところを他の方に見られたら」
「却下する。それに見られたところで何の問題がある」
大ありだと思う。こんなところを見られたら、夫に運ばせている悪い妃に見えてしまうのではないだろうか。
周りからの心象が悪くなってしまったら。──でも、「白い結婚」だからフィリウスとしてはこっちの方が都合がいいのかもしれない。
リーナと後で離婚する理由のひとつにできてしまいそうだ。そんなことをされた日には大人しく受け入れられる気がしない。
廊下を進んでいる間、せいいっぱい言葉を尽くして下ろしてもらおうとした。
けれど、リーナの努力もむなしく。結局部屋の前に戻るまで、一瞬たりとも解放してもらうことはできなかった。
フィリウスがリーナの部屋の扉の目の前にたどり着けば、自然と内側から扉が開く。
「お帰りなさいませ、リーナ様。今お呼びしに行こうかと──殿下!?」
「リーナを頼んだ。今日は何があるか聞いているだろう」
「! はい。かしこまりました」
ようやく解放されたかと思えば、フィリウスは隣の自室へと入っていく。彼も着替えないといけないようだ。
リーナもジュリアに言われるまま室内に入ると、扉を閉めてくれた。
「今夜は国王陛下夫妻との晩餐会だとお聞きしておりました。ドレスはいかがなさいましょう?」
「そうね……ジュリアはどういったものがいいと思う?」
「舞踏会ほどではないですが、華やかなものがよろしいかと」
「ではお勧めのものをお願い」
そうして用意されたのはうっすらと淡い紫色みがかったドレスだ。
誕生日パーティーの時のものと比べるとスカートの広がりは控えめで、歩きやすい。
リーナとしてはこういった踊りやすそうなドレスこそ舞踏会で着るべきなのでは、と思ってしまう。
なんであんなに踊りにくそうなドレスで踊るのかがリーナにはよくわからないけれど、それが貴族たちの流行りなのだろう。
そんな軽やかなドレスに着替えさせてもらった後、腰を下ろして休むことしばらく。
ノックされた扉をジュリアが開くと、いつも執務室で着ている服よりもいくらか光沢のあるジャケットを羽織ったフィリウスがやって来る。
「ジュリアのおすすめだそうです。おかしくないですか?」
「──! ああ。よく似合っている。リーナ」
一瞬間があった気がする。けれど彼の顔はとても満足気なので、きっと問題ない──と思う。
けれど、彼の様子に気を取られていたからか、手が差し出されたのに反応するのが遅れてしまった。
「陛下も母上もいるが大丈夫だ。君が傷つくようなことはさせない」
「はい。ありがとうござい、ます?」
差し出された手を取ると、互いの手袋越しにフィリウスの熱が伝わってくる。
心なしかフィリウスの体温がちょっと高い気がするけれど、熱でもあるのだろうか。
二人で廊下を歩きながら、ふとそんな疑問を口にする。
「フィリウスさま、本当に大丈夫ですか?」
「何がだ?」
「少々熱がありますよね?」
「熱、か。それはリーナの手が冷たいだけだろう。手が冷たいのは心が温かいからだと聞いた」
「えっわたしなんて全然そんなことありません。心が温かいのはフィリウスさまの方で……」
廊下に足音だけがやけにうるさく響く。
他の誰も知らないけれど、リーナの心が醜い気持ちでいっぱいなのはリーナ自身が一番知るところだ。
それなのに優しいと言ってくれるフィリウスこそ優しい人なのだと何度思い知らされたことだろう。
「それに……」
「?」
「さっきは時間がないからとわたしを抱え上げたのに、今度は──」
「もしかして、またさっきのようにしてほしいのか? それならいくらでも──」
「そ、そういうわけではないですっ!」
城じゅうに反響していそうなリーナの声に対して、フィリウスから返ってきたのは廊下に響きもしない「そうか」という小さな一言。
きっと今は時間に余裕があるのだろう。
先ほどまでは「これは離婚するための作戦なのでは?」と思っていたのに、いざ彼と触れ合うのが手だけになると、欲しがりになってしまうのだから救えない。
それからはお互い一言も発することない微妙な空気感の中、会場だと聞いていた部屋までたどり着いた。
「カール。なぜお前がここに」
「両殿下、国王陛下夫妻がお待ちしております。ですが、それでもなお私がなぜここにいるのか理由をわざわざお聞きしたいので?」
「……聞かないでおこう」
ため息をつくフィリウスに肩を竦めるカールといういつもの光景に、気がつかないうちにひどくなっていたこわばりが解けていく。
いよいよホールへの扉が開かれると、二人は室内へと一歩を踏み入れた。