46.それぞれの甘え
「本日の夕食はジャガイモのソテーに──」
ユスティナからジャガイモの特産地がオーネマン子爵領だと教えてもらった──そして、差出人不明のジャガイモがリーナ宛に届けられたということを知った、その日の夕方。
ジュリアから今日のメニューが読み上げられても、送られてきたというジャガイモのことが気になって頭に入ってこない。
目の前にジャガイモ料理があるのに、そんなこともそっちのけで今ここにないジャガイモのことを考えてしまうなんてことは、はじめてだった。
けれどいつまでも考えていたところで仕方のないことなので、目の前のジャガイモにフォークを通す。
このジャガイモはきっと、差出人不明のそれとは違って出所もはっきりしたものなのだろう。
けれど、それなら誰からとも知れない人から送られてきた、毒入りかもしれないと疑われているジャガイモはどうなってしまうのだろう。
ジャガイモに罪はないのだ。
「リーナ、妃殿下……少々よろしいでしょうか」
「ジュリア、どうしたの? それに妃殿下って……」
一度フォークを置き、後ろの壁際に控えていたジュリアの方を振り返る。
普段は明るく朗らかに話してくれているのに、今日の彼女は珍しく暗い表情をしていた。
それにいつもと違ってものすごくかしこまられている気がする。
「まさか、誰かから嫌がらせを!?」
「いいえ!」
リーナの言葉に首を振ると、バッと勢いよく頭を垂れるジュリア。
本当にいつもと違って様子がおかしい。
「では本当のことを言って。これは王子妃命令よ」
王子妃。フィリウスとリーナの関係は「白い結婚」なのについ勢いで言ってしまったけれど、このことを知っているのはリーナとフィリウス、そしてカールや国王のベネディクトぐらいだから問題はないはずだ。
むしろ、表面上はこうして取り繕っておいた方がいい。
「これまでの無礼な呼び方についてです」
「ぶれい?」
リーナが首を傾げると「そこからでしたか」とものすごく焦った様子を見せるジュリア。
けれど、リーナとしては彼女のどこが「無礼」なのかがわからないわけで。
「はい。今までわたしは『リーナ様』と呼び続けておりましたが、それは許されないことで──」
「許されないこと、ね……。どうしてジュリアはそう思ったの?」
形式上聞いてみたものの、リーナとてここまで言われたら理解せざるをえなかった。
レッスン中、何度もユスティナに指摘されたことなのだから。
「妃殿下は王族です。通常であれば『殿下』あるいは『妃殿下』とお呼びするべきなのに、わたしはまるで子供のように分別なくお呼びしてしまっておりました」
「貴女の言い分はわかったわ。けれど、どうして今日からわたしの呼び方を変えようと思ったのかしら? あ、別に責めているわけではないのよ。純粋にわたしが知りたくって」
逆効果だっただろうか。
けれどそんな不安は杞憂だったらしく、ジュリアは淡々と答えてくれた。
「実は本日、午前中の休憩時間に使用人の休憩室にヴィカリー公爵夫人がいらっしゃいまして」
「ユスティナ様が!?」
以前リーナがジュリアから聞いたところによると、使用人の休憩室というのは日中に使用人が休むところで、食事スペースも兼ねている部屋、らしい。
こういったスペースに主人が入っていくことは禁止されているわけではないけれど、普通はしないのだとか。
それは他家に訪れた時も同じだというのはユスティナから──そしてまだ、アグリア領にいた頃にもアルトからも少しだけ──聞いた。
いちおう、王城と言っても同時にレーゲンス家の家でもあるわけで。
とにかく、使用人の部屋に主や主に招かれた人は行かないものと言っていたユスティナが、何の許しもなくリーナの部屋を訪ねるというのは余程の理由があるはずだ。
「妃殿下呼びをしなくてはいけない」というジュリアの答えこそ何となくわかったものの、事はリーナが思っているよりももっとずっと重大なことなのかもしれない。
「ヴィカリー公爵夫人が訪ねてきて、わたしに耳打ちでお伝えしてくださったのです。『リーナ様と呼ぶのはやめなさい』と。今まで咎められなかったのをいいことに、わたしが甘えていたことを公爵夫人は見抜いていらっしゃったのでしょう」
「甘え……」
ジュリアの言葉がぐさりとリーナの心にも重く突き刺さる。
「白い結婚」を続けられているのは、ひとえにフィリウスのおかげだ。この関係はずっと続くものではなくて、時が来たら城を追い出されるのは目に見えている。
「そのとき」が来ないために足掻いている。
なのに、今のリーナはフィリウスに甘えてばかりだ。今のままでは、彼の気分ひとつで明日にでも追い出されてしまう生活まっしぐらだと言っても過言ではない。
そんな自分に比べれば、ジュリアはちっとも甘えていないではないか。それどころかむしろ逆で、今もこうしてリーナのために頑張ってくれている。
「ジュリア、顔を上げてちょうだい」
「リ、妃殿下……」
リーナのお願いに応えてくれたジュリア。けれどその顔は暗いままだ。
「貴女は『甘え』と言うけれど、わたしからしてみればジュリアはちっとも甘えることができていないと思うわ。むしろいつもわたしが貴女に甘えてばかり」
「いいえ! 妃殿下は甘えてなんて──」
「ジュリアはわたしが甘えていないと思うのよね? けれど、本当のわたしはフィリウスさまのご厚意に甘えてばかりなのよ。同じように、貴女はわたしにちっとも甘えていないと思うの。けれど貴女は自分が甘えていると思っているのでしょう? わたしたち、似た者同士だと思わない?」
「……! 似た者同士だなんて、とんでもないことでございます。妃殿下はわたしなんかよりずっと──」
「ジュリア。わたしも貴女に同じような感情を抱いているの。貴女に比べたら自分なんてまだまだだって。それでね、わたしは貴女と似た者同士でよかったと、そう思っているわ」
「ありがとう」。日頃の感謝の気持ちもたっぷり込めて、できる限りの笑顔で。心の底からの本音を口にすれば。
リーナの言葉が予想外のものだったからなのか、エメラルドグリーンの瞳が大きく見開かれる。
けれど、あと少し足りない。
口から出まかせで言った「似た者同士」というのが本当だからなのか、他の理由なのかはリーナにはわからない。
ただひとつだけ言えるのは、ジュリアには「貴女は甘えていないからもっと甘えていい」だなんてメッセージでは絶対に受け入れてもらえないだろうということだ。
「よかったと思っていただけたのでしたら、これ以上にない光栄なことでございます──」
「光栄に思ってもらえたなら、わたしもとても嬉しいわ。ところでジュリア」
「はい。いかがなさいましたか?」
背筋を伸ばしていつも通りの様子に戻ったジュリア。
「先ほどのユスティナ様の話の続きをしてもいいかしら?」
「何かご不明な点がございましたら説明いたしましょう」
「いいえ。たしかに、なぜユスティナ様が暗黙の了解を破ってまで貴女に会いに行ったのか、とか。わからないことはたしかにあるわ。けれどそういう話ではないの」
「と、おっしゃいますと?」
「ユスティナ様のおっしゃることにはたしかに一理あると思うの。でも、貴女に『妃殿下』だなんて呼ばれることを考えると寂しくて」
ジュリアが息を呑む。ここまでの話を聞いて察してくれたのだろう。
体感、彼女は自分よりも勘がいいのだから間違いない。
「私的な場ではこれまで通り、リーナ様と呼んでくれる?」
「っ……、ですが」
「貴女に甘えては駄目かしら」
「……そこまで言われては仕方ありませんね。かしこまりました、リーナ様」
「……! ありがとうジュリア」
「ですが」
咳払いをしたジュリアが「一点だけ指摘しておきたいことが」と言わんばかりに人差し指を立てる。
「今後『甘える』などという言葉は私ではなく、殿下にお伝えくださいませ」
「フィリウスさまに……?」
「はい。わたしはリーナ様に仕えるのがお仕事ですので。それにフィリウス殿下は──いえ、これをお伝えするのは野暮ですね」
「? わかったわ。ありがとう」
一瞬疑問符が浮かびかけたけれど、うまくいったみたいだ。
リーナが満面の笑みで感謝の言葉を告げると、ジュリアもまた「仕方のない方ですね」と肩を竦める。
けれど、リーナはジュリアの言葉に。そしてフォークに突き刺したジャガイモに笑顔を浮かべていても、心の中では。
(フィリウスさまには甘えてはいけないからと、ジュリアに迷惑をかけてしまうなんて。わたしもまだまだね……)
そのまま、いつものようにジャガイモを口に運ぶ。
でも、いつもならおいしいはずのジャガイモのソテーは、心なしか全く味が感じられないまま喉を通っていった気がした。