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44.久しぶりにレッスンを

「リーナ。そろそろ──」

「フィリウスさま……? いかがなさい──」


 フィリウスの部下のカールと三人だけの執務室。

 頭の上でかなり長い間続いていた心地よい感覚が突然止まったかと思うと、廊下の方から聞こえてきたのはカツカツという、これまたよく聞きなれた足音だった。


「おはようございます、両殿下。昨日は遅くまでいらっしゃったのにお早いですわね」

「叔母上こそ随分とお早いようで」


 声のする方を振り向けば、そこにはもちろんユスティナがいた。


 心なしかいつもよりもフィリウスの声に(とげ)がある気がする。

 けれどフィリウスの言う通り、今日のユスティナは今までよりも来るのが早い。


「リーナ殿下も。おはようございます」

「お、おはようございます」


 ユスティナの急な「殿下」呼びに一瞬反応が遅れてしまったリーナ。

 昨日までは殿下と呼ばれていなかったので仕方ない、と誰に言うわけでもないけれど心の中だけで主張した。


「あらリーナ殿下。パーティーの翌朝だからと油断していては駄目ですわよ?」

「叔母上。リーナを(いじ)めるのはやめてくれませんかと何度言えば」


 コロコロと鈴を転がすような声で笑うユスティナ。

 あの宰相(さいしょう)のオクシリオ・ヴィカリー公爵の妻だというのにまだまだ若々しい。


 彼女の兄で国王のベネディクトも威厳はありつつも、聞いている年齢よりは若い気がするので、もしかしたら王家の血筋は若く見えやすいのかもしれない。


「それではリーナ殿下、今日もお勉強を始めましょうか。それとも、まだフィリウス殿下と──」

「叔母上っ」

「本日もよろしくお願いいたします、ユスティナ様!」

「両殿下。お相手の話は最後まで聞くのがマナーですわよ?」

「あ、あの。ユスティナ様は……」

「リーナ殿下、いかがなさいました?」

「い、いえ。何でもありません。今日もご指導のほど、よろしくお願いします」




「──とこのように、レーゲ王国の東の端には殿下がお生まれのアグリア領の北側同様に、険しい山脈が南北に走っています。では、それらとは反対側の南西にある半島の名前はご存知ですか?」

「シャタール半島、ですか?」

「よくご存知ですね。……少し休憩にしましょうか」


 フィリウスの執務室の端に用意されたいつもの場所。

 向かいに座るユスティナの満足げな表情に安心したリーナは、軽く背もたれにもたれて身体を落ち着かせた。


 今日の授業はレーゲ王国の自然地理だ。

 アルトにいくらか話を聞いていたおかげか、難なく授業の内容についていけるので彼に今度会ったら感謝の言葉を伝えないと、と思うリーナである。


「それでは、わたくしも一度休憩してまいりますね。また後ほど続きをしますから、少し頭をお休めください」


 頭の中で今後のことを考えていたのもつかの間。ユスティナの背中を見送ったリーナはつい、フィリウスたちのいる方に顔を向けてしまった。


「殿下、妃殿下と公爵夫人も休憩しているようですよ」

「そうだな。叔母上も今は」

「いらっしゃいませんね。ですが──」


 最後のカールの言葉の後半が聞き取れなくて首をかしげる。

 けれど、そんなことをしたところで、二人が何の話をしていたのかがわかるわけもないわけで。


「フィリウスさま。カールさん。何を話していたのですか?」

「妃殿下が気になさるほどのことではありま」

折角(せっかく)だから少しお茶にしようという話をしていたところだ。そうだろう、カール」

「わかりましたよ不本意ですが私がお持ちしますのでくれぐれも今は妃殿下が授業を受けていらっしゃる最中だということをお忘れなさいませんよう」


 途中で息切れすることもなく、長々とした棒読みを終えたカールが退出していく。


 もちろん、扉は開いたままだ。

 彼の足音が聞こえなくなると、やがてフィリウスはリーナの向かいにある、先ほどまでユスティナが座っていた椅子に腰を下ろす。


「叔母上は少々自分本位すぎる。一度自分から来なくなっておいて、パーティーで自分の思い通りになったと知ったや(いな)や、次の日の朝早くからやって来るのだから。リーナも大変だと思ったら休め」

「あはははは。でも、今はまだ大変ではありませんし」


 たしかにフィリウスの言っていることは事実なのだ。

 けれど、ユスティナがいなかったら今日もまだフィリウスに「リーナ」と呼ばれていなかっただろう。


 一生「リーナ嬢」と呼ばれ続ける生活だったかもしれない。

 そもそも、間違いなく離婚していたと思う。


 もちろん、今もリーナとフィリウスの関係は「白い結婚」のままではあるのだけれど、ほんの少しとはいえ心を通わせることができた気がするのだ。


「フィリウスさまって優しいですね」

「私は決して優しいと呼ばれる部類の人間ではないと思うのだが……リーナはそう思うのか?」

「はい。わたしには勿体(もったい)ないくらい優しい方だな、と思っております」

「君の瞳にはそう映っているのだな。先ほどは怖いと言っていたが、どっちなんだ?」

「わたしのせいで怖いと思われるのが怖いんですっ!」

「悪い悪い。からかってすまなかった」


 笑いをこらえられなかったのか、突然軽く噴き出したフィリウス。

 リーナとしては正直な感想を口にしただけなのに、いたたまれない。


 笑顔なのはいいことだけれど、今日のフィリウスはさっきからちょっと笑いすぎだと思うのだ。


「わたしは本気で言っているんですよ?」

「知っている。君は他者をむやみやたらと褒めるタイプではないだろう。むしろ嘘は苦手な方だ」


 断言するフィリウスに「そんなことはない」と言いたかったけれど、やめた。

 ここで反論したところで、彼ならすぐに証拠を突きつけてくるだろう。こういう時は(うなず)いておくに限る。


 自覚していないだけで、きっと彼の紫水晶の瞳にリーナはそう映っているのだから。

 そんな風に思い直してフィリウスの顔を見ると、いつの間にか彼の視線は机の上に広がっているリーナのノートに向けられていた。


「今日は地理を学んでいたのか」

「はい。南西の方に半島があるとは聞いていましたが、別の国だったのですね」

「そうか……君は貴族令嬢として生を受けながらも、まともに教育を受けさせてもらえなかったのだな。だから気にすることはない。──あの馬鹿兄はいつも人に絡んでくるのに、今回ばかりはまだ帰って来ていないのが解せないな」

「はい?」


 今、何かフィリウスの口からいつもの彼とは思えないような言葉が聞こえてきたような気がしたけれど、気のせいだろうか?

 半島に何の関係があるのかもわからないし、勉強したこともないから聞き取れなかったのだと思う。


「あの、フィリウスさま。今何と──」

「いや……君の筆跡は綺麗だな、と」

「ひっせき?」


 ものすごくはぐらかされた気がする。

 リーナの言葉に頷いたフィリウスは、リーナがユスティナから聞いた話をまとめたノートの文字の上を指でなぞっていく。


「君の文字は本当に読みやすくい。様々の資料や決済書類を送ってくる文官どもも君を見習ってくれたらいいのだが」

「そ、そうなんですね……。大変ですね」


 眼鏡を軽く持ち上げながら「ども」だなんてちょっと悪ぶった言い方をするから、どう返せばいいかわからなくて困ってしまった。

 それでも、今日のフィリウスは心なしか、昨日までリーナが見てきたフィリウスと違う気がする。何というか、これまでよりもリーナに気を許してくれているような。


「本当のことだ。はじめてここにやってきた日のサインの筆跡も見事だった」

「あ、ありがとうございます?」

「両殿下、お茶の方をお持ち──相変わらずですね。今朝といい何度」

「カール。私はリーナの勉強の進み具合を見ているだけだ。これは夫としての義務だ」

「はいはいわかりましたよ夫としての義務とやらを果たしてください」


 顔を上げると、そこにはティーセットが置かれたワゴンと、それを押して来たらしいカール。


 ティーカップを置く場所を開けるために教科書とノートを閉じて、端に寄せる。

 やれやれと肩をすくめながらも横からフィリウスと自分の分のお茶を準備してくれた彼に笑顔でお礼の言葉をいえば。


「妃殿下、やめてください。私が殺されます」

「はい?」


 そう言ってフィリウスの後ろ側へとすっと移動するカール。


 一瞬、カールの言葉が意味するところがわからなかった。

 けれど、彼の言葉にフィリウスの口角が上がったので、きっとカールはこうした冗談で場の空気を柔らかくしてくれているのだろう。


 フィリウスにならってリーナもより一層笑顔を深めると、それにあわせるようにフィリウスもまた笑顔になり、カールはさらに微妙な顔になっていく。


 リーナの知らないフィリウスの日常を知ることができたようで嬉しい。

 それに、自分が笑顔になるのに合わせて彼も笑顔になってくれていると──少しぐらい、うぬぼれてもいいのだろうか?


 けれど一番知ってほしい「すき」という感情だけは。──それだけは彼に隠しておかなければ。


 だって、きっと「白い結婚」を前提にしている彼がもしリーナのこの気持ちを知ってしまったら──どうなるかなんて、考えなくてもわかることだ。


 ついうっかり言ってしまいそうになる雰囲気に()み込まれないよう、リーナは熱々の紅茶と一緒にその言葉を心の奥底へと飲み込んだ。



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