38.懐古(sideフィリウス) (1)
大変お待たせしてしまい申し訳ございません。
引き続きリーナたちの物語を楽しんでいただけましたら幸いです。
レーゲ王国の王城の一角。
まだ日も昇らない早朝の廊下、執務を行うために設けられた部屋が集まる区画に人影がひとつ。
彼は慣れた手つきでそのうちの一室を開けると、さっと室内へと入りこむ。
扉の鍵は開けたままに、これまた慣れた手つきで灯りをともせば、室内はぱっと明るくなった。
眩しそうに目をこするのはこの部屋の主であり、このレーゲ王国の第二王子フィリウスだ。
彼は昨日、自身の妻である──本人にはその自覚があまりないようであるが──リーナの誕生日を祝うためのパーティーを開いたばかりで、端的にいって睡眠不足だった。
彼がなぜ国じゅうが静まり返るような、朝日も昇ってきていない早朝と言うにも早い時間に起きているかといえば。
「早急に調べなければ。間違いなくリーナがジャガイモ好きだと知った上でのことであろうな──毒入りのジャガイモを送ってくるとはいい度胸だ」
挑戦的な笑みを浮かべたフィリウスは自身の妻、リーナとの出会いを振り返っていた。
♢♢♢
フィリウスがリーナと会うことになったきっかけは、両親が「整えた」縁談だ。
兄夫婦も国家間の交流のために隣国へと出立してからしばらくしたある日。
よく晴れた秋空の下、両親と三人きりでささやかなお茶会をしていたフィリウスにとって、その婚約話は寝耳に水もいいところだった。
「フィリウス。お前もそろそろ身を固めてはどうだ?」
「陛下、お戯れを」
「第二王子だから子をなさなくてもよいというわけではないのだぞ。それに私を父上と呼ぶ気にもなろう」
「そちらが本音ですよね?」
「うっ……。じゃが、それとお前が結婚するしないの話は別じゃ。手遅れになる前に、このリストの中から──」
「お断りいたします。陛下はわかっていない」
紅茶がなみなみと注がれたままのカップを呷る。
カップをテーブルに戻し、立ち上がろうと足に力を込めたちょうどそのとき、ベネディクトから待ったがかかる。
「お主、またカールと部屋に閉じこもろうとしておるじゃろ。そんなだから男色の噂が立つのだ」
「その方が都合がよいので」
「儂らにとってはちっともよくない。……なら言い方を変えよう。これは命令だ」
「は? お断りしますよ」
腰を上げ切って完全に乗り気ではないフィリウスに、ベネディクトはなおも言葉を続ける。
「お前なら断るのは想定内だ」
「だったら何ですか陛下」
「今は非公式の場なのだから、父上と──」
「相変わらずですね。要件がないなら茶会はこれで終わりです」
「要件なら先ほどからあると言っておろう!」
茶菓子を持った手を机にドンと叩きつける。ああ面倒だ。
普段は温厚な父だが、一度こうと決めたら頑固なのだから仕方がない。特に父上呼び談義に至っては、本題とは関係がないタイミングでも挟み込むようになって十年以上になるだろうか。
フィリウスはいつの間にか再び注がれていた紅茶をまたしても飲み干すと、カップをソーサーに戻して今度こそテーブルに背を向けた。
「待て、どこへ行くつもりだ! まだ話は終わっていない」
「縁談は要件に入りません」
「国王命令だというのが耳に入らぬのか? そろそろお前も身を固め、一人前になるべきだとは思わないか?」
「思いません。私は兄上が王になるべきだと考えておりますので」
国王夫妻が頑ななフィリウスに手を焼いたのはこれがはじめてのことではない。
王族であるフィリウスは本来ならもっと幼いうちから婚約していてもおかしくないのだが、当の本人は幾度となく縁談をのらりくらりと躱してきたのだ。
「もう……。本当に貴方は頑固ね。一体誰に似たのかしら」
「む……こちらを見ずともよいであろう?」
「お二人の惚気を見ているぐらいなら、執務室でカールと仕事を片付けた方がマシというものです」
「待て。部屋に帰っても無駄だ」
いよいよしびれを切らしたフィリウスが、部屋に戻ろうと歩きだしたところをベネディクトの言葉が引き留める。
フィリウスは両親の方を心底嫌そうな顔で振り返った。
「何ですか? 本当に忙しいのでこの程度で呼び出されただけでも困るのですが。私は義姉上の穴埋めではありません」
「フィリウス、もう国王命令としてご令嬢の家にお前が出向くから迎え入れるようにと既に伝えてある」
「は?」
了承した覚えのない話に、思わず口をあんぐりと開けそうになって、閉じる。
今の表情をレックス──兄に見られていたら揶揄われて話のタネにされていたことだろう。
兄が帰ってきた時にばらされても面倒なので、大人しく先ほどまで座っていた席に戻り腰を下ろした──が。
フィリウスの表情は、彼自身でもわかるほどに剣呑なものになっていた。
「陛下、まさか私が一人前になるか否かなどという理由で国内に政治問題を大々的に巻き起こすつもりではありませんよね?」
「お前は儂がそのようなヘマをすると思っておるのか? こう見えてももう何十年と国王をやっているのだぞ」
「母上とのご様子を拝見していれば、陛下の選んだご令嬢など不安要素しかないのですが」
フィリウスが三度カップに満たされていた紅茶に口をつけようとカップを持ち上げたそのとき、ベネディクトもまた勢いよく立ち上がった。
「フィリウス。たとえ息子といえど、我が妻を侮辱するのは」
「今の言葉のどこにそのような要素が? しいて言えば陛下に対してということになるでしょうが」
「ふむ。それなら──いや、よくない! 敬っていないのに陛下と呼ぶのは認めぬ! 今日から! 父上と!」
「そんなことはどうでもいいので早くそのご令嬢がいかに私の婚約者にふさわしいのかの説明をしてはいただけませんか? 私も忙しいので」
フィリウスがより一層不機嫌な表情で詰め寄ると、ついに観念したのかベネディクトは降参と言わんばかりに頭に手をあてる。
「お前の婚約者だが──アグリア辺境伯家のリーナ・アグリア嬢だ」
瞬間、フィリウスの中でもともと地べたを這うほど低かった父親に対する株が、地面を突き抜けるぐらいにまで急降下した。
「カール、そういうわけで一ヶ月ほど留守にする。お前には迷惑をかけるな」
「いえ。全ては殿下が一人前になるためという国王陛下の粋な計らいゆえですので。それにしても殿下も随分と丸くなられたものですね」
「お前……」
お茶会の後、執務室に戻ったフィリウスは、念のためにアグリア辺境伯家について調べたが──やはり思い違いではなかった。
何年前からかは不明だが、少なくともここ数年はどう考えても違法な額の税を取り続けているのが明らかだった。
しかも同時に、どうやら国からの補助金も着服しているらしい。
財務大臣は辺境伯夫人の実家の当主であるヴァスタム伯爵が担っているので、不正をしようと思えば余裕だろう。
だがこれほど簡単に分かってしまう不正の証拠が野放しにされているとなると、ヴァスタム伯爵にとっては自身の娘のことなど、どうでもよいことなのかもしれない。
それにアグリア家が散財をしているという噂もフィリウスも耳にしていた。
そんな家の娘と結婚させようと考える両親。間違いなく裏がある。
「殿下、そんな顔をしていかがなさいました? ペン先がいつもよりゆっくりなようですが……もしや、一人前になりたくないとかそういうことで?」
「よりによってアグリア辺境伯家を選ぶとはと思ってな。それにあと数枚だ。時間はかからないだろう」
「お相手は先代当主の遺した娘のようですよ。もしかしたら陛下は殿下にせめて、と国内のゴミ掃除を期待されているのでは? 辺境伯令嬢ともなれば身分に問題はないでしょうし」
「ゴミ掃除、か。言い得て妙だ」
「生まれが平民の私と高貴なご身分の殿下の間にはきっと埋まらない差があるのでしょう。ですが、幸いにもこうして殿下のご多幸をお祈りすることはできます」
決済が必要な書類すべてにサインを終えると、ペン立てにペンを戻し、立ち上がる。
「振って来る。書類仕事もしなくていい分休暇だと思ってせめて楽しんで来よう。迷惑をかけるな」
「さすがは殿下。振ってらっしゃいませ」
この時は顔も見たことがないリーナに惚れ込んでしまうなどとはまったく思っていなかったフィリウスは自身の側近と拳を軽く突き合わせ、互いの健闘を祈った。