31.妃教育一日目
次の日。
リーナはいつもより早く目を覚ましてしまっていた。
前日のことが忘れられなくて、寝室の端に用意されたサイドテーブルに備え付けられた肘置きつきの一人掛けソファで、前日のお出かけのことを思い出してはひとり悶えている。
「フィリウスさ……フィリウス殿下。殿下……。殿下……」
「フィリウスさま」と口にしかけて一瞬、頬がだらしないことになっていたことに気がつく。
前日、夕食の時にジュリアから聞いた話によると、今日からリーナは今度こそ本当にフィリウスの執務室で妃教育を受けていく予定になっている。
ちなみに、その時に無事お菓子を渡すことにも成功した。
はじめての贈り物が喜んでもらえて安堵したけれど、やはり今度何か機会があったらフィリウスにもあげたいと思うリーナであった。
それはさておき。
今日から妃教育を受けるということは、ほぼずっとフィリウスの目の届くところにいることと同義だ。
というわけで自身の恥ずかしい表情をフィリウスに見せたくなかったリーナは、目を覚ましてから今の今まで一生懸命自身の顔を整えている最中だった。
壁とにらめっこしながら「殿下」と繰り返し小声でつぶやいていると、規則正しいノックが響く。
「リーナ様。ジュリアです」
「でんっ──。入って」
「失礼いたします。おはようございます、リーナ様」
リーナは椅子から立ち上がると、今日も今日とて早速ジュリアに持ってきてくれたドレスに着替えさせてもらう。
今日からいよいよ妃教育が始まる。
ユスティナ・ヴィカリー公爵夫人。彼女はこの王城にリーナが来た初日に厳しい視線を向けてきた宰相、オクシリオ・ヴィカリー公爵の妻らしい。
「緊張していますか?」
「ええ。あの公爵閣下の奥様だと聞いたもの。緊張しないはずがないわ」
思わず不安を吐露してしまう。
と言いつつもリーナが緊張してしまう理由はおもに他のところにあった。
フィリウスの顔を見たら頬が仕事をしなくなってしまいそうで怖いのだ。けれど、そこまで言うのはさすがに憚られたので、心の中にとどめておく。
その後隣室に用意された朝食も、緊張のせいか今日はまともに喉を通らないのだから重症かもしれない。
幸か不幸か、今日はフィリウスも朝食の席には来なかった。
何とか食べることができたのは少しのパンとジャガイモ料理、それから紅茶。
王城に来てはじめて皿を空にせずに返すことになるのは心苦しかったけれど、こればかりはリーナにもどうしようもなかった。
半ば空腹のままフィリウスの執務室に向かう。
入口の扉は解放されていて、リーナの来訪に気づいたカールと軽く会釈を交わすと、それを合図にしていたのかと思うほどぴったりのタイミングでフィリウスの顔が上がる。
「おはよう」
「おはようございます」
執務室の入口。リーナは綺麗な礼を披露したつもりだった。
けれど姿勢を正してみれば、そこにはずんずんとこちらに向かってやって来るフィリウスの姿があった。
「どうした? 元気がないようだが」
「き、昨日のお出かけが楽しすぎてゆっくり眠れなかったんです」
リーナの答えに、フィリウスは目をしばたたく。
それからやや間があって、ようやくリーナの言葉の意味を理解したらしい。目を見開いたかと思えば悲しそうな顔で、壊れ物を扱うように優しくリーナの頬に触れた。
急なことだったからか、心の準備ができなくて肩が跳ねた。
「楽しいと言ってくれて嬉しいような、君がゆっくり眠れなくて悲しいような……。妃教育よりも君の体調の方が大切だ。カウチソファに──」
「や、やめておきます。頑張れますから」
「……そうか。だが無理だけはするな。いいな?」
「わかりました」
流れるようなフィリウスのエスコートを受け、リーナはいつもの特等席へと案内される。
リーナが小さくお礼を言うと、フィリウスは自身の執務机へと戻って作業の続きを始めた。
姿勢を正したまま待つことしばらく。カツカツと、踵の高い靴の音が廊下から響いてくる。
その音が部屋の前で止まると、開かれたままの扉を通って入室してきたのは、フィリウスそっくりの銀色の髪を後頭部でシニヨンにひとまとめにしている女性だった。
値踏みするような青い目をした彼女と視線が合う。けれどそれは一瞬のことで、彼女はすぐにフィリウスの方へと視線を戻した。
執務机を挟んで立ち止まった彼女が披露したのは、寸分の隙も感じさせない淑女の礼だった。
「オクシリオ・ヴィカリーが妻、ユスティナでございます。このたびは陛下直々の命により──」
「叔母上。そのような茶番は不要です」
「あら、茶番。フィリウス殿下にも教育が必要みたいですわね。そもそも──」
姿勢をもとに戻したユスティナによって突然始まった課外授業ならぬ課前授業。
けれどフィリウスは涼しげな表情で無視しているので、もしかしたらこれはいつものことなのかもしれない。
「フィリウス殿下。貴方がこれでは、リーナ妃殿下の品位も疑われてしまいますわ」
「叔母上、お言葉ですがリーナ嬢を虐めるなら私が許しませんよ」
「心配なさらずとも、執務室で妃教育を受けさせる──などということを考える殿下の未来を憂いているだけですわ」
そこで一息ついたユスティナは、ついにリーナの方へと身体ごと振り向いた。
青色の瞳に見つめられると、すべてを見通されているような錯覚に陥る。
「貴女がリーナ妃殿下……。いえ、リーナお嬢様と呼んだ方がよろしいのかしら?」
「ど、どちらでもお好きなようにどうぞ」
「そう。……まともな教育も健康的な食事や衣類も、何も与えられなかった貴女にはほとんど一から教育が必要なようですわね」
獲物を見つけたことを喜んでいるかのように青色の瞳が細められる。
リーナも内心、その表情に思わず震え上がってしまったけれど、顔には出ていないと思いたい。
「叔母上。彼女は私の妻だ。その呼び方は──」
「何ですか? わたくしが臣籍降下したから……だなんて言葉で説得できるとお思いでいらっしゃるなら、受け入れられませんわ。まだ敬う以前の問題です。リーナお嬢様、まずは貴女のお誕生日会に必要なジュエリーを選びに行きましょう?」
「叔母上。この部屋から──」
「リーナお嬢様を連れ出さないでほしい、と? 約束だから、と。フィリウス殿下は気にせずお仕事をしていてくださいな。わたくしは、一足先に彼女のドレスをお義姉さまと見る約束をしておりますの。……それでは行きましょう、リーナお嬢様」
立ち上がるように促されたリーナは、それに従うしかない。ここで従わなかったら、後が怖いというか。
再び腰を深々と折ってお辞儀する。
「行ってまいります、殿下」
「気をつけて行ってくるのだぞ。危険を感じたら逃げるように」
「は、はい。かしこまりました」
逃げるように。その声は冗談ではなく本気で言っているかのようで。
過去の二人の間に何があったのかちょっと心配になってしまったリーナであった。
城内の一室。
ユスティナに連れて来られるがままに到着したそこに待っていたのは。
「王妃殿下……。おはようございます」
「おはようリーナ。待っていたわ」
「お義姉さま、お久しぶりです」
「ユスティナも息災のようで何よりだわ」
複数人掛けのソファの中央に腰を下ろしていた、パトリシア・レーゲンス王妃殿下だった。
今日も整えられたプラチナブロンドの髪の色こそフィリウスとは違うけれど、紫の瞳はどことなく彼に似ている気がする。
彼女は手にした扇を広げると、リーナたちにローテーブルを挟んだ正面の椅子に座るようにと促した。
リーナが入口に一番近いソファに座ろうとすると、ユスティナの叱責が後ろから聞こえてきた。
「リーナお嬢様には王族としてのご自覚が欠けていらっしゃるようですわね」
「すみません」
「ユスティナ。これでもリーナはわたくしの義娘よ。あまり虐めないであげて頂戴」
「フィリウス殿下といいお義姉さまといい、やはり親子ですわね」
「──それは重畳。いえ、何でもないわ」
そういうわけで、リーナがそのまま奥の席まで移動して座ると「及第点です」という言葉と共にユスティナが腰を下ろす。
「持ってきて頂戴」
「かしこまりました」
パトリシアの一言で侍女が退室していく。
「まずはドレスを見てから、それに合うジュエリーを選ばなくては、ね?」
パトリシアとユスティナ。この二人には絶対に逆らってはいけないのだと、リーナの心の中にしっかりと刻まれた。




