30.「わたしの夫に手を出さないでくださる?」
昼食を終えたリーナたちは、お忍びの格好のまま再び王都に繰り出した。
指先がまだ少し熱を帯びている気がするのはきっと気のせいだ。
フィリウスには聞かれないように、こっそりと心の中でそう言い聞かせる。
ちなみに、御者兼護衛の人は店を出てからも二人から少し離れてついて来てくれていた。
「折角だ。この際だから他に行きたいところはないか?」
言われてみれば、こんな服装で歩き回る機会なんて滅多にない。
けれど、またあのジャガイモ専門の食堂に行きたいと思ってしまうわけで。
「そうですね。お忍び用の服を買いに行きたいですね」
「箪笥の肥やしになると思うが……思い出作りだと思えば悪くはない、か」
フィリウスの難しい顔に、これはダメだと反射的に理解したリーナは、頭の片隅の思いつきを提案してみた。
「で、でしたらジュリアに何かお土産を買っていきたいです」
「そうか。なら折角だし私もカールに何か買っていってやることにしよう」
本当はフィリウスに買いたいけれど、今リーナはお金を持っていない。
買い物経験はほとんどないけれど、買ってもらったものを本人に「プレゼント」と言うのは、さすがにいけないとわかっているので今回は我慢することにした。
何を買いに行こう、と相談する二人。
それからああでもない、こうでもないと相談しながら、ウィンドウショッピングを楽しみながら街を歩くこと数時間。
いつの間にか、リーナの足は棒みたいになってしまっていた。
こんなにずっと歩き続けたのはいつ以来だろう?
アグリア邸で小屋暮らしをしていた頃でも、ある程度動き回って疲れたら、適当に腰を下ろしていたのだ。
疲れのたまったリーナに、救いの手が差し伸べられる。
「リーナ嬢。そろそろどこかで休まないか?」
「! わたしも休みたいとちょうど思っていたところです」
「あそこにカフェがある。休憩にはちょうどいいだろう」
歩いていくと、フィリウスが示していたのはちょうど広場の端、大通りとの境の数階建ての大きな建物に入っているカフェだった。
近づいて中を覗いてみれば、中はカップルや女性客で賑わっていた。
内装はかわいらしくて、先ほどのジャガイモ専門の食堂よりも上品な雰囲気だ。甘くていい匂いもする。
フィリウスの好みとは思えないけれど、彼も店を選んでいられないぐらいに疲れているのかもしれない。
「行きましょう、フィリウスさ──」
隣にいるフィリウスの方を向いたはずが、そこには誰もいない。
辺りを見回せば、ほんの一瞬の間に彼は見ず知らずの女性たちに囲まれてしまっていた。
フィリウスはものすごく嫌そうな表情をしているのに、彼女たちは気がついていないらしい。
その中でも特に、金色の髪をしたやや長身の女性は強くフィリウスの腕に絡んでいた。帽子を目深にかぶっているようで、顔までは見えない。
それが「嫌」で、見たくない。
一瞬、どうしてそんな感情が沸き起こったのか理由がわからなかったけれど。
彼女たちのせいでフィリウスの表情が曇っているのが「嫌」なのだと──リーナがそう納得するまでに時間はかからなかった。
とにかく、一刻も早くこの状況を解消したかった。
「ねえ、あそこのカフェで──って何探してるの?」
女性たちのことは気にも留めず、何かを探すように周囲を見回すフィリウス。
リーナの視線が彼の紫水晶のそれと交わると、彼の表情はとても申し訳なさそうなものに変わる。
たちまちリーナまで申し訳ない気持ちになってしまった。
リーナを暗くて狭い小屋から連れ出してくれたフィリウス。彼は色々なものをくれたのだ。
居場所、清潔なドレス、温かい食事……上げていけばきりがない。
リーナは彼から何かを受け取るたびに思ったのだ。
彼にどうすれば恩を返せるのか、と。今まで、完璧な彼にお返しをする方法なんて、リーナはひとつも思いつかなかった。
けれど今、彼は間違いなく助けを必要としている。
誰に何を言われたわけでもないけれど、リーナはそう直感した。
一歩ずつフィリウスたちのもとへと歩みを進める。
やがてほとんどギリギリのところまで近づいていくと、帽子を深くかぶった女性もリーナの存在に気づいたらしい。
「ごきげんよう」
「ごきげん……よう? は? あんた何様よ。そんな貧相な服を着て……ほら子供は家に帰りなさい。ここは遊び場じゃないんだから」
「フィリウスはわたしの夫です。返してください」
「なっ、何よ地味なあんたよりもあたしの方が──!」
「わたしの夫に手を出さないでくださる?」
「リーナ……」
リーナが重ねて笑顔で圧をかける。
フィリウスはリーナに呼び捨てで呼ばれたことに喜んでいるのだが、この場を収めることに一生懸命なリーナは、自分が彼の名を呼び捨てにしたことに気づいていない。
もちろん、彼から「リーナ」と呼び捨てにされたことすら気づいていなかった。
「アンタみたいなただの町娘の分際で──」
すっかり怒りの感情に身を任せてしまったらしい女性が、リーナに向かって拳を振り上げる。
リーナは殴られるのを覚悟して縮こまったけれど、いつまで経ってもその衝撃は訪れない。
再び目を開けば、そこには女性の腕を軽くひねり上げるフィリウスの姿があった。
「ちょっと! 離して!」
「今私が止めていなければ、其方は今頃憲兵に引き渡されていただろうな。それとも差し出されたいか?」
フィリウスの言葉に冷静になったのか、腕を解放された女性は振り上げた拳を下ろす。
それでも、彼は相変わらずリーナに手を上げようとした彼女に厳しい視線を向けていた。
「其方は何者だ? 何の目的があってリーナに手を上げた?」
「それはもちろん、もちろん……。伯爵の娘よ」
一瞬変な間が空いたけれど、フィリウスは追求しないらしい。
……とリーナは思ったけれど、それは間違いだったようで。
「では、其方の家の家名は?」
「家名っ!? ……伯爵家よ!」
女性の言葉に、顎に手をあてて考え始めたフィリウス。
一瞬悩んでいたように見えたけれど、それは本当に一瞬で。間違いなくこれはもう答えが出ている時の顔だ。
「ハクシャク家などという家名はこのレーゲ王国には存在しない。そもそも、貴族だというのに家名を名乗らないとはな」
「そ、そんなの言いがかりよっ!」
「言いがかり、と言うのなら証拠を見せてもらおうか。先ほど伝えた通り、其方を暴行未遂、重ねて身分詐称の容疑で憲兵に差し出しても問題はないのだが。まさか伯爵令嬢ともあろう者が私の顔を分からないということはないだろう」
「……ひっ! ごめんなさい、もうしませんので許してください……!」
赦しを求めるように慟哭を繰り返す女性。
助けてくれたのは嬉しい。けれど、助けに入ったつもりが助けられたという事実は変わらないわけで。
もうこれ以上、フィリウスに迷惑をかけたくなかった。
「そのくらいにしてあげてください」
「なぜ? 君を殴ろうとした者は、いかなる身分性別であっても罰するべきであろう?」
「きっとその人も反省していますから。ね?」
リーナが手を上げようとした女性に笑顔でそう優しく問いかけると、彼女は堰を切ったように泣き始めた。
リーナが軽く腰をかがめると、帽子の下に隠れていた彼女の瞳と視線が交わる。
刹那、リーナの背筋を走ったのは、悪寒。
その姿が、その表情が、リーナから様々なものを奪っていった義妹のマリアと重なる。一刻も早くここを去りたくなってしまった。
「だが、泣き落としを……」
「早くしないとカフェに入れなくなってしまうかもしれませんし」
「……そうだな。非常に不本意だが、今回は罪に問わないでおいてやろう。だが覚えておけ。次はない。リーナに感謝することだ」
そう言い残すと、フィリウスは先ほどまで彼を囲んでいた女性たちには見向きもせずに、リーナを流れるような動作でエスコートしてその場を離れた。
「行こうか」
「はい」
下町の広場には、三人の女性が茫然と立ち尽くしていた。
♢♢♢
「えっ。もう入れないのですか?」
「まことに申し訳ございません。ただいま満席でして……」
やっと入ったカフェは、満席。中に入る前にもう少し確認すればよかった。
店の中に入った二人は、玄関で案内係から頭を下げられていた。
「ジュリアにお土産を買っていってあげようと思ったのに」
「お持ち帰りでございますか? でしたら今すぐご案内できますが、いかがなさいましょう?」
途端に目に見えて明るくなる店員の表情。
最初からそのつもりだったので、リーナたちとしては何の問題もない。
というわけで二人は早速、それぞれお世話になっているジュリアとカールのことを思い浮かべて、プレゼントするお菓子を選んでいく。
けれど顔を思い浮かべてもジュリアの好みがわからなかったリーナは、何種類かお菓子を選んで詰め合わせてもらうことにした。
ひとまず満足な買い物ができたその日の夕方。
貸衣装店でもとの服に着替え直した二人は、王城までの帰り道を馬車に揺られていた。
「お疲れ様。王都はどうだ?」
「? とてもいいところだと、思いました」
「そうか。それならカールに負けずに丸一日休みをもぎ取ってよかった」
「あははは……」
リーナの苦笑に、フィリウスもまた苦笑で返す。
ちょっと嫌なこともあったけれど、そんなことがささいなことに感じられるぐらいに充実した時間を過ごせたと思う。
「今日注文したドレスとは別に、宝石もまた宝石師を王城に招く予定だ。その時までにどのようなものがよいか、考えておいてほしい」
「かしこまりました。殿下」
この時のフィリウスは(もう一度フィリウスと呼んでほしい)とか(またリーナと呼びたい)などと、煩悩だらけのことを考えていたのであるが、リーナは。
(うっかりお城でフィリウスさまと呼ばないように気をつけないと……!)
まったく反対のことを考えていたのであった。