3.久しぶりの領主館
本日(8月19日)は投稿初日につき3話まで公開しましたが、次話以降は1日1話投稿とさせていただきます。
(久しぶりね……)
リーナは使用人のアルトと従妹で義妹のマリア、そしてこの国の王子様──お客さまのフィリウスと共に、久しぶりにアグリア辺境伯邸の本館へと足を踏み入れた。
ここ最近一度も立ち入ったことのなかった館内は以前と変わった様子もなく、相も変わらず豪奢なシャンデリアがぶら下がっていたりと、まるでどこかのお城のようだ。
(こんな辺鄙なところには似合わないぐらいに豪華なのよね。フィリウス殿下にとってはそうでもないのでしょうけれど……)
「豪華だな。税収は……収穫は安定しているのか?」
突然フィリウスから話題を振られたリーナだったが、返答に窮してしまう。
「申し訳ございません。わたしもマリアも政務に携わっておりませんので存じ上げなくて。そういった事情は義父が詳しいかと」
「それもそうか……」
リーナもマリアも、イグノールの意向で本格的な識字教育を受けさせてもらえなかった。
いわく、女子は勉強ができないぐらいがかわいいのだと……彼が言っていた、とセディカが言っていた。
けれど、本当の理由をリーナはなんとなく理解している。
まだリーナが邸内で暮らしていた頃は、マリアにもリーナにも教育係がつけられていたのだ。けれど、やがてマリアの教育係が根を上げた。
いわく「お嬢様はすぐ泣いてお勉強が進まず、それにもかかわらずお給料をもらうわけにはまいりません」とのことだったらしい。
「おねえさまの先生がいい!」と言われてリーナの教育係がマリアの勉強の面倒も見ることになった。けれどマリアが「おねえさまは褒めるのに、わたしばかりに嫌がらせしてくる」という理由で、その先生もクビになった。
それ以来リーナが知る限りは二人に先生がついたことはない。
マリアは喜んでいたけれど、「それはよくないのでは」と思ったリーナはこっそり、平民なのに物知りなアルトに木の棒で地面に書いてもらったりして教えてもらっていたのだ。
なので、文字は読めるし計算もできる。
税収の資料は領主しか見ることができないからリーナは知らないけれど、計算をするように言われたらある程度は処理できる自信がある。それはさておき。
「マリア。お義母さまはどこにいらっしゃるかわかる?」
「……あそこ」
四人はマリアが指さした扉の前で止まると、アルトが扉をノックする。
リーナはそっと、部屋の中からは見えない位置に移動した。
「なぜ隠れる」
「殿下もご存知の通り、本日わたしはあの小屋にいるはずですので」
「旦那様、奥様。マリアお嬢様と殿下をお連れしました」
しばらくすると「入れ」と低い声が響く。
フィリウスはリーナの方を向いているが、リーナは首を振った。
これで、何とか怒られずに済んだ。あとは隙を見てこっそりとあの小屋に戻るだけだ。
アルトが部屋の扉を開くとマリアが、続いて一瞬だけリーナの方を見たフィリウスが室内へと入っていく。
礼をして廊下に出たアルトが部屋の扉を閉めると、室内からはマリアが大泣きする声が聞こえてきた。
「リーナお嬢様。戻りますか?」
「ええ。でも、もう少しだけ、このまま──」
扉に身体を押し当てて、室内の会話に耳を立てる。
立ち聞きがマナー違反だというのはわかっている。けれど、マリアがフィリウスに迷惑をかけないか。それだけが心配だった。
──正確には、両親の愛したアグリア領が解体されないか。ただそれだけが。
最初に聞こえてきたのは、お義母さま──叔母のセディカが憤慨している声だった。
「まあ! リーナが王子様が迎えに来たのはわたしだと言ってあなたを傷つけたのね!? マリア、あなたは悪くないわ。わたしが王子様だったらそんな女と結婚なんてしたくないもの。あなたみたいに、かわいい女の子がいいわ。──ですよね? フィリウス殿下?」
部屋の中が沈黙に包まれたらしい。
今、部屋の中でも外でも、この場にいる誰もがフィリウス殿下の答えを待っていた。
「夫人。失礼ながら、リーナ嬢は」
「ええ。あの子ったら恥ずかしがり屋さんで。自分が悪いことをしているとわかっていてやっているのだから、たちが悪いわ。けれど、自分を恥じて殿下の前には一生姿を現さないぐらいには利口な子のはずです。もっとも、利口とはいえ王家に嫁ぐにはまったく足りません。そういうわけですから、辺境伯家としてはリーナは差し出せません。一族の恥さらしですもの」
「つまり何が言いたい? リーナ嬢ではなくマリア嬢と結婚しろ、と?」
「その通りです。この通り、マリアは心根の優しい子ですから」
待ってほしい。リーナとしては色々と言いたいことがある。
もうすでにフィリウスの前に姿を現してしまった。
けれど我慢しなければ。今ここで出て行ってはすべてが台無しだ。
「フィリウスとリーナを結婚させる」という陛下の意向に背いた上、嘘をついていたとなれば、両親の愛したアグリア辺境伯家お取り潰しまっしぐらに違いないのだから。
やがて、フィリウスの返答が漏れ聞こえてきた。
「そうですね。マリア嬢の方が、話を正面から聞く分まだ礼儀正しいのでしょう。いくらか、ではありますが」
「殿下! マリアを馬鹿にしているのですか!? マリアはっ──」
「セディカ、やめなさい。殿下はリーナよりもマリアの方が礼儀正しい、とおっしゃったではないか。殿下……どちらへ?」
「はい。褒めております。私は少々廊下に用がありまして。盗み聞きをするのは褒められたことではありませんからね。──きちんと注意をしなければ、と思いまして」
「きゃっ」
フィリウスの言葉と共に扉が内側から開かれる。
急なことに驚いてしまったせいで、思わず声が洩れてしまったリーナ。
その声に気が付いたセディカは、声を荒らげた。
どうやら廊下に立っていた二人の姿が彼女の目に入ったらしい。
「まあリーナ! お前にはあの小屋にいるように、とアルトを使いにやったはずよ! アルトもなぜ連れ出しているの! また食事を抜かれたいのかしら!?」
「奥様、今は殿下の御前です。どうか落ち着いて──」
「これが落ち着いていられるものですか!? 殿下、この通りその女は天罰が下った前辺境伯の娘というだけあり、マナーもなっておりません。そのような女が王家に嫁ぐとなれば、一族末代までの恥さらしですし、国もまた神の怒りに触れて衰退の一途をたどるでしょう」
「その教育を受ける機会を彼女に与えなかったのは、お前と現辺境伯ではないか? それに、今の言葉は彼女を指名した陛下への侮辱とも取れるが」
フィリウスの言葉に言い返せないのか、セディカの声が途切れる。
会話の内容にリーナが唖然としていると、何者かに腕を引っ張られた。
その手の主を見れば、フィリウスだった。
「え、あの、殿下」
「名で呼べ。フィリウス、と」
「そのような無礼はいたしかねます……!」
そう言えば、フィリウスの口元が弧を描く。
その意味が理解できないリーナが戸惑っていると。
「どうやら、お前たち夫婦は姪のことよりも、自身の娘への教育が足りていないらしいな。謝罪し、訂正しよう」
「でしたら、ぜひその女ではなくマリアを──」
「より教育の足りていない娘を王家に嫁がせる方が末代までの恥だと思うが──アルト、といったか。どう思う?」
フィリウスの考えに一瞬納得してしまった自分に驚いたリーナ。
けれど、騙されてはいけない。長年小屋暮らしをしていたリーナよりも、マリアの方が城での生活に早くなじむことができるはずだ。
アルトならわかってくれるはず。そう思ってアルトの目を見つめれば、彼はいつも通り頷いてくれた。よかった。
けれど、リーナがそう安心できたのは、ほんの少しの間のことだった。
「殿下。僭越ながら──私もそう思います」
瞬間、室内の空気が凍り付いた。