27.ドレスショップにて(1)
王城を出発してからどれくらいの時間が経ったことだろう。
ようやく馬車が止まると、扉が開かれフィリウスが降りていく。
外から差し出されるフィリウスの手。
席から立ち上がったリーナはそれを掴み、ゆっくりと馬車を降りる。手と手が触れ合ったほんの一瞬だけではあるけれど、心臓が再び大きく跳ねた。
頬に熱が残っている気がする。でもこれくらいならフィリウスにも気づかれないはず、とこっそり心の中で祈る。
「これが、王都──」
はじめて降り立った王都の街路に、思わず周囲を見回してしまったリーナ。
馬車で通り過ぎた時は壁一枚隔てられていた世界が目の前に広がっている。
一段落して、フィリウスが隣にいたことをようやく思い出す。
彼の方を見れば、少しだけ口角が上がっているように見えた。子供のような姿を見せてしまったかも……とリーナは少し反省した。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません」
「問題ない。いくぞ」
再び差し出される手。宿に泊まった時と同じように、フィリウスはエスコートしようとしてくれているのかもしれない。
けれど、今のリーナでは心臓が持ちそうにないわけで。
「リーナ嬢?」
「ごめんなさい。ですが、大丈夫です。段差もありませんし」
そう言って笑顔を作ってみせると、フィリウスもまた困ったように苦笑する。
リーナとて、ここで彼の申し出を断るのはよくないと理解している。けれど、手を繋げば鼓動まで伝わってしまうような気がしてしまうのだ。
今は彼に自身の心音を聞かれたくない。その一心で必死に取り繕った。
「まずはここだ。ここでドレスを作る」
フィリウスが扉を開け、それに続いてリーナも入店する。
店内は王族のフィリウスが来る店というだけはあり、非常に洗練されていた。
建物内の一角を除いて黒い大理石で床や壁のほぼ全面が覆われており、対比的に華やかなドレスがより一層鮮やかに見える。
コツコツと店舗の奥の方から聞こえてきた靴音に、リーナはフィリウスのそばで背筋を伸ばす。
よく整えられたシルバーグレイの髪を後ろに流すきっちりとした髪型。リーナはつい、アグリア邸の執事とは大違いだな……と思ってしまった。
ちなみにその彼は、仕事ができないわりにイグノールに重用されていた。
でも今二人の目の前にいる「ほとんど棒!」といったような様子の男性とは違い、そこそこ不摂生が祟ったような体型をしていた気がする。それはさておき。
「おはようございます。フィリウス殿下でしたか。ということはお隣がアグリア家のお嬢様で?」
「ああ。急に午前に変えてしまってすまない。彼女が妻のリーナだ。紹介する、リーナ嬢。こちらはウェスティン」
「殿下よりご紹介にあずかりましたウェスティンと申します。本日は弊店に足をお運びいただき、まことにありがとうございます」
「リーナ……レーゲンスです。よろしくお願いします、ウェスティン」
危ない。また間違えるところだった。
普通の貴族なら自身の家名を間違えるなんてことはないのだから、と気を引き締める。
「それではごゆっくり」
ウェスティンは深々とお辞儀すると、店舗の奥の方にある部屋へと去っていった。
表の店舗部分に残されたのはフィリウスとリーナの二人だけだ。本当は従業員がどこかから見ているのかもしれないけれど、少なくともリーナのいる場所からは見えない。
「リーナ嬢。何か欲しいドレスはあるか?」
「そうですね……なるべく安いもの、でしょうか」
ドレスのことに疎いリーナがおそるおそる尋ねてみると、フィリウスは顎に手をあてて考え事を始めた。
「やはりリーナ嬢にはもっと違う聞き方をすべきだったか……」
今の答えはフィリウスを困らせてしまったらしい。
けれど、リーナはここでどのようなドレスを選ぶべきなのか見当もつかないわけで。
「そうだな。まず今回のドレスだが、君の成人をお披露目する夜会の分と、年末年始の舞踏会の分の二着分は最低限用意してもらう予定だ」
「二着も……!」
一着でも用意してもらうのが申し訳ないと思っていたのに二着だなんて聞いていない。それに、リーナの誕生日といえば。
「わたしの誕生日まであと半月もないのですが、大丈夫なのでしょうか?」
アルトに聞いたセディカたちの話から、届く日よりも数ヶ月前には準備するのが普通なのだとリーナは知っている。どれだけ遅くとも一ヶ月前だったはずだ。
そういうわけで、リーナが尋ねるとフィリウスから返ってきたのは。
「──冗談を言って悪かった。今回は最低年末年始の夜会分の一着があれば何とかなる。君の誕生日分はもう用意されている」
「もうっ!」
肩を竦めたフィリウスは、リーナからの抗議混じりの視線をものともしていない。
もちろん、リーナとて心の底から言っているわけではないので、本気にされなくてよかったと思っているところだ。
「君の成人を祝う夜会のドレスについては、陛下と母上が用意してくれているらしい。一般的にデビュタントの夜会では──」
「父母がデビューする子供に似合うものを用意する、のでしたよね。アルトから聞きました。ですが、どうしてデビュタントの決まりと関係があるのでしょう? 成人祝いの夜会ですし、国王陛下夫妻はわたしの両親ではありませんし」
リーナが不思議そうな顔で首を傾げると、フィリウスが「アルトか……まあいい」と少しだけ苦笑しながらも教えてくれた。
「普通、デビューできる夜会はシーズン初めの公的なものだけだし、成人祝いの夜会は私的なものだ。だが君は立場と経歴の関係上、成人祝いの夜会でデビューしてもらう手筈になっている」
「それがどうして陛下方にわたしのドレスを用意していただくという話になるのでしょうか?」
「君が既にレーゲンス家に嫁いできているからだ」
フィリウスの言う通り、レーゲ王国において結婚というのは家や個人間の血縁を結ぶための制度と見なされている節がある。
つまりフィリウスの妻になったリーナは、フィリウスの父母である国王陛下夫妻の義娘になったと言えないわけでもない。
「それに、現アグリア辺境伯が君のドレスを用意してくれそうにないのは私も知るところだ。──もしかしたら、陛下と母上は私よりもずっと前からアグリア辺境伯家の実情を知っていたのかもしれないな」
苦悩した顔で重々しく告げるフィリウスに、リーナは思わず「大丈夫です」と答えそうになって、やめた。
彼からしたら、リーナが置かれていた環境が大丈夫に思えないからこそ険しい顔で心配してくれているのだろう。
フィリウスが優しい人なのは出会ってから何度も思い知らされた。
そんな人に「大丈夫」と言うなんて、怪我をしている人に「大丈夫? 痛くない?」と聞くのとどう違うのだろう?
そんなことを訊かれたら、怪我をしていても無理して「大丈夫」と答えてしまいそうだとわかっているからこそ、リーナはあえて口にしない。
リーナの予想通り、フィリウスが難しい表情をしていたのはほんの少しの間のことで、彼は話を一段落させると柔らかい表情に戻った。
「そういうわけだ。君が年末年始の夜会に着るドレスをどうするか考えよう」
「はい」
リーナはフィリウスの提案に頷くと、彼と共に店内に子気味よい靴音を響かせた。




