26.お出かけ
突然降ってきた休日。
話し合いの結果、フィリウスと一緒に王都に行くことになったリーナは、彼のエスコートを受けて馬車の待つ庭園へと向かう。
「暖かい、ですね」
「そういえば、君とここに帰ってきたあの日は少し肌寒かったな」
フィリウスの話に、アルトから聞いた話を思い出す。
いわく、レーゲ王国の南西部、王都周辺の地域は王国西岸を流れる温暖な地域からの海流のおかげで他の地域に比べてかなり温かいのだとか。
レーゲ王国最北の地であるアグリア辺境伯領なら雪がちらつき始める季節。何なら年によっては多少積もっていてもおかしくないぐらいの時期なのだ。
けれどリーナがフィリウスに連れられてやって来たこの街では、どれだけ歩いても雪の気配が見られない。
故郷で感じられた冬特有の肌を刺すような感覚のかわりに、小春日和の穏やかな風がリーナたちの横を吹き抜けていく。
その心地よい空気をたっぷり味わっていると、フィリウスがそんなリーナの様子に気づいたのか立ち止まった。
「リーナ嬢? どうした」
「いえ、まるで春のようだな、と思いまして」
「そうか。君の故郷は──失念していた。気に入ってくれたか?」
「ええ」
再びエスコートを受けて、この日の空のように穏やかな会話を交わしつつ歩くことしばらく。
二人を出迎えてくれたのは、馬車を今日運転してくれるのであろう御者の男性と、リーナがここにやって来る時に乗ってきた馬車だった。
カールから話を聞いていたというその男性と挨拶を交わし、再びフィリウスに視線を戻すと。
ほんの一瞬だけ、馬車を見て満足げな表情を浮かべたのが目に入った。
「殿下、この馬車は──」
「ああ、君を迎えに行く時に使った馬車だ。これは私専用と言っても差し支えのない馬車でな……。車体、車輪、飾りの細部に至るまで、私が見込んだ我が国の職人たちの技術の粋を集めた最高傑作で──いや、君には暇だろうからやめておこう」
「殿下? この馬車、わたしは好きですよ? 金色の装飾はともすれば華美になりがちなのですが、黒を基色としているおかげで──」
「──っ、君にもわかるのか?」
「はい?」
そこからは水を得た魚のように生き生きと語り出すフィリウスに圧倒されるばかりだった。
普段の落ち着きのある大人なフィリウスからは想像もできない姿。
けれど、自身の好きなものを喜々として親に語ってみせる子供のような彼もまた、とても微笑ましい。
「かわいい……」
「そしてこの車輪は──リーナ嬢? やはり退屈だっただろうか。……すまなかった」
思わず呟いてしまったことを後悔する。
いつもとは違うフィリウスをもっと見ていたかったけれど、自分が「かわいい」と言ってしまったせいなのだから仕方がない。
内容までは聞き取れていないのかもしれないけれど、話を遮ってしまったことに変わりはないのだから。
たしかにリーナには馬車のことはわからない。綺麗とか、豪華とか、その程度。
けれどフィリウスがいつもより楽しそうにしているのが嬉しいのだ。
「退屈だなんて言っていません。わたしはただ『かわいい』と……」
そこまで言って「しまった」と両手で口を手で覆うリーナ。
世の中には伝えた方がいいことと、伝えない方がいいことがある。今のは間違いなく後者に入るだろう。
大人の男性に「かわいい」と言うのはご法度。
けれど、一度口から紡いでしまった言葉を取り消すことなんてできないわけで。
「かわいい……か」
「あの、その殿下にかわいいとは言うべきではありませんでしたねごめんなさ」
「──君に言われるなら、悪い気はしない」
恥ずかしそうに赤く染まった顔でそう告げるフィリウスに、リーナまで熱が帯びたような感覚に陥る。
また心臓がうるさくなる。
やっと収まったと思ったのに。これから同じ馬車に乗るというのに、どうすればいいのだろう?
心を落ち着けようと御者の方を見れば、リーナたちの方を見ないようにしているのか、馬の世話をしているようだった。
「それじゃあ行こうか」
「は、はい!」
再びフィリウスに手を取られ、タラップに足をかける。
リーナが進行方向とは逆の椅子に座ろうとすると、フィリウスから「リーナ嬢」と呼び止める声がかかる。
「そちらではない。ここに来るまでも一緒に座っただろう?」
「そうですね。ごめんなさい」
心臓の音が聞かれたらどうしようという気持ちと、ここで言う事を聞かずに反対側に座って怪しまれる可能性。
この二つを天秤にかけた結果、リーナはフィリウスの言う通りに彼の隣に座ることにした。
それにしても。
ちょっと近すぎるのではないだろうか?
まさか、三人掛けの椅子が備え付けられた馬車の中で、すぐ隣に座ることになるとは誰が思うのだろう?
アグリア辺境伯領から王城に来るまでの時のように、真ん中を空けて端と端に座れば何とかなるかも……と思ったリーナが間違いだった。
それにいつの間にか、馬車はもう動き出してしまっている。
「フィリウス殿下……ちょっと近い、です」
「……近い、か。たしかにバランスが崩れた時に華奢な君を押し倒してしまうことになるかもしれないな……」
けれど、横に座っているフィリウスと直接面と向かって言葉を交わせば、彼は少し寂しそうな顔をしつつも、リーナからきちんと距離を取ってくれた。
けれど、直接言葉で言われたり顔に出されたりしたせいか、ものすごく申し訳ない気持ちになってしまう。
もとはといえば、ちょっとしたことで心臓が高鳴ってしまうリーナの、それを聞かれたくないという我儘な気持ちのせいなのだけれど、ものすごくいたたまれない。
今回はアグリア辺境伯領からやって来た時と違って、馬車の中で座っている時間がそれほど長くはないというのがせめてもの救いだ。
でも。
よくよく考えてみればアグリア領から一緒に来た時も心臓はそこそこうるさかったはずで。
けれどその時は緊張のせいだったとわかっていたから聞かれても問題がなかった。
なら、どうして今回はフィリウスに知られたくないと思ってしまったのだろう?
今、しいて思っていることをいうなら自分のことをフィリウスに知ってもらいたいし、フィリウスのことをもっと知りたいというぐらいだろうか。
けれど、一方で自分の思いを彼に知られたくないという思いもまた間違いなくリーナのもので。こんな気持ちの板挟みになるのは、はじめてで。
なんとなく、心臓が高鳴る理由こそわかったような気がしたけれど──。リーナはまだ、自身のその感情に名前をつけられずにいた。
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