25.延期もふたたび
急ぎ足でフィリウスの執務室へと入ってきたカールから知らせられた内容は、リーナにはどう受け止めるべきか判断がつかないものだった。
「つまり、今日も妃教育はお休みということでしょうか?」
「はい。おっしゃる通りです」
リーナに妃教育を施してくれるというヴィカリー公爵夫人は今日も休むのだという。
これは再び直接フィリウスの役に立てる機会を得られたともいえる一方で、こうも休みが続くと「妃として失格」という烙印を押されているような気もしてしまうわけで。
立ち上がったリーナはフィリウスの方へと向き直ると、少し距離のある彼まで届くように声を張り上げた。
「殿下。お願いがございます」
「何だ。言ってみろ」
「本日も殿下のお仕事をお手伝いさせてはいただけないでしょうか?」
深々とお辞儀をする。
けれど、いつまでたってもフィリウスの声が聞こえてこない。
おそるおそる姿勢をもとに戻してみると、そこには非常に難しい顔をして顎に手をあてるフィリウスの姿があった。
しばらく続く沈黙。
フィリウスの答えを待ちきれなかったリーナがもう一度尋ねようとしたちょうどその時、彼が眼鏡を指で軽く押し上げたかと思えば。
「却下する」
「えっどうして……!」
困惑のあまり、その場で腰を抜かしそうになったリーナのもとへ一歩、また一歩とフィリウスが近づいてくる。
いよいよ目の前まで迫ってきたところで、腰から力が抜けて椅子に向かってそのまま落ちそうになったリーナは痛みを覚悟して目を閉じた。
──けれど、予想していた衝撃はいつまでたってもやってこない。かわりに、背中に感じたのは温かくて優しい感覚。
おそるおそる目を開けると、そこには何かに怯えるような顔をしたフィリウスがいた。
今自身の背中にあるのは、フィリウスの手──という事実に気がついたリーナは、驚きのあまり心臓が止まりそうになる。
「でん、か」
「痛いところはないか?」
そんな呟きに続いて、フィリウスのもう片方の腕もまた、リーナの背中へと回される。
リーナをいたわるようなそれに、彼が触れたところからじわりと熱が広がっていく。
「はい。大丈夫、です」
「君が無事でよかった──」
リーナを包み込んでいたフィリウスの腕の力がさらに強まる。
それに伴い、熱は身体じゅうへと広がって、心臓の鼓動も速くなっていった。
(こんなフィリウス殿下、知らない……)
身体が熱いのは、きっとリーナよりも温かいフィリウスがそばにいるからで。けれど、カールのようにはげしく動き回った後でもないのに、どうしてこんなにも胸がうるさいのだろう? やはり、まだ先ほどの衝撃が残っているのだろうか?
やがて、リーナが自分のことすらよくわからなくなって俯いてしまったことを察知してくれたのか、フィリウスはリーナを解放してくれた。けれど。
「リーナ、嬢。街へ……王都に行こう」
「おうと」
「君自身の用事がないなら、私の買い物に付き合ってはもらえないか?」
先ほどまでとは違い、今度のフィリウスは笑顔だった。
そんな笑顔と共に差し出された手。なかば心ここにあらずなリーナが自身の手を差し出すと、フィリウスの温かな手が優しく──けれど逃がさないとばかりにその手を握り返した。
そんな二人のもとに、室内の反対側から大きな咳払いが聞こえてくる。
フィリウスはリーナと手を繋いだまま、身体ごと自身の藍色髪の部下の方を向いた。
「両殿下。本日はたしかにリーナ妃殿下の予定はなくなりました。し、か、し! フィリウス殿下、貴方様のお仕事はこちらにたんとご用意してあります」
「堅苦しいことを言うなカール。リーナ嬢の助力もあり、昨日までに火急の要件は全て片付いた。今日でなければ次に休みが合うのがいつとも限らない。そもそもはじめから今日の午後は二人とも休みの予定だったのだ」
「午、後、は……ですよね。今はまだ午前で──」
「それに、今リーナ嬢のクローゼットの中に入っているドレスはほとんどすべてがセミオーダーのものだ。こんなものを王族となった彼女にいつまでも着せていては、彼女の品位や私たちの関係が疑われる。そろそろ全てフルオーダーに変えていくべき頃合いだろう」
二人の会話を聞いている間に、ようやく落ち着きを取り戻せたリーナは、交わされる会話に必死に耳を傾ける。
セミオーダーからフルオーダーに変える。聞き取れたのはほんの一部だけだったけれど、それはリーナの顔を青く染めるのには十分だった。
「殿下っ! あのっそのっわたしはどうすればよろしいのでしょうか?」
「リーナ嬢? そうだな、私と共に王都に買い物について来てくれると非常に助かるのだが」
「えっとそうではなくて。セミオーダーだと品位に欠けるとはおっしゃいますが、フルオーダーだとお金がかかりすぎますし、どうすればいいのかと」
「お金の心配は不要だ。せめて公的な場ではフルオーダーのドレスにしてほしい。もちろん気に入りのドレスができたのであれば、私的な場では今まで通りセミオーダーのものを着てもらっても一向に構わないのだが」
「けれど、お金は民の稼いだものですよね?」
「だからこそ、無駄遣いはしてはいけない。が、これは必要経費だ。極論だが我々王族が貧相な服で隣国の王族を招いたとしよう。それが原因で貧しいと思われた我が国に攻め込まれたら、民のためにならないだろう? その上、注文すれば民に仕事が回る。王族として正しい使い方だと思わないか?」
はじめはせっかく民が働いてくれたおかげで得たお金をドレスなんかに使うなんて、と思った。
でも少し考えれば、フィリウスの言う通りだ。そこまで考えの回らなかった自分の勉強不足を嫌でも感じさせられる。
けれどそれとは別にもう一点、リーナには腑に落ちない部分があった。
「それはそう、ですね。ですがそれでしたら殿下の買い物ではなく、わたしの買い物ではありませんか?」
「君は私の妻となるのだから、私の買い物でもある」
「言われてみればそう、かもしれません」
しぶしぶとはいえリーナがいちおう納得した様子を見せると、フィリウスは満足気に頷いた。
けれど、この部屋にはフィリウスの答えに納得していない人がまだもう一人いたのだということを、リーナは忘れていた。
「これで二対一だ。観念しろ」
「殿下。妃殿下を納得させたからといってそのようなご冗談を……」
「カール。私は冗談が嫌いだ。それも笑えない冗談がな。今日の分は仕事をしたと見なして休ませてやるから、お前もゆっくりするといい」
「そのような不義理が許されると──」
「私はお前のことを十分義理堅い奴だと認識しているのだがな。……一ヶ月面倒をかけた上の二日連続での長時間勤務だ。今日の分の給金も出すから休め。どうしてもというのなら、私とリーナ嬢のために馬車の手配だけでも命じた方がいいか?」
「……不服ですが承知いたしました。不服ですが一応馬車の手配という仕事もいただいたわけですので。それではよい休日をお過ごしください」
「カール、お前もな」
「それでは不服ですが御前を失礼いたします。不服ですが」
深々と一礼して去っていったカール。
最後の「不服ですが」にはリーナも思わず苦笑いをこぼしてしまった。
彼の姿が完全に見えなくなり、リーナに手を差し出すフィリウス。
「私たちも行こうか」
「はい。殿下」