15.ゆっくりとした朝
王城に到着して、フィリウスと形だけの婚姻を結んだ翌朝。
寝室まで起こしに来てくれたジュリアに、リーナは笑顔で挨拶を返す。
「リーナ様、目覚めの紅茶はいかがですか?」
「ありがとう。いただくわ」
間違ってフィリウスの部屋に行ってしまったことはばれていないはず。
そんな心配と妙な自信とが混ざり合ったまま、隣の部屋へと移動する。
隣の部屋には太陽の光だけでなくシャンデリアの明かりもあったせいか、入る時に目をしばたたいてしまった。
光に目が慣れてくるとそこに広がっていたのは、リーナにはもったいないぐらい豪華な部屋。
昨日は部屋の中をゆっくりと見回す前に眠ってしまったからわからなかったけれど、室内の調度品は寝室同様、どれも落ち着いた印象のものでまとめられていた。
こんな部屋のソファに何も考えずに腰掛けて眠ってしまった昨日の自分が怖い。
そう思いながらもリーナは室内を見回した。
部屋の中央に備え付けられた高さが控えめなそのソファとローテーブルは、ゆったりくつろぐのに適していそうだ。
今はまだ火がついていない、寝室とは反対側の壁に備え付けられた暖炉も、温もりを感じさせるデザインになっている。
部屋の端に備え付けられた棚は、わずかに赤みがかったこげ茶色の木材で作られており、中身はまだ空だ。
美しさを保ってはいるけれど、年季も入っているアンティーク家具のような気がしてならない。
天井からぶら下げられていたのは、大きさが控えめなシャンデリア。幼い頃に使っていた自室にあったものにそっくりだ。
とにかく、室内には見ているだけでリーナが懐かしい気分になるものばかりが集められていた。
そのせいか、どうしても自分が幼い頃のアグリア辺境伯邸のことまで思い出してしまう。リーナが領主館の本館から小屋へと引っ越す直前ぐらいにはもう、リーナの部屋の外の調度は、すっかり豪華なものに変わっていたのだから。
セディカの好みに合わせて、イグノールが辺境伯家にもともとあったアンティーク家具を軒並み入れ替えたのだとアルトが言っていた。
まさか昨日引っ越してきたばかりのこの部屋に懐かしさを覚えるなんて。
たちまち信じられないような、嬉しいような気持ちになる。
「どうぞこちらへ」
ジュリアが案内してくれたソファの目の前に置かれたローテーブルには、空のティーカップと中にたっぷりと紅茶が入っていそうなティーポット、それからシュガーポットまで置かれていた。
リーナが席につくと、ジュリアが出来立てを淹れてくれる。
「フィリウス殿下いわく、お砂糖は好きなだけ使ってもよいとのことです」
「そう。後で殿下にお礼を言わないと──っ!」
フィリウスは本当に優しい人だ。リーナにはもったいないぐらい。
けれど、昨日のリーナはその優しい彼との約束も忘れて眠ってしまったのだ。
「……謝罪もしないといけないわ」
「謝罪、ですか?」
不思議そうに尋ねるジュリアに、リーナはコクリと頷き返す。
せっかく夕食に誘ってもらっておいて、その予定を無視して寝てしまうなんて自分のことながら最低だ、と。
けれど、ジュリアから返ってきたのは意外な答えだった。
「リーナ様。たしかに謝る必要はあるかもしれませんが、気に病む必要はないと思いますよ?」
「……ええ、たしかにそう、ね」
表面上はジュリアに同意したけれど、リーナは納得がいっていなかった。
馬車を汚してしまった時の様子を見るに、フィリウスならそう言ってくれるだろう。
けれどそれは、また同じような失敗を繰り返さないために、原因を考えて反省しなくてもよいということではないのだ。
「リーナ様とフィリウス殿下は夫婦なのですから、食事を共にする機会ぐらいなら、何度でもあるはずです」
「……。ありがとう」
「いいえ、わたしなんてそんな」
「そんな寂しいことなんて言わないでちょうだい。わたしはジュリアのおかげで心が助けられたのよ?」
リーナがそう言えば、ジュリアもまたリーナに感謝の言葉を告げる。
そこでリーナはふと思い出したことを口にした。
「ところで、わたしは今朝起きたらベッドの上に寝ていたのだけれど、何か知らない?」
「ああ。それなら、フィリウス殿下がリーナ様をベッドへと運んでくださいましたね。その後、わたしがそちらの服にお着替えさせていただきました」
(運んで──って、もしかして殿下がわたしを背負ってくださったとか……!?)
ジュリアの説明に、リーナの顔は一瞬で真っ赤に染まった。
結婚初日にソファで眠りに落ちてしまって、よりによって夫にベッドへと運ばれてしまったというのも恥ずかしいし、申し訳ない。
その上、フィリウスが部屋を去った後でジュリアがドレスから着替えさせてくれたというのだから、ものすごく申し訳ない。
もっといえば、リーナ自身は着替えさせてもらった覚えもないわけで。間違いなく気遣ってもらったのだろう。やっぱりどこまでも申し訳ない。
というわけで疲れていたジュリアに丁寧な仕事をさせてしまったことに、罪悪感が湧いてきたリーナ。
けれど、先ほどの様子からしてここでジュリア──ひいてはフィリウスが求めているのはきっと、謝罪ではない。
「ありがとう、ジュリア」
「それがわたしのお仕事ですから。それに、感謝の言葉なら先ほどいただいたばかりです」
「感謝の言葉を繰り返してはいけないなんて決まりはないわ。そうでしょう? ここまでの旅路もジュリアのおかげで助かったのだから」
リーナがそう強く言えば、ジュリアの緑色の瞳が大きく見開かれる。
続けて彼女は目元を軽く拭うと、先ほどまでよりも声音が明るくなった。
「そうおっしゃっていただけると、侍女冥利につきます。……それでは、本日のお召し物をご用意させていただきますね。何かご要望はございますか?」
「そうね……。まだどのような衣装が準備されているか知らなくて。ジュリアに任せてもいいかしら?」
「かしこまりました。それではこちらで今しばらく、ゆっくりとお過ごしください」
そう言うとジュリアは綺麗な礼を披露して、一旦退出していった。
室内には、リーナ一人だけが残される。
「ジュリアには何とか隠せたみたいだけれど……。フィリウス殿下にはどのような顔をして会えばいいのかしら……?」
ふと、湯気の立つティーカップをのぞき込むと、そこに映っていたのは不安そうな少女の顔。
フィリウスの厚意に甘えて、カップに砂糖を小さなスプーン一杯分だけ注ぐ。
砂糖をティースプーンで混ぜ終えるとすぐに、自身の顔を見ないですむようにカップの中身を一気に飲み干した。
あの宿に泊まった日以来、リーナは毎日ジュリアの手で化粧を施されていた。そのたびに、少なくとも表面上は明るくなれている感覚がしたのだ。
とはいえジュリアの助けがなければ、それは叶わないわけで。
今朝のリーナは色々な意味で、自分の不甲斐なさを実感して落ち込んでいた。
そんな中、廊下側の扉がコンコンコンとノックされる。
「リーナ様、ジュリアです。ただいま戻りました」
部屋に帰ってきたジュリアが抱えていたのは、紫色のスリーピースドレスだった。
予想通りの紫色。王城に来るまでの道中もそうだったけれど、ジュリアはなぜか紫系のドレスをよく選ぶのだ。
ジュリアに言われるまま、一旦寝室の方へと戻る。着替えさせてもらっている間、リーナは気になっていたことを尋ねてみた。
「ジュリア、前から気になっていたのだけれど。貴女って紫色が好きなのかしら?」
「そうですね……。用意されていたドレスが紫色を中心としたものが多かっただけ、と申しましょうか」
「ということは、ドレスを用意してくださった方の趣味かしら?」
「そうなのかもしれませんね」
ジュリアにもわからないらしい。
けれど話しながら考え事もしているはずなのに、その上で手が止まらないのはさすがとしか言いようがない。
「お化粧もいたしますので、あちらへ」
複雑な衣装なのにあっという間に着替えさせてもらったリーナは、ジュリアに言われるがままに今度は鏡台の前に腰を下ろした。
鏡の中に映る少女は、ティーカップを覗き込んだ時と変わらず、心なしか着ている服に似合わず浮かない顔をしている気がする。
けれど、そんな自分自身を見つめていても、何の解決にもならないことを一番知っているのはリーナ自身だ。
そんなふうにリーナが上の空になっている間にも、いつものようにジュリアはテキパキと仕事を進めていく。
アルトに聞いた話では、心の中では楽しくても悲しい顔をしていると、本当に悲しくなってくるのだとか。
でも、それは逆にいえば、鏡越しとはいえジュリアによって全体的に明るい印象に整えられた自分を見ていれば、だんだんと気分も上向いていくのではないだろうか。
「終わりましたよ……リーナ様?」
不思議そうなジュリアの声に、鏡の中の自分の表情をあらためて見れば、リーナ口元は自然と弧を描いていた。
「貴女には本当に感謝しているわ。これからもよろしくね」
「……はい。リーナ様も」
再び隣室に移動して、朝食まで休むことしばらく。
廊下から響いてきた足音が、リーナの部屋の前で止まる。かわりに扉の向こう側から聞こえてきたのは。
「リーナ嬢。準備はできているか?」
「っ、今参ります」
まさか朝から来るなんて思わなかったから一瞬背筋が伸びてしまったけれど、これでお互い様だ。
だって、フィリウスだってゆっくり眠っているところにリーナが訪ねてくるとは思わなかっただろうから。
リーナは廊下まで聞こえるように返事をすると、彼を迎え入れるために立ち上がった。