122.「白い結婚」がなかったら
第3章ラストです!
「ただいま、ジュリア」
「お帰りなさいませ。……お茶をご用意してまいりますね」
「あっ」
リーナがフィリウスと一緒に部屋に戻って早々、ジュリアは一礼をすると退室していった。
ノマたちを見送ったホールからそのまま、またまた二人だけが室内に残される。
やっぱり、いつもなら心地よく思えるはずの二人きりの状況が不安になってしまう。
そんな気持ちがフィリウスに伝わってしまったのだろうか。
フィリウスはいつものようにリーナをソファに座らせてくれたけれど、彼が隣に座らないので、ますます嫌な予感がよぎる。
リーナはすでに重大な失敗をしていて、フィリウスから愛想をつかされたのではないか、と。
フィリウスの横顔を見上げていると、いよいよ彼の口が開かれた。
「一緒にいたのに話す機会がなくて、ずっと伝えられていなかったことを言わせてほしい」
「……はい」
「が、その前に君も何か言いたいことはないか? 君にも伝える機会がなかったことがあるのだろう?」
予想外の返答に、思わず目をしばたたく。
けれど、フィリウスはそういう人だったと思い出す。自分の望みを言う時は、リーナにも望みがないかを確認するのがフィリウスだった。
何か言いたいこと。……そう考えて最初に思い浮かんだのが、ヴォクスとノマのことだった。
二人は本当はお互いのことが好きだったのに、そのことを伝えられていなかったせいで、とんでもなくこじれてしまっていたのだ。
けれど、リーナたちの関係は両想いとはほど遠い。
フィリウスの方から「白い結婚」をと言われたのだから──そして「なかったことにしたい」と言われたから、今のリーナたちの関係とはまったく違う。
だから、ソファから立ち上がったリーナが口にできたのは。
「今でもフィリウスさまは、『白い結婚』がなかったら……と思っていますか?」
たったそれだけ。
──それだけなのに、長い沈黙が二人きりの部屋に重くのしかかる。
だんだん難しい表情になっていったフィリウスの顔に、リーナは慌てることしかできない。
「こ、答えられないなら無理しなくても──」
「君を傷つけるかもしれないと思うと。だが……」
「ですから、本当にだいじょ──」
リーナがそんなふうに必死になって伝えようとしたのだけれど。
彼が突然リーナの腰をぐっと自身の方へと近づけたかと思えば、リーナの唇に自身よりもいくらか温度の高く柔らかな感触が訪れる。フィリウスのものだ。
そう気づいた時には、リーナの瞼はとっくに彼を受け入れるように下りていた。
そのままゆっくりと背中からソファに寝かされると、それまで口や腰に感じていたフィリウスの温もりは、どこかに消えてしまった。
その寂しさにふと目を開けると、ほとんど至近距離にある眼鏡越しの紫水晶の瞳とばっちり目があってしまう。
この前のようにほとんど明かりのない夜闇の中ではないからか、それはもうはっきりと。
彼の右腕に目をやれば、その先はリーナの顔の真横につかれていて、この腕がなければリーナは文字通り彼の体重をそのまま受けてしまっていただろう。
けれども不思議と、フィリウスにだったらのしかかられても平気な気がした。
それだったら、先ほどのようにフィリウスとずっと──。
「だめだめだめ!」
はじけたように首を振ったのに、フィリウスはまるでリーナの行動が予想の範囲内だというように穏やかな表情を浮かべているだけだ。
けれども彼の口からぽつりと零れたのは、リーナのまったく考えてもいない答えだった。
「君は大丈夫でないのに大丈夫と言って、私が耐えられるか試そうとしているのか?」
「大丈夫ではない……。そうかもしれません」
フィリウスに誘導されているような気がするけれど、じっさいリーナとしては彼がいなければ、あの生活に逆戻りなのだ。
だからこの「白い結婚」を守るのは、大前提のはずだった。
けれど先ほどのキスはフィリウスからもたらされたもので。もう「白い結婚」は形式上だけのものになっているのかもしれない。
彼は王城内でもしばしばリーナを大切そうに抱えて移動するわけで。つまり、リーナに求められているのは彼との結婚が「白い結婚」だと露呈しないようにすることなのだろう。
けれどフィリウスは優しいから、こうして無理をしていないかと折々で確認してくれる。
だからこそ、リーナにはそんな彼に謝らなければならないことがあった。
「ごめんなさい! わたし、ヴォクスさまと二人になってしまったんです」
「知っている。キルクから聞いた」
「え」
「あの部屋の隣に隠し部屋があっただろう? あの部屋にキルクがいたから、事情は大体聞いている。だから何の問題もない」
「そ、そういうものなのですか?」
全然知らなかった。そんな風に呆然としていると、ふたたびリーナの口がふさがれる。
今度は先ほどとは違って、優しくそっと触れるような口づけだ。
「表沙汰になったら、向こうの方が大問題になる」
「そ、そうですね。……ではなくって! それでも、わたしはフィリウスさま以外の方と二人きりになってしまっていたんですよ?」
「長く生きていれば事故の一つや二つ、遭遇するものだ。君も望んでいなかったのだろう?」
リーナの目の前にいるフィリウスを見ていると、穏やかな春の陽光のよう。
彼から婚姻関係の解消を言い渡されなかったことに安堵した自分が、ものすごく恥ずかしい。
そう思うと、目頭が熱くなって視界が大きくゆがむ。
「そんなに私のことが嫌だったのか?」
「ち、ちがいますっ。……あっ、さてはフィリウスさま、わたしのことをからかってますね!?」
「ばれたか」
涙目になりながら、わざとむすーっと顔を膨らませてみれば。
フィリウスは笑い声をこらえるように咳払いされてしまったので、余計にいたたまれない気分になってしまった。
まるでフィリウスはリーナのことを何でも知っているのに、リーナはフィリウスのことを何も知らないみたいだ。
そんな間にもリーナの真横に落としていた腕を引っ込めたフィリウスは、まるで何事もなかったかのようにリーナを起き上がらせて、ソファ本来の使い方のように座らせてくれる。
「ありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えれば、彼は「どういたしまして」とばつが悪そうに顔をふいっとそむけて、足を交差させるようにして前に放り出していた。
普段は見ることのない貴重な彼の姿に、一瞬心臓が止まるかと思った。
しばらくすると、リーナに見られていることに気づいたのか、ふいに再び彼との視線が交わる。
「やはり、君は見ていて飽きないな」
「どういうことですか、フィリウスさま」
「そのままの意味だが?」
「……だったらわたし、絶対にフィリウスさまと離婚して差し上げませんからね」
「──それは好都合だ」
笑みを深めるフィリウスに、「もしかしたらフィリウスの手のひらの上で踊らされているのでは?」と気づいたリーナの体温は上がる一方で、頭がふらふらしてくる。
けれどもそれが恥ずかしさのせいなのか暖炉のせいなのか、それともフィリウスと一緒にいるせいなのか、リーナにはちっとも見当がつかない。
「言質は取った」
額に落とされる優しい接吻に、いよいよすっかりまいってしまったリーナは、そのまま暖かな部屋の中でソファに背を預けて舟を漕ぎだしてしまった。
フィリウスはやっぱり、心の底では「白い結婚」を望んでいるのでは?
……などと意識を完全に手放す直前の回らない頭で考えていたリーナが、彼の言葉が本当に意味するところを理解するのは、もう少し先の話──。
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