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105.夏の温室には

 「春の花ではないはずのラベンダーの香りはどこから?」というノマの質問に、思わず背筋が伸びてしまいそうになるのをぐっとこらえる。


 リーナとしてはつとめて平静を装ってみたけれど、ノマにはばれていないかものすごく心配になってしまった。


 春ぐらいの暖かさの部屋の中で運動もしていないのに、背中から汗がにじむ。

 きっとノマが指摘しているのは、リーナの香水のことだ。でも、フィリウスと話していた彼女の様子を思い出すと、どうにかして話をそらさないといけない気がした。


「できることなら見てみたいわ。春の花があるということは、夏の花もあるのかしら?」

「ありますけれど、暑いですよ?」


 どうやら、ノマは諦めてくれるつもりがないらしい。


 たしかに、この温室の奥にある扉の向こうには、夏の花がたくさん咲いている。

 でもラベンダーの花だけは、見られたくないと思ってしまう。


「ノマさま、実はわたしは以前お茶会の会場を選定する時に、夏の花が咲いている温室にも入ったのですが、直後外との温度差で風邪をひいてしまいまして……」

「構わなくてよ。ただわたくしが見てみたいだけなのだから」


 フィリウスに似た淡い紫色の瞳をまっすぐ向けられる。

 もしかしたらフィリウスの隣に立つのはノマの方がお似合……ではなくて。


 そんなことを考えかけて首を横に振ったからか、ノマは席を立ってリーナのもとまでやってくると、リーナの手を取った。

 力はそれほど強くないけれど、有無を言わせない様子に、思わず立ち上がる。


「ご案内していただけるかしら?」

「わ、わかりました」




 主催者なのに席を離れることをパトリシアたちに謝罪して、温室の奥へと向かう。


 ドアノブに手をかけて振り返れば、ジュリアが心配そうな表情を浮かべていた。

 けれど大変なのはリーナの心の中だけなので、暗い顔をしないでほしいという思いを込めて首を振った。


 かちゃり、と音を立てながらドアノブを回すと、夏の花を育てるための温室の熱気がリーナのもとまでやってくる。

 ノマに先に入るように促して、自分も続いてから扉を閉めれば、そこはもう真夏だ。


「ラベンダーはどちらにあるのかしら?」

「今案内しますね。どうぞ」


 ノマを先導して奥へと進む。

 けれど、リーナの歩みはたったの十数歩で止まってしまう。


「えっ、どうして……」


 ブンブンという特有の音を立てながら飛び回っていたのは、無数のハチだった。

 以前フィリウスと一緒に来た時にはいなかったはずの危険な虫。それがなぜここにいるのだろう。


 これが屋外だったなら、花の素敵な香りに引き寄せられて集まったのかもしれないけれど、ここは閉じた温室。

 つまり、誰かがここにハチを持ち込まなければこのような羽音が聞こえるはずがないわけで。


「あら、リーナ様はミツバチが怖いのかしら?」

「そ、そうですね」


 後ろから質問が飛んできたので、振り返って首を縦に振る。

 ミツバチとはいえ、刺されたら身体によくないのはわかっているからこそ、怖い。


「その、わたし自身は刺されてもよいのですが……。ノマさまがここで刺されたら、シャタール王国に堂々と本場のフライドポテトを食べに行けなくなってしまいま」

「──! リーナ様、後ろ──」


 ノマの言葉に思わず後ろを振り返れば、そこには視界を埋め尽くさんばかりのハチの群れが近づいてきていた。


 頭は早くここを離れるようにと警鐘(けいしょう)を鳴らしているのに、身体は動いてくれない。

 だからせめて。はしたないと分かっていながらも、思わずノマに叫んでしまう。


「ノマさまだけでも早く逃げてくださいっ!」

「そのままでは貴女が──」

「どうしてかわからないんですけれど、足が動かないんですよね……」


 あはははは、と力なくこぼれた声はハチの羽音とにかき消される。

 その直後に響いたバン、という大きな音の後にはブンブンと鳴り響く音しか残らなかった。


 いよいよ間近に迫ってきたハチの群れに「刺される」と覚悟して目をぎゅっと(つむ)ったそのとき。

 膝裏に温かくて力強い「何か」が触れたかと思えば、ぐるんと世界が回った。


 リーナがそのまま真っ逆さまに落ちていくような恐怖を覚えるよりも前に、背中もまたがっしりとした「何か」に支えられる。

 目を閉じていたから視覚からは何も感知することはできなかったけれど、この感覚には覚えがある。


 今度は世界が横に回り、暖かな風が吹く。

 規則正しいリズムを刻む自分ではない誰かの足音に、リーナが(まぶた)に込めた力を少しずつ弱めると。

 最初に捉えたのは、宝石のように神秘的な紫色の瞳だった。


 心なしか、その奥底には彼にしては珍しく焦燥感(しょうそうかん)が隠れている気がした。


「リーナ……!」

「は、はいリーナですっ。どうしてここに」

「話は後だ。まずはこの部屋を出る」

「あ、ノマさ──」


 フィリウスの足が速いのか、温室が狭いのか。

 リーナがフィリウスに言いたいことを伝えるよりも前に、二人は春の温室へと戻ってきていた。


 その直後、フィリウスとは異なる誰かが走る足音が聞こえたかと思えば、夏の温室へと続く扉の方からバンと閉まる音が響く。

 音のした方を見れば、ドアノブを握っていたのはアリスだった。


 足首よりも下まで裾の伸びたドレスを着ているはずなのに、どうして走ることができるのだろう。──ではなくて。


「あ! ノマさまもいるんです! 助けないと」


 フィリウスに抱えられたままだったけれど、思わず叫んでしまった。

 でも、今日のお茶会の主催者はリーナなのだ。はじめてのお茶会で、参加者にケガをさせてしまったとなったら大問題になってしまう。


 もちろん、フィリウスに後始末をさせようだなんて思っていない。

 これはリーナの失敗なのだ。だからせめて、自分でノマを助けにいくから下ろしてほしい。


 そんな思いをこめてフィリウスの瞳を見つめてみたのだけれど。


「……彼女なら、自身の足でこちらに戻ってきているはずだが」

「え? ではわたしはシャタール王国でフライドポテトの食べ歩き旅を断念しなくても大丈夫なのでしょうか……?」


 フィリウスの目を見ながら確認を取ろうとすれば。

 彼の視線がリーナの頭の上をこえて、少し離れた場所に向けられていた。


 リーナもまた彼の視線を追えば、そこには地面にしゃがみ込んでしまっているノマの姿があった。


「無事だったのですね! ……ノマさま?」

「……っ」


 リーナが呼びかけたからか彼女は立ち上がると、温室の入り口の方へと向かう。

 入り口のドアノブに手をかけた彼女は、ほんの少しの間だけ動きを止めた。


「リーナ様、本日はご招待してくださりありがとうございました。ですが先ほどの一件もありましたから、今日はお暇させていただきたく存じます」

「わたしの方こそもう少し早くハチに気づくべきでした。怪我はありませんか?」

「ええ、お気になさらず。……それではごきげんよう」


 とうとう、ノマはリーナたちの方を振り返ることもなく温室を出ていってしまった。

 ずっと着席していたままだったパトリシアが立ち上がると、部屋の隅の方に控えていたジュリアもまたリーナの方へと駆け寄ってくる。


「リーナ、貴女も無事?」

「は、はい。怪我はしていませ──」


 パトリシアに確認されてようやく気づく。

 リーナは夏の温室を出てからずっと、フィリウスにかかえられたままだった。


 その事実に意識が向いた瞬間、顔がかあっと熱くなっていく。

 リーナは自身を抱きかかえたままのフィリウスに抗議の視線を向ける。


「フィ、フィリ」

「降ろすわけにはいかない」


 紫水晶の瞳はまるでリーナの心の中を見透かしているようだ。

 数ヶ月ぐらいだけれど一緒にいたからか、彼が心配しているのが伝わってくるだけに「下ろしてほしい」と言えなくなってしまう。


「このまま薬学室に向かう」

「わ、わかりましたっ」


 いいことなのか悪いことなのか、フィリウスに抱えられて運ばれるのに慣れてしまった。

 公的にも夫婦として紹介されたのだから、大人しく部屋まで運ばれるべきなのだろう。……恥ずかしいので目は(つむ)るけれど。


 というわけでフィリウスの腕の中で目を閉じていたリーナはちっとも知らなかった。

 ジュリアはもちろんのこと、パトリシアやアリスまで生暖かい視線を向けていたことに。


 ……おなじくリーナに神経のほとんどを向けていたフィリウスも、その事実には気づくことがなかったのだった。



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