10.「白い結婚」
料理の到着を待っている間、フィリウスと話していたリーナははじめて聞く言葉に、不敬だとか何だとかいう考えは吹き飛んで、尋ね返してしまっていた。
「白い結婚?」
先ほどまでとは違い、今度はリーナが首を傾げる番だった。
「白い」も「結婚」もわかる。「結婚」式に妻となる女性が「白い」ウェディングドレスを着るというのも知識としては知っている。
けれど、「白い結婚」という言葉を聞いたのは、リーナにとってはじめてのことだった。
「ああ。結婚して両者が十八歳を過ぎても、寝る部屋は別にする生活のことだ」
「あの、それは」
レーゲ王国では、お酒と同じく結婚した両者が十八歳になるまでは、同じベッドで寝てはいけないとされている。
けれど逆に、夫婦となった二人が双方とも十八歳になったら必ずしも毎晩そうというわけではなくなる。
王族となれば世継ぎ問題があることも、小屋にいたとはいえリーナは知っているのだ。
けれど、リーナの懸念したことをフィリウスがそこまで深刻に捉えている様子はなかった。
「世継ぎなら兄上たちが頑張ってくれるだろう。それに、陛下は君と結婚しろとはおっしゃったが、『白い結婚』ではいけないとは言っていなかった。そもそも──」
「失礼いたします」
コンコンコン。室内に響いたノック音の出どころを探してみれば、廊下の扉だ。
リーナが誰だろうかと考える暇もなく入室してきたのは、料理を持って来た従業員の方だった。
続けて、フィリウスが頼んでくれたぶどうジュースと、前菜のサラダがそれぞれの前に並べられていく。
みずみずしい緑色をしたそれは、庭に生えていた草と違ってとてもおいしそうな見た目をしている。
フィリウスが何と続けようとしていたのかは、リーナにはわからない。けれど、彼のことだから重要ならまた後で教えてくれるだろう。
再び従業員の方が退出していくと、リーナの視線は目の前の料理に釘付けになった。
「リーナ嬢。それはサラダだが……それほど珍しいか?」
「お嬢様のアグリア家での扱いは今朝殿下がご覧になった通りですので……」
「そうだったな。すまない。リーナ嬢、食べようか」
「はい。──っ、おいしい」
久しぶりの豪華な食事に、フィリウスの動きを見よう見まねでまねるリーナ。
一応アルトから教えてもらったとはいえ、それは言葉だけで実際に試したことはないので、合っているかが不安で仕方ない。
でも特に指摘されないし、少なくとも大問題ということはないのだろう。
一口運んでみれば、シャキシャキとしたレタスの触感が口の中に広がった。リーナがまだ邸にいた頃に食べたものよりもおいしい。
橙色のドレッシングもスパイスが効いていて、苦みを気にせず食べられる。
一緒に到着したぶどうジュースは、瓶からグラスに自分で好きな時に注ぐものらしい。
早速一口飲んでみると、こちらも甘さがふわっと広がって、とても好きになってしまった。
その様子をフィリウスが楽しげに見つめていたことに、リーナは気づいていない。
そしてまた、当の本人も自身の表情に気がついていなかった。
「あの、殿下」
「どうした?」
口の中を一度空にしたリーナは、フィリウスに先ほどの話の続きを尋ねてみた。
リーナはフィリウスの「そもそも」の続きが気になって仕方がなかったのだ。
「料理が来る前の続き、か。ああ、それなら──私は陛下や周囲を納得させるために君を利用するようなものなのだから、なるべく他の部分では君の要望を叶えたい……といったところだろうか」
「ありがとう、ございます」
一気に湿っぽい雰囲気になってしまった室内。
その空気を壊すようにやって来たのは次の料理だった。
「これがイモ、ですか」
「ああ。イモを細かく切ってスープの具にしたものらしい」
スプーンで掬ってみると、たしかにスープの中にはたくさんのイモらしきものが入っているらしかった。
口に運んでみれば、これも今まで食べていたどんなイモよりもおいしかった。普段自分で大切に育てていたものよりもおいしいという事実に、ちょっとショックを受けてしまう。
「わたしが育てたものよりもおいしいです。わたしが育てたものは時々、お腹を壊してしまっていたんですよね」
「育てて……なるほどな。ああ、別に農夫の真似事をしていたから私の妃に相応しくないなどとは思っていないから安心するといい」
「は、はい」
そこまで言われて、うっかり自分のアグリア家での扱いをどんどんと白状してしまっていることに気がついたリーナ。
けれど、アルトと一緒にいるところを見られた時点でばれていたので、いまさら取り繕っても仕方がない。
その後次々と料理が運ばれてきて、最後にやって来たデザートとして出されたフルーツも、甘くておいしかった。
お肉が多すぎて入らず、王族のフィリウスに半分くらい食べさせてしまったのが申し訳ないと思ったリーナだったけれど。
「少し足りないぐらいだったから、君が半分分けてくれてちょうどよかった」
──と言われてしまえば、リーナは「それならよかったわ」と返すほかなかった。
♢♢♢
部屋に戻り、ジュリアにゆったりとした夜着に着替えさせてもらったリーナは、明かりを落としてふかふかなベッドに横たわる。
「それにしても、フィリウス殿下はどうしてわたしにここまで優しくしてくださるのかしら? 明日目が覚めたらあの小屋に戻ってしまっていたら……」
夜の室内は一人ぼっち。
いつものことではあるのだけれど、夜にはつい、弱気になってしまうのはリーナの日常だった。
ひとりごとを呟いても、それに答えてくれる声はどこにもない。
つい先ほどまで、フィリウスやジュリアがいたのに、今は誰もいないのだから。
けれど旅の疲れのせいか、寝具の温もりのせいか。
リーナは数年ぶりのやわらかいベッドの暖かさに顔をうずめ、深い眠りに落ちていった。
「──ナ。──ーナ?」
(この声は……おかあさま?)
「頑張ったね。リーナ」
(今度はおとうさまの声……)
目の前にいたのは、アグリア家にある肖像画で見た、笑顔のふたり。
まぎれもなく、リーナの両親だ。
「おめでとう、リーナ」
「君の幸せをずっと願っているからね」
「ありがとう、ございます……っ」
思わず飛びつきそうになったけれど、まるでリーナと二人の間には見えない壁があるみたいで、触れ合うことはできなかった。
「あのネックレス、リーナになら持って行ってくれてもよかったのに」
「おかあさま……っ、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。でも、僕たちのことを忘れることがあっても、幸せになることだけは忘れないで」
「おとうさま……っ。わたしは何があってもおとうさまとおかあさまのことは忘れません。絶対に幸せになりますから」
リーナの言葉に、先ほどよりも一層笑みを深めた二人。
けれど、それと同時に二人の姿が薄くなっていく。
「また会いに来るよ」
「それじゃあね。リーナ、愛してるわ」
その言葉を最後に、二人の姿は完全に消えてしまった。
やがて声も聞こえなくなると、リーナはふいに涙をこぼした。その涙は一滴、二滴ととどまるところを知らなくて。
(おとうさま……おかあさま……!)
次に気がついた時には、見慣れぬ天井の室内を見上げながら、リーナは涙を流していた。
「──夢、だったのね」
目を覚ましたリーナは、目元をぬぐいながらベッドから出る。
夢の中だけではなく、本当に泣いてしまっていたとは思わなかった。
さすがにこんな姿を皆に見せるわけにはいかない。
部屋中央に置かれたテーブルの上にある水差しからグラスに水を注ぎ、喉を潤していると、部屋をノックする音が聞こえる。
「リーナ様、起きていらっしゃいますか? ジュリアです」
「ええ。どうぞ」
「失礼いたします」
夢の話をうっかり漏らさないように涙を拭き、感情も胸の中にしまったリーナは、ジュリアに着替えさせてもらう。
その後フィリウスと共に朝食を取ったリーナは、前日と同じように馬車で宿を後にした。