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王女様に捧げる俺のすべて

作者: 初春餅

 遠い昔、草原に栄えたとある国で、奴隷出身の将軍が一夜にして王となった。



 偉大なるマジュヌーン 漆黒の竜となり

 残虐王バフダルを 骨までばりばりと喰らい尽くす



 あの夜のことを歌う吟遊詩人はウードをかき鳴らし、一番の山場で自慢の喉を震わせる。


 一滴の血も流さず、鮮やかに王位を奪ってみせたマジュヌーンは、王国史上最年少の将軍であり、元は奴隷市場で買われた子であったという。


 強くしなやかなその体躯と、戦場での圧倒的な強さから、彼は竜の末裔だったとも言われている。


 そしてもうひとつ。


 小柄でどこか人間離れした美貌を持つ、彼の最愛の妃もまた、精霊の血を引く娘だったという。


 おやおや竜だの精霊だのと、何とも賑やかな。そんなものはどうせ、王朝の始祖たる王と、その妃に箔をつける為の大法螺で――などと決めつけるのは少々、お待ちを。


 だって、本当のことかも知れぬでしょう?


 彼らが生き、出会ったのは、竜や精霊が当たり前にいる大らかな時代のことだった。






 底が見えるほど澄んだ泉のそばにあるルゥルァ村には、昔から精霊が気まぐれに訪れた。


 訪れるだけでなく、戯れもして、村では時折、若い娘が精霊の子を生んだ。


 ザーフィヤもそうして生まれた子だった。


 そのことに疑念を差し挟む余地はない。精霊の美貌と華奢な体、普通の子の半分しかない腕力を、見たこともない父から受け継いでいることは明白だったから。


 風を呼んだり姿を消したりといった、不思議な力は何一つ受け継がず、水汲みごときで他の娘の倍の時間がかかるザーフィヤは村のお荷物だった。


 母は自分より美しい娘を疎み、こぶ付きと承知で母と結婚した男は最初からザーフィヤを舐め回すような目で見た。


 義父の視線と物欲しげな指から逃れるように、ザーフィヤはしょっちゅう祖母の家に逃げ込んだ。


 やがて祖母が亡くなり、ザーフィヤが一人で留守番をしている家に昼日中でも義父が突然帰ってくるようになると、今度は泉のそばに逃げた。


 澄んだ水のそばにいると心が落ち着いた。


 裁縫道具が入った籠を持ち、人目を避けるように家を出て、ザーフィヤは毎日、泉のほとりで黙々と針仕事に精を出す。ほっそりと優しい指先は、力仕事には向かずとも、針仕事なら何でも好んだ。


 特に見事だったのは刺繍である。


 亡き祖母から習ったザーフィヤの刺繍は、花なら風に揺れるよう、蝶なら今にも羽ばたくようで、裕福な婦人を客を持つ、商人たちからの注文が引きも切らなかった。


 村の顔役を通して伝えられる注文は、一人の少女の手に負える量ではなかったが、ザーフィヤは言われるがまま、泉のそばで来る日も来る日も、日が暮れるまで絹の手巾や扇子にせっせと刺繡した。


 そうやって、毎日村のはずれで一人ぽつんと過ごしていたのがよくなかったのだろう。


 ある日、ザーフィヤは二人組の人攫いに呆気なく捕まった。


 手足を縛られ、粗末な幌に覆われただけの荷馬車の中に転がされたザーフィヤは、満面の笑みを浮かべる男二人を呆然と見上げることしか出来なかった。


「こんな綺麗な子を攫うのは初めてだ……。天の恵みとはこのことだろう」

「どれほどの値がつくかねぇ。俺たちの苦労もようやく報われる日が来たんだねぇ」


 二人は兄弟のようだった。「兄さん」「弟」と呼び合っているし、一見純朴そうな顔立ちも似ている。何より、二人からは互いが互いを決して裏切らぬという強い絆が感じられた。


 常に台座に座り、馬を操っている小柄な痩せっぽちが兄で、馬車の中でおっとりと座り、油断なくザーフィヤを見張っている方が弟である。


 手慣れていて慎重な二人は、人通りの多い街道を避け、森の中にある細道をそろりそろりと縫うように進んだ。


「明後日には王都だ。俺は今回、思い切って桁の一つや二つ、吹っ掛けてみようと思ってる」

「名案だよ兄さん。これほどの娘を差し出すんだから、俺たちだって相応のものはもらわなくっちゃあ」


 二人は心底楽しそうに笑い合った。どこにいようと奪われるだけのザーフィヤとは違い、彼らの前には薔薇色の未来が広がっているようだった。


 荷馬車を包む楽しげな空気が一変したのは、その日の太陽が西へと沈む頃だった。


 兄の方が突然、「女を捨てろ!」と鋭く叫んだ。


「どうした?」

「マジュヌーン部隊の凱旋だ! 融通の利かないあの隊に、万一こいつが見つかったら……!」


 兄が最後まで言い終わらぬうちに、ザーフィヤは馬車から蹴り落とされていた。


 馬車がそれほど速度を出していなかったことと、落ちた先がふかふかと柔らかい土の上だったことが、まだしも幸いだったのだろう。


 それでも背をしたたかに打ち付けて、ザーフィヤは気を失った。






 硬い靴が土を踏む気配を感じ、ザーフィヤはうっすらと目を開けた。


 薄暗がりの中、雲を衝く大男がザーフィヤに近づいてきている。男は立派な身なりをした若い軍人で、肩から腰に掛けて巻いた帯に半月刀を差していた。


 男がザーフィヤの前にひざまずいた。


「無事か」


 体に染み渡るような、低く温かい声だった。


「この先に、空の荷馬車で移動していた不審な男二人組がいてな。お前さんはもしかして、彼らの()()だったんじゃないか?」


 半月刀で手際よくザーフィヤの手足のいましめを解きながら、男が尋ねる。ザーフィヤが頷くと、男の目が剣呑な光を帯びて細められた。


「よし。悪いやつらはおじさんがきっちり仕置きしてやるからな」


 男がザーフィヤに手を差し伸べ、ザーフィヤは吸い寄せられるようにその手を取った。


 ――アア、ヤット会エタ。


 こんな感覚は初めてだった。まるで同族に出会ったような。この男は精霊――違う、竜だ。ザーフィヤにはそれが分かる。


「怪我は」


 ザーフィヤが首を振ると、男はほっとしたような顔をした。黙っていればきりりとした細面の男前だが、笑うと急に気さくな感じになる。


 男は羽織っていたマントでザーフィヤをくるみ、ひょいと抱え上げた。


「今日はもう遅いから、明日送っていってやろう」


 男は立派な馬具のついた黒毛にザーフィヤを乗せ、後ろから支えるようにザーフィヤの体を包み込んだ。男の体温が心地よく、疲労の極致だったザーフィヤはうつらうつらと体を揺らし始める。


「もう少しだ、頑張れ」


 笑みを含んだ吐息がザーフィヤの耳にかかった。今にも眠ってしまいそうなザーフィヤを落とすまいと、男がより一層ザーフィヤを強く抱き込む。


 しばらく進むと、薄闇の向こうに整列して彼を待つ騎兵の一団が見えた。


「将軍」

「彼らの()を保護した。今日は休ませ、明日送り届ける」

「承知しました。では、お預かりを」

「いや、俺が見つけたから」


 男はザーフィヤを離そうとしなかった。副官らしき男の先導で小綺麗な宿に到着すると、当然のような顔をしてザーフィヤを抱え、彼にあてがわれた部屋に連れていく。


 部屋には立派な寝台があり、奥には浴室が付いていた。


「湯浴みしてこい」


 男がザーフィヤに着替えを差し出し、ザーフィヤは呆然とそれを見つめた。


「将軍」と呼ばれるような立派な身分の若い男が、十六の娘を部屋に連れ込み、湯浴みを促す。それは一体何を意味しているのか。


 男の腕の中があまりにも心地よく、抵抗もせずここまで運ばれてしまったが、ザーフィヤには今日初めて会った男がいる部屋で湯浴みすることも、その先に恐らく期待されているであろうことも到底こなせそうになかった。


 立ち尽くしているザーフィヤに男は不思議そうに尋ねた。


「どうした。湯浴みの世話が必要なのか。そんな高貴なお坊ちゃんには見えなかったが、洗ってもらわないといけないと言うんなら仕方がない」


 男は気軽な調子で「行くぞ」とザーフィヤを促した。ザーフィヤは首をぶんぶんと振って男の同行を断り、差し出された着替えを引っつかんで浴室に向かう。


 そうか、そういうこと……。


 小さな体。薄い胸。平民の粗末な衣など、男女でそう大きな差はない。しかも今のザーフィヤは、若い娘とは思えないほど薄汚れていた。


 でも、あの人攫いたちですら間違わなかったのに……。


 もやもやとしたものを抱えつつも熱い湯を堪能し、泥やら汚れやらを落とす。


 手渡された着替えはやはり、大人の男用だった。本来は膝丈であるはずのそれを贅沢に引きずり、袖を何度か捲って腕を出す。


 今日のところは少年のふりをしてやり過ごすことにしよう……。


 今更女と気づかれたところで、何もいいことはなかった。汚れの取れた素顔を見せぬよう、わざと髪を前に垂らして浴室を出たのに、男は「さっぱりしたじゃないか、坊主」と言いながらザーフィヤの耳に髪をかけた。


 男はザーフィヤを座らせ、縄で擦り切れた手首に軟膏を塗った。身分ある人にやってもらっていいことではない。ザーフィヤが男の手を避けるように身をよじると、男は「子供が遠慮なんか」とまた笑った。男が笑う度、ザーフィヤの胸が温かいもので満たされる。


 男がひょいと屈んでザーフィヤの裾を捲り、「持ってろ」と有無を言わさず裾を押し付けた。素足を晒され、羞恥に身悶えるザーフィヤを余所に、男は擦り切れた足首にも軟膏を塗る。


「あゎ」


 変な声が出たせいか男が笑い、「沁みるか?」と訊いた。


「俺も湯を使う。飯を用意してもらったから、食ってろ」


 テーブルの上には鶏肉と花梨の甘い煮込みと、柔らかそうな薄いパンが何枚もあった。ちゃんとした食事。そればかりか。


 鶏肉と花梨の煮込みは亡き祖母の得意料理で、ザーフィヤの好物だった。


 薄いパンに鶏肉と花梨をたっぷりの汁ごと挟み、夢中で頬張る。パンに染み込んだ汁まで美味で、ザーフィヤは食べながら泣いた。


 湯から上がった男が「お前さん、せっかく風呂に入ったのにそんな」と、食べ終わったザーフィヤの顔と手を濡らした布で綺麗に拭いてくれた。人生に疲れていたこともあってか、男の子供扱いが心地よかった。もう誤解されたままでいいとすら思う。


 男は呆れたように笑いつつも、「美味そうな食い方だな」とザーフィヤを真似て煮込みをパンに挟んだ。汁が垂れる前に大きな口にすいすいとパンが吸い込まれるので、男の手や顎は綺麗なままだった。


「俺はマジュヌーン。お前さんは」

「……ザフィ」


 女の名前を名乗るのはまずい。そう思って、咄嗟にどちらとも取れそうな、略称のようなものを口にした。


 だが。


「そうか。ザフィ。今日はもう寝よう。俺も眠いし」


 そう言われ、寝台に誘われた時は躊躇した。


「大丈夫。お前さんを押し潰したりしないよ」


 マジュヌーンはあくびをしながら言った。


 ザーフィヤの躊躇は圧死を警戒してのことではなく、男と同衾することへの本能的な畏怖からだったが、勿論そんなことが説明出来るはずもない。


 マジュヌーンはさっさと寝台の奥に陣取り、ごろりとザーフィヤに背を向けた。


「早く来いよ、坊主」と眠そうに促す。ザーフィヤは観念してマジュヌーンの隣に潜り込んだ。彼にとってザーフィヤは「坊主」で、若い娘ではない――自分にそう言い聞かせながら。


 すぐそばにある人肌の温もりが心地よく、警戒心いっぱいだったはずのザーフィヤは溶かされるように眠りに落ちた。


 翌朝、満ち足りた気分で目を開けると、心配そうなマジュヌーンの顔が目の前にあった。


「よかった……。いつまで経っても起きないから、俺が押し潰したのかと思った」


 ほっとしたように言われ、ザーフィヤは起床早々顔を赤らめた。かなり深く寝入ってしまっていたらしい。


「どこの村だ。遠いのか」


 マジュヌーンに尋ねられ、ザーフィヤは口ごもった。村にはもう戻りたくなかった。


 一か八か、「帰るところはない」としんみり言ってみると、「まあ、お前さん一人くらいなら」と、マジュヌーンはあっさり連れ帰ってくれた。






 緑に覆われたマジュヌーンの館は広く、大勢の使用人がいた。


「お帰りなさいませ、旦那様」とマジュヌーンを出迎えた侍女が、ザーフィヤを見て目を細める。


「綺麗な娘さんですこと。旦那様、お召し物を整えてもよろしゅうございますか」

「そうだな。頼む」


 え? と訊き返す暇もなく、ザーフィヤは忍び笑いする若い侍女たちに手を取られていた。背後で先程の侍女が「旦那様はこちらでお待ちください」と言っている。ザーフィヤは目の細かい格子窓のある部屋に連れていかれ、借り物の衣を容赦なく剥ぎ取られた。代わりにどこから調達したのか、丈の合った女物を着せられる。


 まずいと思ったがどうしようもなかった。女の姿になったザーフィヤは、為す術もなくマジュヌーンの許へ連れていかれる。のんびりとお茶を飲みながら待っていたマジュヌーンがザーフィヤを見て立ち上がった。


「い、いずれ折を見て話そうと思っていたんだけど、私は実は女で、年は十六なの」


 本当の名はザーフィヤ、と死にそうな顔で続ける。


 マジュヌーンが噴き出した。


「騙していたことを告白するかのように」

「え?」

「知っていた。いや、名は知らなかったが、お前さんが女であることも、本当は子供ではないことも」


 ザーフィヤの顔を覗き込み、「お前さんを抱え上げたのは俺だろう?」と。


「だって、知らないふりをしておかないと、お前さんは俺と一緒の寝台で寝てくれなかっただろ」


 マジュヌーンが慌てて手を伸ばし、倒れそうになるザーフィヤを支えた。


「誓って何もする気はなかったが、一つしかない寝台を譲るのは癪だったし、あの寝台は二人で寝ても十分な広さだったからさ」


 腰を支えられながら、ザーフィヤは涙目になってマジュヌーンを見上げていた。


「そう怒るなよ。詫びと言っては何だが、これからは俺がお前さんの面倒を見てやるから」


 マジュヌーンが下手に出る必要など何一つなかったのだが、しばし言葉を失っていたザーフィヤが呆けたように「うん」と頷くと、マジュヌーンはほっとしたような顔をした。


 こうしてザーフィヤはマジュヌーンの館で暮らすこととなった。


 彼の館はどこもかしこも大らかな竜の気に満ちていて、大層居心地がよかった。


 中庭には青いモザイクタイルの美しい噴水があり、綺麗な水が湧いている。


 そこで過ごすのも好きだったが、女たちの部屋で針仕事をしながら、侍女たちに話を聞かせてもらうのも好きだった。


 侍女として置いてくれれば御の字だと思っていたが、館の使用人たちは皆、ザーフィヤを主家の娘のように扱い、彼女に仕事を割り当てようとしない。「良いの?」と尋ねても、「旦那様がそうお望みです」という答えしか返ってこなかった。ただ飯食らいが出来ない性分で、ザーフィヤは半ば強引に針仕事などを引き取った。


 マジュヌーンの衣を縫いながら、侍女たちからマジュヌーンのことを教えてもらう。


 マジュヌーンは解放奴隷だった。


 幼い頃に買われ、素質を見出されて法典と軍事を学んだという。


 奴隷身分から解放された後も、副将として元の主人に仕えていたが、主人が戦場で傷を負い、急遽引退することになった際、後継にマジュヌーンを推した。異例の若さではあったが、マジュヌーンの戦場での働きを知る将校たちからは一切の反対意見は出なかったという。


 彼は主人にも恵まれていたが、頑丈な体と無尽蔵の体力と、鍛えたら鍛えただけ身に付く筋肉にも恵まれていた(竜だ、とザーフィヤは確信する)。


 今のマジュヌーンは王国に七つある軍隊の、七番目を預かる将軍だった。威厳というものは未だ足りないようだったが、曲がったことを嫌い、恐れ知らずのマジュヌーンは、その青さを年長者たちから微笑ましく見守られているようだった。儂にもあんな時代があったわい、と。


 平時の今、マジュヌーンは大抵夕刻には帰ってくる。ザーフィヤは帰宅した彼と夕食を共にし、夕べのひと時を一緒に過ごす。甘い菓子を食べながら寝椅子でのんびりと過ごしたり、マジュヌーンの為に練習したウードを弾いて聞かせたり。


 ある時、ザーフィヤは思い切って尋ねてみた。


「マジュヌーン、私のようなものと一緒にいて楽しい?」


 楽しくないだろう、という自覚があった。ザーフィヤは口下手だし笑うのも下手だし、おまけに同じ年頃の娘たちと比べ、肉付きに乏しい。


「お前さんは自分で思っているより表情豊かだから楽しい」という答えが返ってきた。


「シロップたっぷりの菓子を食っている時、美味くてちょっと涙ぐんだりしてるだろ。猫を撫でている時は、猫とおんなじ表情になってるし」


 なんと!


「ほら、その顔!」


 そう言って、マジュヌーンは屈託なく笑うのだった。


「それに、お前さんが喋らない代わりに、お前さんのウードは雄弁だ。お前さんの音色は澄んでいて少し悲しげで、俺は好きだよ」


 彼はザーフィヤが仕立てた衣を気に入り、「着心地がよい」と言って、ザーフィヤが作ったものしか着なくなった。


 身分ある人々のことはいざ知らず、ザーフィヤの住む世界では、夫の衣を仕立てるのは妻の役目である。


「俺の衣ばかり作ってないで、お前さんのも作れ」


 マジュヌーンに言われ、ザーフィヤは自分の衣を見下ろした。二、三枚の洗い替えがあれば十分だと思っていたが、代わり映えのしない無地のものばかりではなく、もう少し色味をということだろうか。


「何色がいいかしら」


 どうせならマジュヌーンが好む色がいい。そう思って尋ねると、マジュヌーンは思いの外乗り気になって、部屋に女物の布地を山と運ばせた。


「ザーフィヤ、何枚欲しい」

「一着分で」


 驚くマジュヌーンに「一着分で」と繰り返す。


 マジュヌーンは「そうかい」と頷き、じっくりと吟味し始める。最終的に「これがいい」と、薄紅色の地に白い絹糸で小さな星をたくさん織り込んだ愛らしい布を選んだ。






 数日後に王都の祭りがあり、連れていってくれるというので、ザーフィヤは新しい衣をその時に下ろすことにした。


 当日、愛されて育った裕福な娘が着るような、実に可愛らしい色と模様のそれを着てマジュヌーンの前に立つ。


 マジュヌーンが息をのみ、ザーフィヤは彼の反応に満足した。


「行くか」

「うん」


 衣と揃いのストールで頭部を覆い、ザーフィヤなりに浮き立った気分で夜の街に出る。「持っていいか」と、マジュヌーンがザーフィヤを腕に乗せた。


 色とりどりのランタンの下、二人で楽しく屋台を冷やかす。あ、と呟いたザーフィヤの視線の先を追い、マジュヌーンは砂糖をたっぷりまぶした揚げ菓子を買った。


 大通りのざわめきが一際大きくなった。


 隣国から観光に来ているという王女の輿が通り、皆が見惚れている。ザーフィヤも一目見ようとそちらに顔を向けると、マジュヌーンがひょいと肩に乗せ直してくれた。


「わあ……」


 美しい輿の上で孔雀の扇子を持ち、たくさんの宝石をまとった王女が薄く微笑んで皆に手を振っていた。


「私も王女様に生まれたかったな」


 ザーフィヤがぽつりと言った。本気でそう思ったというより、彼女のような生まれならば、こんなみじめな半生ではなかっただろうとふと思っただけだった。


「王女様とまではいかないが、そこそこの暮らしはさせてるだろう」


 マジュヌーンが呑気に応え、ザーフィヤは曖昧に笑った。


 そこそこどころか。


 ザーフィヤの生まれからしたら、身に余る待遇だった。


「マジュヌーン」

「うん?」


 こんな扱いは道理に合うものではなかった。ザーフィヤは彼の家族ではなく、ましてや彼の正妻になれる身分ではない。


「私を側女そばめにするの」

「何でまた急にそんなことを」

「皆が言っている。旦那様はいずれそうするおつもりだろう、って」


 はっきり側女とは口にしなかったが、おおよそそのようなことを言っていた。


 彼が否定する気配を感じ、ザーフィヤは彼にしなだれかかるようにして言った。


「私を側女にしていいわよ、マジュヌーン」


 ザーフィヤの方では、出会った時から心ごと彼に惹かれていた。だがその一方で、マジュヌーンがザーフィヤに対してそのような気持ちを少しも抱いていないことも知っている。


 ――アア、ヤット会エタ。


 精霊の血を半分しか継がないザーフィヤが、あの時感じた運命など所詮紛いもので、要は幸薄い娘が窮地を救ってくれた男に分不相応な思いを抱いたというだけのこと。


 ――ズット前カラ、アナタヲ知ッテイタ。


 それでも、もうどうしようもなかった。心が彼を求めて止まない。どんな形でも構わない。ザーフィヤは彼のものになりたかった。


 血を吐くような告白だったが、返ってきたのは大笑いだった。


「いっぱしの女のような口を」


 マジュヌーンは笑い過ぎて出た涙を拭い、「……随分肉付きがよくなった」とザーフィヤを降ろした。


「そんなことを言うな。お前さんは俺の王女様だろう」


 困ったように告げられた言葉は、ザーフィヤの心を打ち砕くのに十分だった。


 俺の王女様。子供扱い。これからもずっと。


 それが彼の答えだった。


 二人の年は五歳と離れていなかったが、マジュヌーンにとってザーフィヤは、同情から養子に取った、小さな娘のようなものだった。


「分かった」


 ザーフィヤは彼の答えを受け入れた。不器用ながらも笑ってみせた。


 ――無理だ。


 ザーフィヤは彼に背を向け、衝動的に駆け出そうとした。


「ザーフィヤ!」


 彼の手がザーフィヤを絡め取り、彼の許へ引き戻した。泣きながらもがく彼女を再び抱き上げ、「どうして、そんなことが出来る」と絞り出された彼の声はひどく苦しげだった。憎くて愛おしい男の胸を叩き、ザーフィヤは泣きじゃくった。心のたががすっかり外れてしまったようだった。


 抱きかかえられたままマジュヌーンの館に連れ戻され、マジュヌーンから口移しに何かを飲まされた。


 それまでの激情が嘘のように、ザーフィヤは否応もなく眠りに落ちた。






 翌朝、二人は顔を合わせることもないまま、突然離れ離れになった。


 国王バフダルの命により、マジュヌーンは北方へ旅立ち、ザーフィヤは王宮に留め置かれることとなったからである。


 王国最年少の将軍が、薄紅色の衣をまとった大層美しい娘を連れていた、という話はその夜のうちにバフダルの耳に入っていた。


 翌日、彼は早速マジュヌーンを呼び寄せ、ザーフィヤのことを問い質した。


 ――其の方、凱旋時に美しい土産を携えていたそうではないか。何故その時献上しなかった。


 ザーフィヤを得た経緯もすっかり承知である。とぼけることは出来ない状況だった。


 ――何故も何も。俺のものですから。


「……前代未聞の返答でした。同席していた将軍たちと私が取り成さなければ、マジュヌーンは今頃、首だけになって館に届けられていましたよ」


 事の顛末をザーフィヤに語る宰相、カアブはマジュヌーンにはぶつけられなかった嫌味をちくりとザーフィヤにぶつけた。バフダルが待つ私的な部屋へと連れていかれている最中のことである。


 バフダルはたまたま機嫌がよかったらしく、「そうかそうか」と優しく微笑んだ。


 ――では、その代わりに同じくらい価値あるものを献上せよ。


「そう言って、王は白銀の竜のうろこを所望しました」


 遥か極北の山巓さんてんに住まうという、白銀の竜の鱗は地上のどんな宝石よりもきららかで、空にかざせば雨を呼ぶことも出来ると言われている。


 ――さすれば、女はお前のものだ。


「マジュヌーンは『承知しました』と言って、その足で出立……」

「どうして、マジュヌーン! 私のことを好きでも何でもないくせに!」


 竜の住まう地にたどり着くだけでも、命懸けの難事である。彼が何故そんな話を受けてしまったのか、ザーフィヤには分からなかった。


 カアブは呆れたような眼差しをザーフィヤに向けた。


「あなた、馬鹿ですね。好きでも何でもない女の為に、こんなことをする男がいるものですか」


 カアブは崩れ落ちそうになるザーフィヤに「立ちなさい」と命じた。


「あなたはマジュヌーンが戻るまで、王宮に留め置かれることになります。彼が鱗を持って帰ればそれでよし、そうでなければ、あなたは王の慰み者となるでしょう」

「王は約束を守るの」


 移り気で残酷、目的の為なら手段を選ばぬ王バフダルの悪名を、王都に住む者で知らぬ者はいない。


 ザーフィヤの問いにカアブは正面から答えなかった。


「……王の発言は絶対です。それはつまり、皆の前で約したことを、違えることはないということでもあります」


 何の気休めにもならなかった。


 直接手を下さずとも、マジュヌーンさえ亡き者にしてしまえば、ザーフィヤを返す相手はいなくなる。もしマジュヌーンが野垂れ死にもせず、竜に屠られることもなく、無事に鱗を携えて帰ってくれば、卑劣な王はどんな手を使ってでも、どちらも手に入れようとするだろう。竜の鱗という天の至宝と、()()マジュヌーンが気にかける女。


 カアブは「分かっているでしょうが、私はあなたの味方ではありません」とわざわざ前置きして、口早に告げた。


「ですが、もしマジュヌーンが戻らず、王の嗜虐にあなたが耐えかねるようであれば……苦しまずに逝かせてやってくれ、と頼まれています」

「マジュヌーンは帰ってくるわ」

「夢見がちな若い娘はこれだから」

「だって、マジュヌーンは竜なのだから」


「ほう?」とカアブの取り澄ました表情が一瞬、崩れた。


「マジュヌーンの出自は謎が多いですが、それなら納得できる部分があります。戦場での、あの圧倒的な強さの理由も」


 そう言って、「何故、そんなことを知っているのです?」と訝しげに尋ねたカアブは、すぐに自力で答えに到達した。


「成程、あなたは精霊なのですね」


 小柄で華奢で、どこか人間離れした雰囲気をまとう美しい娘。


 王宮の奥へ進むにつれ、ますますザーフィヤの顔色が悪くなっていくのは何も、マジュヌーンが心配だからというだけではなかった。王宮には血と慟哭と絶望のすえた匂いがこびりついている。清純な場所を好む精霊には耐えがたい場所だった。


「人使いの荒いマジュヌーンから、あなたは綺麗な水場を好むから、用意してやってくれとも言われました。その時は何を贅沢なと突っぱねましたが、生かしておく為に必要とあらば、何とかするしかなさそうです」


 ザーフィヤは青い顔を上げた。


 マジュヌーンは知っていたのか。ザーフィヤが綺麗な水のそばを好むということを。


 カアブは「私はあなたの味方ではありません」と再度念押しして、王の私室に入る直前、「王は成熟した女を好みます」と囁いた。


 ザーフィヤは咄嗟に手櫛で髪をぐしゃぐしゃと乱した。


 カアブに先導され、頼りない幼女のような足取りで王の御前へ向かう。


 やり過ぎは禁物だったが、いとけない見た目とも相まって、ザーフィヤは実年齢より幼く見せることに恐らく成功した。


 バフダルは明らかに、これほど幼いのが来るとは思っていなかったようだった。


 そばに控えていた美しい女に命じ、ザーフィヤの衣をはだけさせる。


 薄いふくらみに顔をしかめながら「幾つだ」と訊いた。


「……十三です」


 カアブの入れ知恵を活かし、そう見えなくもないぎりぎりの年齢を口にする。


「どう思う」


 苦々しげなバフダルの問いに、カアブはもっともらしく答えた。


「恐らく、マジュヌーンはこれくらいのうちからじっくりと、自分好みの女に育てる気で引き取ったのではないかと」

「ハッ。それはまた」


 バフダルはその趣向が気に入ったようだった。ザーフィヤの顎をつかんで上に向かせ、たっぷりと時間をかけて観察する。


「二、三年待ってみてもよい……。この美貌が花開く前に壊すのは確かに惜しい」


 彼はザーフィヤの義父とは違い、見た目の幼い者には本当に、一切食指が動かぬようだった。


 この日から、ザーフィヤの薄い胸を育てるべく、専門のマッサージをする女奴隷が毎日彼女の許を訪れた。


 胸は彼女の心と同じく頑なで、半年を数える頃になっても、一向に女奴隷の手に靡かなかった。


「あやつの手首を切り落とせ」


 王は気に入りの女の豊満な胸を弄びながら命じた。


「恐れながら。王はあの時、二、三年待ってみてもよいとおっしゃいました」

「賢しらな。では、代わりにお前が余興に付き合え」


 即座に口を挟んだザーフィヤに、バフダルは面倒くさそうに言い放った。


 この日以降、ザーフィヤはしばしば、バフダルの残忍な遊びの場に立ち会わされることになった。


 王の発言を逆手に取り、女奴隷を庇った罰だった。


 どんどん生気を失っていくザーフィヤをひっそりと水場に連れ出し、カアブは祈るように城門を見つめた。


 ――マジュヌーン、早く帰ってこないと、あなたの女は死にますよ。


 城門の上には生首が並び、朝日を浴びてゆっくりと溶けていた。


 その呼びかけが届いたのかどうか。


 一年後、マジュヌーンは白銀の竜の鱗を携え、戻ってきた。






 王バフダルは歓喜して、彼の帰還を祝う宴を開いた。


 バフダルの隣には、毒々しい化粧を施され、黒い薄絹の煽情的な衣を着せられたザーフィヤが侍っていた。


 何連もの黒真珠を髪や肩に垂らし、バフダルの隣にしっとりと座るザーフィヤは、どこから見てもバフダルの寵姫だった。


 ――今夜、面白いものを見せてやろう。


 ザーフィヤは彼の企みを前もって聞かされていた。


 今宵の宴でマジュヌーンに振る舞われる葡萄酒には、大型の獣でさえ動けなくなるほど強い痺れ薬が入っている。マジュヌーンがそれを飲んで倒れると、兵士たちが介抱するふりをして彼を拘束する手はずだった。


 ――理由もなく突然倒れたマジュヌーンは、我が情けにより王宮の一角にて、手厚い看護を受けることとなろう。


 だが、すべては手遅れだった。後に判明したことだが、マジュヌーンは白銀の竜との戦いにおいて、致命傷となる傷を負っていたのだ――誰が信じるのか分からないが、それがバフダルの描いた筋書きだった。


 マジュヌーンの死が発表され、英雄に相応しい葬儀が営まれる。空の棺を見送ったその後は。


 ――私の刀鍛冶が、試し切り用の肉が欲しいと言っておったのでな。


 王宮の地下に一人の刀鍛冶がいる。彼はバフダルに求められるまま、より切れ味の鋭いものを、より相手に苦痛を与えるものをと、その天賦の才をもって、自在に作り出すのだった。


 計画を事前に聞かされたところで、ザーフィヤに出来ることなど何もなかった。彼女は所詮、マジュヌーンに知らせるすべも、葡萄酒をすり替える協力者も持たぬ、ただの非力な飾りものである。バフダルはそれを承知の上で、彼女を嬲る為だけに、敢えて詳細を語って聞かせた。


 一年ぶりに見たマジュヌーンは雪焼けし、より精悍な印象になっていた。


 額にうっすらと治りかけの切り傷がある。事情を知らない者たちからすれば、それくらいで済んだのは奇跡のように思えただろうが、竜は恐らく、同族である彼に危害を加えることはなかっただろう。自然に取れて落ちたものを拾っていくくらい、好きにしろという態度だったのではないか。切り傷は恐らく別件である。酒場での喧嘩の仲裁とか何とか、そんな類の。


 マジュヌーンはバフダルに恭しく拝謁し、ザーフィヤの方を見ようともしなかった。もう身も心も王のものだと思われているのかもしれなかった。


 ――それでもいい。だけど今は、どうか私の方を見て。


 マジュヌーンの視界の端にザーフィヤがいることを祈りつつ、ザーフィヤは自身の卓にある葡萄酒の杯を手のひらで覆った。飲むな、という合図である。ザーフィヤに出来ることと言えば、本当にこれくらいしかなかった。


 マジュヌーンは見せつけるように杯をあおった。ザーフィヤは気を失いそうになるが、耐える。マジュヌーンが妙な顔をして体勢を崩し、バフダルの口元が愉悦に歪む。二人の兵士がマジュヌーンに近づいた。


 次の瞬間、兵士はどちらも地に倒れていた。


 兵士が下げていた剣の柄に手をかけ、マジュヌーンが刃を抜く。


「殺せ!」


 王命が下ったが、数多の兵士は誰一人として動かなかった。動けなかった、と言うべきか。マジュヌーンの勇猛は天下に鳴り響き、今の彼は明らかに薬が効いていない。彼は竜の気配を濃厚に立ち昇らせ、ゆっくりと周囲を睥睨した。


 彼の視線を受けた者は皆、顔に恐怖の表情を貼り付け、震えながらその場に立ち尽くした。


 マジュヌーンは手に刃を持ったまま、バフダルに近づいた。


 彼にどうにか対抗しようとしてか、バフダルの背後にいた親兵がザーフィヤに手を伸ばした。


 その瞬間、滑り落ちるいかずちのように、マジュヌーンの小指と薬指を黒い鱗が覆った。


「――マジュヌーン、私の竜!」


 竜の気を受けた親兵が人形のように崩れ落ち、気づけばザーフィヤはそう叫んでいた。


「あなたの本当の姿が見える。何て美しい漆黒の体!」


 眷属と出会ったことで、彼の中の竜が刺激されてしまったか。だが、このまま竜になってしまえば、マジュヌーンはもう二度と戻ってこられなくなる。


 ザーフィヤの叫びを聞いたカアブが、はっと大仰な手振りで口元を押さえた。


「何と! マジュヌーンが漆黒の竜に見えているのは私だけかと思っていたが、精霊の血を引く乙女にもまた、同じように見えていたのか!」


 カアブは普段の彼らしくなく、そう言って驚きを露わにした。


 兵士たちが騒めき始め、「俺も、見えたような気がする……」という声が上がる。


 完全に気圧されている兵士たちには目もくれず、マジュヌーンはバフダルの前に立ち、その喉元に切っ先を当てた。


 バフダルはあられもなく命乞いした。


「ま、待て。命だけは助けてくれ。この通り、女は返すから!」

「何を言っている。返すも何も、鱗を持って帰った以上、ザーフィヤは俺のものだろう」


 マジュヌーンの低い声が、一年前の約束をバフダルに思い出させた。


「そ、そうだったな。では財宝はどうだ、お前が望むだけやろう。金でも銀でも、金剛石でも……!」


 話にならないと言うように、マジュヌーンは鼻で笑った。


「で、では総大将の地位をやる。これならいいだろう! お前の武勇に相応しい地位だ!」


 切っ先がゆっくりとバフダルの顎を持ち上げた。追い詰められたバフダルが叫んだ。


「望みを言え、マジュヌーン! お前の欲しいものをやる!」

「ほう?」


 マジュヌーンがにやりと笑い、よく通る声で囁いた。


「では、この国をくれ」


 これにはカアブまでもが驚いた顔をした。


「ふざけるな! そんなことが――」

「たった今、王がそのようにお約束なさいました」


 一瞬で冷静さを取り戻した宰相、カアブが素早く指摘する。


「そうだ。欲しいものをやるって今」とマジュヌーンが言えば、「確かに言いました」とカアブ。


 流れるような連携だった。ここへきてマジュヌーンがぴんぴんしている理由がザーフィヤにも分かってくる。「あなたの味方ではありません」などとぶつぶつ言いながら、マジュヌーンの葡萄酒をすり替えた者がいる。


 カアブが咳払いし、高らかに告げた。


「王は譲位を宣言した。今日この時をもって、バフダルは王ではなくなった!」


 バフダルは顔を庇うように覆い、鶏のような声を上げた。


 目元をぐるりと囲む濃い縁取りのせいで、黒い涙を流しているザーフィヤに、マジュヌーンが笑顔を向けた。


「良かったな。くれるって」


 抱きついてくるザーフィヤを抱きとめ、耳元で囁く。


「――王女様」


 これでお前は名実ともに王女様だ、と。


「マジュヌーン、どうして」


 彼はまさか、戯れに呟いたあの一言を叶える為に、こんなことをしたというのか。


「初めて会った日、お前さんはずっと昔から俺を知っていたような顔をして、迷わず俺の手を取ってくれた」


 違う。初めて会った日、ずっと昔からザーフィヤを知っていたような顔をして、ザーフィヤに手を差し伸べてくれたのはマジュヌーンの方だ。


「それで十分だった」


 ザーフィヤの手を取り、口元に運ぶ彼の指はいつしか人間のものに戻っている。喋れないくらい泣きじゃくっているザーフィヤの肩を抱き、マジュヌーンはぼやいた。


「俺の我儘な王女様ときたら……。全身全霊、俺のすべてを懸けて取りにいった王国がお気に召さないというのか」

「――召しませんね、マジュヌーン。あなたが奪った王座なのだから、責任を取ってあなたが座りなさい」


 カアブが怖い顔で背後から言い渡した。






「まさか、一夜にして」とカアブはこの夜の顛末に驚いていた。


 葡萄酒さえすり替えれば、後はマジュヌーンが何か引っ掻き回してくれるだろうとは思っていたが、ここまでは想像していなかったという。彼は長い時間をかけて、バフダルの排除を計画していた。バフダルに虐げられ、些細な理由で零落した者たちを密かに支援しながら、彼らと共に機が熟すのを待っていたのだ。マジュヌーンの要求は彼にとって渡りに船だった。


 マジュヌーンに理由を問われ、「あなたと同じで、女ですよ」と答えた。


 愛していた女をバフダルに奪われ、戯れに殺されたのだ、と。


「あなたの女と同じく、私のあの人もまた、決して王に屈しなかった。王は彼女をわざと脱走させ、まるでウサギを狩るように、笑いながら矢を射かけたのです」


 あの男の処遇は任せていただけませんか、とカアブが言った。


「構わないが、どうするんだ」

「とある刀鍛冶が、試し切り用の肉が欲しいと言っていましたので」


 新たな王が誕生した夜、バフダルはカアブの命により、地下牢へと放り込まれていた。


 あの夜を境に、バフダルの姿を見た者はいない。


「ところで、ザーフィヤと仲直りはしましたか」


 あの宴の夜の装いと、崩れに崩れた化粧をマジュヌーンがからかってしまい、ザーフィヤをひどく怒らせていた。


「あなたが悪い。肝心なことは何一つ言ってやらないのに、余計なことは気軽に言うから、ザーフィヤが思い詰めるのです」


 婚礼の日までには仲直りしなさい、と尻を叩かれ、マジュヌーンはカアブの執務室を追い出された。


 すごすごと水場に向かい、何の用だと言いたげに目を上げるザーフィヤに「悪かった」と頭を下げる。


「なあ、俺のザーフィヤ。聞いてくれ」と、彼はすべての始まりとなった日のことを告白し始めた。


 カアブに説教されていなければ、永遠に言わなかったかもしれない。


「怪しい二人組をふん捕まえた後、どうにも胸騒ぎがした。行かなくちゃ、探さなくちゃって居ても立ってもいられなかった。何かに引き寄せられるように着いた先にお前さんがいて、ああ、俺の大切な人がここににいる、ってすぐに分かったよ」


 竜も最初から知っていたのだ。目の前にいる相手が、この世でたった一人の愛しい片割れであることを。






 遠い昔、草原に栄えたとある国で、奴隷出身の将軍が一夜にして王となった。


 新たな王の名はマジュヌーン。強くしなやかなその体躯と、戦場での圧倒的な強さから、竜の末裔だったとも言われている。


 彼が一心に愛した妃は、小柄でどこか人間離れした美貌を持つ、精霊の血を引く娘だったという。


 吟遊詩人たちは今宵も歌う。あの夜に起こった不思議な出来事を。マジュヌーンの宮廷で辣腕を振るった、宰相カアブの痛快なお裁きを。嘘かまことか、王妃ザーフィヤが城下にひっそりと開き、大繁盛したという仕立て屋のとある一日を。物語は汲めども尽きず、すべてを語り尽くすには夏の夜はあまりにも短い。


 マジュヌーンと彼の妃は終生仲睦まじく暮らしたという。


 王が愛妻を肩にちょんと乗せ、楽しげに語らう様子を描いた細密画は、今も王宮に数多く残る。

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[一言] すごく良かった! 作者様の世界に引き込まれました!
[良い点]  残酷でそれでいて煌びやかな、ミルラの香り漂う、まさにアラビアンナイトのような世界。堪能いたしました。  細密に描かれたエロール・ル・カインの絵本でもめくるような感じで、移り変わる情景を思…
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