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十三小隊の宿舎に戻ると、薄暗いラウンジに真っ白いものが静かに立っていた。
「うおっ」
突然現れた不気味な光景に、思わず声が漏れる。その白いものは僕の声に気づいたのか、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「ダフネくーん……お腹空いたー……」
なんのことはない、その白いものはローザだった。軟膏を塗ったあと、念のために包帯を軽く巻き直したから白く見えただけ。寝てるように言ったはずだけど、空腹に耐えかねてさながら山の獣のように出てきたんだろう。
「あ、ああ、お昼ね。ちょっと待ってて。すぐできるから」
こんなこともあろうかと、実は朝のうちに昼の分のお粥を用意してあった。保管庫に浸しておいた容器を取り出して、軽く火にかけて温める。いい感じに温まったらお皿に移して、テーブルに突っ伏すローザのもとまで運んだ。
「はい、お待たせ」
「待ってたっ!」
お皿がテーブルに乗るや否や、ローザはお皿に顔を突っ込まんばかりの勢いでお粥をかきこむ。行儀を注意しようかとも思ったけど、よくよく考えればローザがお腹になにかを入れるのは殆ど二週間振りだ。無理もないのかもしれない。
「おかわりっ」
ものの数分でお粥を全て平らげてしまったローザは、綺麗に空になったお皿を元気よく突き出してきた。それを受け取って、僕は補充の為に台所に戻る。
「ねーダフネくん、私もうお粥飽きたー」
「……それ、今言う?」
凄まじい速度でお粥を平らげた人が言っていい台詞じゃないと思うんだけど。
「だってお腹空いてたし……。昨日だって、結局好きなのにしてくれなかった。約束したのに」
背中越しに、ローザが足をバタバタする音が聞こえてくる。それだけで、べちゃっとテーブルに伏せて頬を風船みたいに膨らませている様がいとも簡単に想像出来た。
「それは悪かったって……。ローザはここしばらくなにも食べてなかったから、いきなり色々食べると身体によくないんだよ。今度、ちゃんとリクエスト聞くから」
「今度っていつ」
ぶすっとした声で、すかさず追撃。まずい、ローザの中での僕の信頼値が暴落してる。
「んーと……明日、かな」
「ほんとっ⁉」
後ろで、ガタガタッと物が擦れる音がした……ほんと、分かりやすいなあ。
「ほんとほんと」
「言ったからね! 絶対だからねっ! あと、もういっこの約束もっ」
なんだろう、最近僕の周りにまとわりつく諸問題は決して明るいものじゃないはずなのに、この天真爛漫さを見ているとそんなことも忘れそうになる。これが浄化されるということなのかもしれない。やっぱり、子供はいいなあ……意地悪したくなっちゃう。
「もう一個? なにそれ、そんな約束したっけ?」
お皿をテーブルに置きながら、すっとぼけた顔を作ってそんなことを言ってみる。
「えっ」
一瞬でローザが固まる。ビシッと音が聞こえてくるようだった。
「なにって……昨日約束したじゃん! 薬を塗ったらなんでも欲しいもの買ってくれるって!」
「えー? そんな話したっけ?」
因みに、間違いなく「なんでも」とは言っていない。ローザの中で都合がいいように改竄されている。
「した! 絶対言った!」
「はて、なんのことやら」
「したもんっ‼」
とうとう我慢ならなくなったのか、ローザは音を立てて立ち上がる。髪の毛を逆立てて、真っ赤な頬を限界まで膨らませるその様はまるでハリセンボンのようで……いかん、やり過ぎたか。
後悔先に立たず。完全に癇癪を起したローザは、火から降ろしたばかりのお粥を全力で僕の顔面に向けて投げつけてきた。
「あっぶねっ!」
間一髪、辛うじてそれを避ける。途中で零れたお粥が僕の頬を掠めて、それは熱いはずなのに全身は凍てついた。
ローザの怒りはそれでは収まらない。お粥が不発に終わったのを確かめると、今度はテーブルの端に手を掛けた──いやいや、それはまずいって!
「ごめんなさい覚えてます! 調子に乗りました!」
ちゃぶ台返しだけはなんとしても阻止せねばならない。両手を挙げて、頭に血が上りきったローザにも届くように大声で降伏を宣言する。そこまでしてようやくローザの動きは止まった。
「…………」
「はい、しました、そういう約束もしてました! ちゃんと覚えてます、ちょっとからかってみたくなっただけなんです!」
ローザは目尻に涙を溜めて僕を睨みつけていたけど、なんとか椅子に座り直してくれた。
「……お粥」
「は、はいっ」
「おかわり。あと、もう一個約束追加」
「はいっ! 承知しましたっ!」
それから数時間の間は、僕はさながらローザの使用人のような低姿勢でご機嫌取りをするはめになった。
どうやら、本当に「なんでも」用意する必要がありそうだ。
ローザに無条件降伏して、取り敢えず明日は徹底的に奉仕することが決まったものの、今日が安静の日であることに変わりはない。ローザも流石にもう寝飽きていることだし、色々と話をしてみることにした。
「なにか飲みたいものある?」
「んー、なんでもいい」
「おっけ」
柑橘系の果物を浸した水をコップに注いで、後片付けの済んだテーブルに持っていく。ローザに片方を渡すと、一気に半分ほど飲み干した。
「暇だなあ……」
「僕としてはむしろこの暇はありがたいよ……今まで忙しかったし、これからも忙しくなるし」
「そうなの? なんで?」
「なんでって……」
思わずぼやいたはいいものの、そう訊かれると答えに困る。僕を悩ませるのは殆ど全部ローザ絡みで、でも本人に言う必要はないことだ。
「それよりさ、前から訊いてみたかったんだけど、ローザはいつからここにいるの?」
「うーんと、いつからだろ……私が十二歳くらいの頃かなあ?」
「十二歳?」
いくらなんでも若すぎないか。この国の規定で、軍に入隊できるのはどんなに早くても十五歳からだ。十二歳というのは、少なくとも正規のルートからでは有り得ない。
「そんなに早く……家族の人はどうしたの?」
「どうしたのって?」
「いや、だから、お母さんとかお父さんとか、ローザがそんなに早くに軍に行くのなんか反対したんじゃないの?」
その歳から軍に関わるのなんて、そこそこ地位のある軍人の息子くらいのものだ。ローザの家庭は辺境街の普通の家らしいし、年端もいかない女の子がこんなところに来るのを黙って見送るとは思えないけど。
……けど、ローザは首を横に傾げた。
「んー? そんなことはなかったよ。お兄ちゃんがお話したら、じゃあ行ってこいって」
なんだその家族。こともあろうか、息子のたった一言で娘を手放したってことか? それはいくらなんでも薄情過ぎないか……いや、もしかしたら、なにか事情がある家庭だったのかもしれない。表向きは円満でもその内情は……なんてよくある話だ。とすると、ここでローザ相手に下手に深追いし過ぎるのもよくないか。
もう一個の気になった点について突っ込んでみることにする。
「お兄ちゃんがいたの?」
「うん。お兄ちゃんはずっと前からここにいてね、私を連れてきてくれたのっ」
「ってことは、その人の紹介でここに来たってこと?」
「うんっ。私なら、きっと役に立てるからって!」
「…………」
その「お兄ちゃん」のことを話すローザは満面の笑みで、心底楽しそうで、それだけその人のことを信頼してるということなんだろう。
でも、ならその「お兄ちゃん」がまだ十二歳のローザをこんなところに連れてきたのは何故なのか。しかも、その言葉も引っ掛かる。「役に立つ」というのは、一体なんの役に立つということなのか。
キーレン指揮官が言っていた。「実験や投薬をして実用段階まで進めた」と。ならその六年間は、その為の時間だったなんてことはありはしないか。
「じゃあ、そのお兄ちゃんに連れてこられてからはなにしてたの?」
「なにしてたって?」
「ほら、十二歳でここに来たなら、もう六年は経ってるでしょ。その間なにしてたのかなって」
「なにしてた……かなー……」
ローザは頭を動かしながら難しい顔で考え込む。前後に行ったり来たりするその頭がコップに当たりそうだったから避けておいた。
「そんなに難しい?」
確かに、記憶障害はキーレン指揮官も認めていた。その程度とローザのこれまでが知りたかったからこそのこの質問だったけど、まさかここまで考え込んでしまうとは思わなかった。
「覚えてないってわけじゃないんだけど……よく分かんない」
それから、ローザが身振り手振りも交えて必死に説明してくれたことを纏めると、どうやらローザの記憶には断片的な光景がいくつか残っているだけらしい。
曰く、薄暗い部屋にずっといて。
時々同じ服装をした、顔は分からない人が何人も部屋に入ってきて。
その人たちがローザの周りでなにかし始めると、そこでいつも記憶は途切れる。
偶になにかを飲まされたときも、そのあとの記憶はない。
偶に「お兄ちゃん」がやってきて色々話したり褒めたりしてくれて、おかげで寂しくはなかった。
と、いうことらしかった。
その話を聞いていると、所々に顔を出す「お兄ちゃん」のことが気になる。今度はそこを訊いてみることにした。
「そのお兄ちゃんって人とは、仲良いんだ?」
「うんっ! お兄ちゃんはね、私にも優しくて、すっごく強いの! ここでも偉い人なんだって! 凄いでしょ!」
「ふうん……」
それをいうなら、ローザだって僕だってその歳と経歴から考えたらかなり階級は高い方なんだけど。まあそんなことを本人に言っても分からないか。
「お兄ちゃん、私がちゃんと自分の仕事を頑張ったら結婚してくれるんだって!」
「ぶふっ⁉」
ちょうど水を口に含んだところだったことを忘れて咄嗟に訊き返そうとしたら、見事に吹き出してしまった。
「わっ。どうしたの?」
「ちょっ、ちょっと待って……え、なんて? 結婚?」
結婚? 実の兄と? 本気で? 本気で近親相姦するつもり?
「? そうだけど……」
「うん、ちょっと待とうか。まずは話を整理しようか。その人は、本当にローザの「お兄ちゃん」なの?」
「そうだよ? それがなに?」
ローザはきょとんと首を傾げている。なんで僕がこんなに取り乱しているのかも分かっていなさそうだ。本気で、兄と結婚すると言っている。それが実兄なら大問題だぞ。
「うーん、じゃあ質問を変えよう。ローザ、その「お兄ちゃん」って人とは、一緒に住んでた?」
「ううん。お向かいの家にいたよ。でも、毎日私の家に来て一緒に遊んでたの」
「なら、その「お兄ちゃん」って人はローザのお母さんのことを「お母さん」って呼んでた?」
「お母さん?」
「まあ、母ちゃんでもママでもいいけど。とにかく、そういう呼び方をしてた?」
そこでローザはまた記憶をひっくり返すように眉間に皺を寄せる。少しの間そうしてから、ふるふると首を横に振った。
「……お兄ちゃんはお母さんのことを「おばさん」って呼んでたと思う」
「ああ、そう……」
なんだ、そういうことか。ならいいや、少なくとも事案にはならないだろう。
ローザには家が近くて仲がいい、言わば幼馴染のような人がいて、その人をローザは「お兄ちゃん」と呼んで慕っていると。その人と結婚する約束もしていると。成程成程、それならなんの問題もない。
……いや、本当にそうか?
ローザの話から推断するに、その「お兄ちゃん」という人はローザよりも年上だろう。それはつまり十八は軽く越えているということ。しかも軍のお偉いさんだという。それが本当なら、もう既に結婚しているのが普通な気がする。
それに、なによりその「お兄ちゃん」は恐らく意図的にローザをあの非人道的な計画に引き入れている。そして、結婚を餌にその意思を保たせている。
そんな人間の言うことを信用してもいいものか? そうでなくとも、その手の幼心故の約束は時と共に自然消滅していくものだというのに。僕だって、遥か昔に将来を誓い合った隣家の女の子はいたけど、その子は僕が十四歳のときに知らない人と駆け落ちしていった。
でも、それを直接ローザに言うのは憚られた。きっと言っても理解出来ないし、なによりその笑顔を曇らせるのは嫌だった。
結局、その「お兄ちゃん」という人に対する一方的で漠然とした不信感だけが残った。