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6

 死や痛みを恐れずに敵に突っ込んでいく強い兵士を作る。全ては劣勢に陥った国家情勢を覆す為だけに。

 兵士の安全? そんなのは知ったことじゃない。その生死も含めて、兵士は軍のものだ。

 倫理の問題? それはこっちが考えることじゃない。人権問題の為に戦うわけじゃない。

 ただ、戦争に勝つ。それさえできれば、他の全ては問題でなくなる。

 狂ってる。そんな計画を考える奴も、それに賛同する奴も。

 分かってない。それで失われるものも、悲しむ人のことも。

 しかも、その研究は僕の父さんのものだって?

 嘘だ。有り得ない。

 あの書類だって、大方身柄を拘束してるのをいいことに署名だけさせたに違いない。責任分散か、なにか他の意図があったのかは知らないけど。

 けど、今目の前でローザが横たわっている。それは紛れもない事実だった。

 数日振りに帰ってきた宿舎。ローザは、果たして自分の部屋のベッドで横になっていた。けど、例えばここがローザの部屋じゃなくて僕がいたような普通の病室だったら、僕はきっとそれがローザだと気づかなかっただろう。

「…………」

 毛布から飛び出しているその頭は、寸分の隙もなく真っ白な包帯に包まれている。そこには辛うじて呼吸の為の隙間が開けられているのみで、あとは目鼻の区別もつかない。まるでミイラだ。毛布の下の右手もそれは同じで、こっちは手首も指も分からないほど分厚くぐるぐる巻きにされていた。それもこれもあの大きな傷を処置する為だけど、ここまで丸太のようになっているともはや滑稽だ。

 ローザがこうして眠っているのは、今日でもう一週間半になる。こんなに長いのは、体力を温存させる為に薬で眠らせているからで、その間僕は定期的に包帯の口の部分から栄養剤を含ませていた。けど、それももう少しで終わりになる。

 昨日の夜から睡眠薬を飲ませていない。もうそろそろ目覚めるはずだ。

 まんじりともせずに規則正しく上下する毛布の丘を見つめていると、不意にその波が不自然に乱れた。ついで、包帯の下から微かな声が漏れてきた。

「ん……」

「おはよう。ローザ」

「ん……? あれ、あれ?」

 真っ白な塊は僕の声に反応してそののっぺらぼうな顔をこちらに向けて、それから異変に気づいたらしい。毛布の下から左手の丸太みたいな右手を引っ張り出して、指の使えない右手に更に困惑している。その様は見ていてちょっと面白いけど、まさかそのままってわけにもいかない。そろそろ手伝ってあげるか。

「ローザ、ちょっと落ち着いて。じっとしてて」

 身を乗り出して、頭を覆う包帯の留め具に手を掛ける。ローザからしたらなにがどうなってるのか分からないはずだけど、それでも言う通りじっと包帯が滑り落ちるのを待っていた。

 ゆっくりと、隠されていたローザの顔が露わになる。中央に薄っすらと傷跡を残したその顔は、僕と目が合うとパアッと輝いた。

「ダフネくん、おはよう! 久し振りだね!」

「……おはよう」

 普通、そこは自分の状態を疑問に思うところじゃないのか。なんで注意が完全に僕の方に向いてしまってるんだ。

 なんて、直接言うことは出来なかった。

「次は右手だね。貸して」

 右手の状態も、微かに痕が残るまでに快復していた。傷自体は塞がっているし、触って確かめた感じ筋肉系のダメージも残ってない。

「動かしてみて。ちゃんと動く?」

「んー? 全然平気だよ?」

 なら、殆ど完治しているってことで間違いはなさそうだ。あとは……。

「ダフネくん、なにそれ?」

「傷跡を消す薬」

 前もって持ってきておいた瓶を取って、その蓋を開ける。強烈な刺激臭が立ち上った。

「うっ! なにこれっ⁉」

「ごめん、こういう薬なんだよ」

 この薬は、塗った部分の皮膚の傷跡を消すことが出来るという便利な薬だけど、この臭いが唯一の欠点だった。僕もこれをなんとか出来ないかと思って二年近く頑張ってみたことがあったけど、結局諦めてしまった。

「これを顔と右手に塗るからね」

「えっ、なんでっ⁉」

「だって、そんなにくっきり傷が付いてたら嫌でしょ?」

「え?」

「え?」

 奇妙な沈黙。その沈黙の中、ローザは自分の右手を見下ろす。そこで初めてそこに大きな傷があることに気づいたらしかった。

「あれ? いつの間に」

「いつの間にって……待って、ローザ、どこまで覚えてるの?」

 その素っ頓狂な顔を見ていると、なんだか不安になってきた。僕はローザが『暴走』する直前までの記憶しかないけど、当のローザ本人はどこまで覚えてるんだ?

「どこまでって……なにを?」

「いやだから……なら、なんでローザはここで寝てるの?」

「え? ……分かんない」

「なら、ローザが最後に覚えてることは? なにしてた?」

「なに……してた……」

 ローザは眉間に皺をよせ、俯き込んでしまった。まあ、あの丸薬のこともあるし、多少記憶が混濁することはあるのかも、

「あっ、思い出した!」

 整いました、と言わんばかりに威勢よく手を挙げる。

「お昼ご飯がまだだよっ!」

 ……え?

「だから、お昼ご飯っ。お腹空いた!」

 今はもう夕方だ。いやそんなことはどうでもよくて。

 ローザは、一体いつの昼の話をしてる?

「えっと……昼ってのは、いつのお昼?」

「いつ?」

「そのお昼になる前、ローザはなにしてた?」

「なにって……あ、ほら、お買い物したじゃん! あそこの本屋さんでおっきな本買ってた!」

「…………」

 それは、出撃命令が来た日の更に前の日の話だ。その日は、確かに僕が必要な物を買いに出かけた。けど、その日はちゃんと昼食を摂ったはずだ。そのことすら忘れてるってのか?

 ……まさか。いや、いくらなんでも、

「……おかしいだろ」

「え?」

 口の中で呟いただけのつもりが、聞かれてしまった。けど、もう我慢出来ない。

「ローザは、おかしいと思わないの? だって、ローザは自分がなんでここで寝てるのかも、どうして包帯まみれなのかも、そうなる前になにをしてたかも覚えてないんでしょ? こんなの、絶対なにかおかしいよ」

 言いながら、自分の口から洩れる言葉が嫌になる。こんなの、最悪な訊き方だ。こんな風に一方的にまくし立てたところで、ローザを徒に不安にさせて、混乱させるだけだってのに。

 こんなの、僕の八つ当たりでしかないってのに。

 それでも、それを受けるローザの様子は落ち着いたものだった。

 ちゃんと僕の言葉が途切れるのを待って。

 僕がそれ以上なにも言えないのを確かめて。

 首を僅かに横に傾けて。

「そう? こんなの、いつものことじゃないの?」

 そう言い放った。

 …………。

 もう、なにも言えなかった。八つ当たりをするには背筋が冷えすぎていたし、これ以上追及するには怯え過ぎていた。

「…………」

「………?」

「……あ、じゃあ、これ、塗ろっか」

「それはイヤっ!」

 生まれてしまった気まずい沈黙を、宙ぶらりんになっていた瓶を持ち直すことで強引に埋める。かなり無理矢理だったけど、ローザは上手いこと気を逸らされてくれた。

切り替えよう。患者に不安を与えないのも医者の仕事だ。

「でも、ほら、顔の真ん中に傷があるのも嫌でしょ?」

「その薬の方がイヤっ」

 言うなり、ローザは頭から毛布を被って丸まってしまった。完全に籠城の態勢だ。

「えー……」

「イヤなものはイヤっ。絶対反対っ」

 反対の強い意思を示すように布団をバンバンと叩いてアピールする。仕方ない……堕とすか。

「じゃあ、もし塗らせてくれたら、なにか好きなものを一つ買ってあげるよ」

 僕の経験上、大抵の子はこれで陥落する。果たして、間もなくローザがカタツムリのようにひょっこりと顔だけ出した。僕も、伊達にこの薬を持って何人もの子供たちの相手をしてたわけじゃない。

「……ほんと?」

「ほんと」

「……ほんとにほんと?」

「ほんとにほんとのほんと」

「うー……なら、はい」

 ローザは目を固く瞑って、手で鼻を摘まみながらも顔をこちらに向けてくれた。手があると塗りにくいし、別に目を閉じる必要はないんだけど、譲歩してくれただけマシか。

「ありがと」

 無事に顔に塗り終わって、次は右手……と、ローザはまた毛布の中に包まってしまった。

「? まだ右手が残ってるよ?」

「……もう一個」

「うん?」

「もう一回塗るなら、もう一個なにか買って」

 こいつ……。

 いつの間にそんな小賢しいことが出来るようになったんだ。もういっそ強制執行してしまおうか。……いや、流石にそれは大人気ないか。

「……分かった。一個追加ね」

「はい」

 ようやく毛布の下から右手が突き出される。軟膏一つ塗るだけで凄い手間だ。

「あ、あと、今日の夜ご飯は私が決めたい」

 そして、僕が薬を塗っている間に、ローザはどさくさに紛れて要求を一個追加してきた。

 それ、交換条件にすらなってないだろ。

 

 翌日、ローザには絶対安静を命じて、僕は出掛けることにした。用件は大きく分けて二つ。まずは一つ目の用件を済ませる為に本部の建物に向かった。

「ダフネ一位戦術監督官です。キーレン総指揮官にお取次ぎ願えますか」

 守衛室で用件を伝えると、そこにいた士官はきょとんとした様子で僕を見つめた。

「……事前のお約束などは、」

「ありません。総指揮官には、『切り札のことでお話がある』とお伝えください。ご都合がつくまで私は待ちます」

「いや、しかし事前の予定なしには……」

「お願いします」

 士官は戸惑っているみたいだったけど、中尉相当の無駄に高い地位とごり押しのおかげでどうにか連絡を取らせることに成功した。

 士官はどこかに行って総指揮官にお伺いを立てていたようだけど、しばらくすると戻ってきた。

「今から少しの間ならお時間あるそうですが、」

「そうですか、それでは今から向かいます。ありがとうございました」

 流石に三度目ともなれば案内も要らない。先導しようと部屋から出てきた士官を待たずに上階に続く階段に足を掛けた。

「……そちらからここに来るとは、初めてじゃないか? ショックはもう抜けたのか?」

 事前の連絡もなく押しかけられたということ以上に、キーレン総指揮官は驚いていたようだった。おかげで、苦し紛れに付け足された嫌味にも切れ味がない。

「本日は、今後の一位戦術監督官としての任務遂行の為、どうしても伺っておかなければならないことがあり、無理を承知でお時間を頂きました」

「……ローザ二位戦術工作官についてのことか?」

 今日はいつものように自分のペースに持ち込めないことは指揮官にも分かったようで、仕切り直すように咳払いを一つして真顔で僕の目を見る。

「はい。ローザ二位戦術工作官には、明らかに言動に不自然な点が散見されます。身体年齢にそぐわない精神年齢もそうですが、作戦前に丸薬をなんの躊躇いもなく自ら呑んだこと。薬の作用で記憶を失い、生死の縁を彷徨ったあとだというのに自分の記憶や身体に一切の関心がないことなど、なにかしらの精神障害があるとしか思えません」

「……それについては既に説明しただろう。彼女は我が軍の新技術の試作体で、」

「いえ、私がお伺いしたいのは、その性質についてではありません」

「……?」

 指揮官の鋭い視線が、その裏側まで覗こうと僕の身体を容赦なく貫く。けど、残念ながら彼が想像するような真意は僕のどこにもない。

 今日僕がわざわざこんな場所に来たのは、嫌々でもなければ、抗議の為でもなければ、勿論説明を求める為でもない。

 戦う為だ。

「私がお聞きしたいのは──ローザのあの精神性は、研究の過程で生じた人為的なものではないか、ということです」

「…………」

 指揮官は、僕の質問にすぐは答えなかった。僕の身体の裏側さえも嘗め回すように視線を浴びせて、慎重に口を開く。

「そんなことを知って、どうしようというのだ」

「私の職務に対する気持ちが変わります」

 指揮官は、そこでまた口を閉ざす。僕の気持ちがどういう方向に変わるのかを考えていたのかもしれない。そろそろ指揮官の視線が僕の表面を舐め尽くしたんじゃないかという頃、ようやくその唇が動いた。

「……もともと、ローザ二位戦術工作官の身体には先天的な特徴があった。しかし、それだけで実戦運用が出来たわけではない。こちらで研究や調整を行う必要があった。その過程で薬剤投与などを試みたが……それを機に人格や身体能力、記憶機能に変化があったという報告はあった」

「左様ですか。ありがとうございます。では、その研究に関わる記録を見せて頂くことは可能ですか」

「それは許可出来ない」

 この返答だけは素早く、そして簡潔だった。こっちはまだ理由も言ってないっていうのに。

「この計画は軍の機密事項に指定されている。例え直属の上官であっても、外部に持ち出すことが可能な者に開示するわけにはいかない」

「……そうですか」

 そのきっぱりとした口ぶりからして、その意思は固そうだ。あわよくば父さんが本当にその研究に関わっていたのかも探れないかと思ってたけど……ここは潔く引き下がるのが吉かな。ドア・イン・ザ・フェイス作戦に切り替えよう。

「それでしたら、せめて私の診療所に一時的に戻る許可を頂けませんか?」

「あそこに? 何故?」

 お、今度はちゃんと理由まで言わせてもらえそうだ。チャンスはあるかもしれない。

「先日の作戦を鑑みるに、現在私が用意している薬ではとても任務遂行に堪えないことは明らかです。ですので、診療所にある専門的な書物や薬材を持ってきたいのです」

「それは、軍の市場ルートから入手することは出来ないのか?」

「試みましたが、情勢の変化などもあって難しいのが現状です。市場で入手できるもので間に合わせようと思ったら基本的な薬を標準的な量だけ用意するのが精一杯ですが、これでは十三小隊が赴く苛烈な戦場にまるで太刀打ち出来ません」

「…………」

 指揮官は顎に手を添え、僕ではないどこかを見ながら考え込む。それは純粋に計算しているというよりは、なにかを思い出そうとしているようにも見えた。

「……それも許可出来ない」

「え? 何故ですか?」

 まさかこれすらも断られるなんて、予想外だ。おかげでこれまでの真剣な空気に似つかわしくない間抜けな声が出てしまう。

「言っただろう。十三小隊の任務は機密事項に関わるものだ。迂闊に駐屯地の外に出るような真似はさせられない」

「なら、監視を付けて頂いても構いません」

「……それでも、だ。薬材の調達に関しては、どうにかしてくれというしかないが……そうだな、監査部は気にしなくていい」

「……畏まりました。ありがとうございます」

 あの奇妙な間といい、こちらが最大限の譲歩をしたのに頑なな態度といい、なにか裏があるような気がする。とはいえ、最低限の条件は通すことが出来た。

監査部というのは、軍の規律を守る為の部門だ。主に、この駐屯地にいる軍人の外部との繋がりの監督、内部の治安維持を行っている。それを気にするなと言ったのは、外部との裏取引のことを示している。要は、市場で駄目なら闇市で入手しろ、ということ。

そうなると今度は、総指揮官直々にそうまで言わせるほど僕をあの診療所に近づけたがらない理由ってのも気になるけど、それはそんなに大事なことじゃない。本題のことを考えれば、まあ及第点ってところかな。

「用件は以上か?」

「はい。ご多忙の所、お時間を取って頂きありがとうございました」

 軍の総指揮官のことだ。きっと今日も激務なのだろう。そして、僕にもこの後の予定がある。回れ右で身体を翻して出口に向かう。

「キーレン総指揮官!」

 最後に、言っておきたいことがあった。扉に手を掛ける直前に振り返って指揮官に呼びかける。すっかり仕事モードに戻っていた指揮官は驚いた様子で僕を見た。

「私、ダフネ一位戦術監督官は、自らの本分を全うする為、死力を尽くします!」

「…………」

 薄々分かってはいたことだけど、指揮官は完全に呆気に取られていた。

 でも、それでいい。これは僕の為の、僕の戦いなんだから。

「それでは、失礼します」

 指揮官が我に返るのを待たずに、今度こそ部屋を出た。外では士官が控えていたけど、例によって彼を待たずに先に歩き出す。

 敵は分かった。味方ははっきりした。

 ならば、あとは戦うだけだ。

 軍人らしく、勇敢に、無謀に。

 そして、医者らしく、平和裏に、穏便に。


 ついで向かったのは医療部の建物。とはいえ、こちらは本当に突然押しかけるわけにもいかないから、建物の近くをウロウロしながら少し時間を潰して、目的の人物が外に出てくるのを待った。

「そんな所でなにしてるの? 今のダフネ、完全に不審者そのものよ」

 果たして、パルサは裏口から出てきた。時刻は昼過ぎ。昼休みの時間だ。パルサも手に小包を持っていた。

「パルサを待ってたんだよ」

「あら嬉しい。なら、どこか落ち着ける場所でも行きましょうか」

 そう言ってパルサが僕を案内したのは、建物から少し離れた所にある小さな広場のような場所だった。平常時は兵士たちの憩いの場、非常時は避難用の火避け地として設けられた広場にはいくつか座れる場所があったけど、寒くなってきたからか人はいない。パルサは無人の広場を大股で横切り、ベンチに腰掛けた。僕も失礼してその隣に座る。

「なんか、パルサが白衣を着てないのって初めて見たかも」

 隣に座るパルサは、薄緑色のワンピースに似たデザインの女性用軍服に身を包んでいる。それはいつもの白衣の下に着ている服だけど、それを覆う白い布が一枚なくなるだけでかなり印象は変わるものだ。

「当たり前じゃない。外に白衣を着ていくなんて、不衛生極まりないわ」

「いや、それは勿論分かってたけどさ……」

「どうも、ダフネの中では私の白衣キャラがすっかり定着しているようね。気に入らないわ」

「き、気に入らないって……ごめん、悪かったよ」

 パルサは、意図的なのか無意識なのか、かなりずばずばと自分の感情を口に出す。他の人なら表情だとか態度で表そうとするものも、パルサは言葉にするのだ。それも、いつも簡潔で平坦な言葉で。これもある意味では感情表現が豊かと言えるのかもしれないけど、個人的にはパルサがもともと持つ底の知れない感じを増長させているようにしか思えない。

 ただ、じゃあパルサが言葉通りの感情を抱いているのかと言えばそんなこともない。これに似た言葉は何度も言われてきたけど、僕はパルサがその言葉通りに怒っているのを見たことがない。今も、昼食の包みを開きながら唇の端に笑みを滲ませていた。

「でも、よくよく考えてみれば、私がダフネと会うときって、いつも私が白衣を着ているときだったわね。とすれば無理もないのか……よし、分かった」

 パルサはなにか楽しいことを思いついたようで、その笑みを一層深めると目だけ動かして僕を見る。

「今度、一緒に出掛けましょう。私が白衣しか着ない学問の虫なんかじゃないってことを分からせてあげるわ」

「へ?」

「日は追って連絡するわね。ふふ、楽しみだわ。どうやってその曇りきった寝ぼけ眼を醒まさせてあげようかしら」

「……あの、お手柔らかにね?」

 パルサは、感情表現も唐突なら行動も唐突だ。この話の流れからどうやったら一緒に出掛けることになるのか僕にはさっぱり分からないけど、まあ本人が楽しそうだから良しとしておく。藪は突かないに越したことはない。出てくるのが蛇だけとは限らないんだから。

「それで、今日はなんの用なの?」

 パルサはお弁当派らしい。包みから出てきた小さなお弁当箱にはぎっしりと色々な料理が詰め込まれている。その中には一目見ても手が込んでいると分かるものもあった。そんな豪華なお弁当に箸をつけながら、パルサはなんの前触れもなく僕の懐に飛び込んでくる。

「まさかダフネが、ただ私と昼を食べる為にわざわざあんなところに来るわけないものね。なにかのっぴきならない事情でもない限り、ダフネの方から私に関わりに来ることなんてない。そうでしょう?」

「いや、あの、それだと僕がとんでもなくゲスい奴みたいになっちゃうんだけど……」

 今僕は、自分の本心を見抜かれていたことよりもそういう風に評価されたことに対してドギマギしている。嘘だ、僕はそんな最低男ではないはずだ……。

「見て見ぬふりをすることほど罪深いことはないのよ。ほら、聞いたことない? イジメを黙認する人もイジメをしてるのと同じだって。あれと似たようなものよ。ってか、ダフネ、お昼は?」

「え、いや、まだだけど」

 この時間までずっと外でパルサを待っていたから、昼は食べる機会すらなかった。だから、話が終わったらローザの様子も見つつ適当に済ませるつもりでいる。

 すると、何故かパルサは心底楽しそうに笑みを深くした。

「なに、お昼まで私にたかるつもりだったの? ほんと、どうしようもないクズ男ね。ほら、あーん」

「あっ……んぐっ」

 パルサはおかずを一つ取り上げると、それを僕の口元に持ってくる。けど、その速さは世間一般の『あーん』の速度じゃない。普通に速い。急速に目の前に迫るミートボールに驚いて「あっ」と声を漏らしたところに、すかさず箸が突っ込まれた。砂糖で甘く味付けされたソースが口の中に広がる……うん、美味しいな。

 じゃなくて。

 パルサが言っていた、僕が惚けているということ。それがなにを指しているのか、僕は分かっている。多分。

 パルサのミステリアスさを深めている要素の一つに、「思わせぶり」というのがあった。今の『あーん』もそうだけど、とにかく思わせぶりな言動が多いのだ。

 ……あれ、もしかしてこの子、僕のことが好きなんじゃ?

 何度、そんなことを考えたことか。そして何度それを脳内会議で否決したことか。その回数が多過ぎて最早議事録も残ってないけど、喧々諤々の議論に議論を重ね、ようやく僕はパルサの思わせぶりな行動に振り回されない、いわば悟りの境地のようなものに到達した。

 そして、星の数ほど開かれた脳内会議で、「やっぱこれワンチャンあるって! イケるって!」という結論が出たことはただの一度もない。それには理由が二つある。

 まず、僕が思春期こそ脱せど、未だ血の気旺盛な若者だということ。こういう時期は、特に男女のあれこれについては目が眩みやすい。なまじっか知識や経験でそういう話を何度も目にしていたからこそ、僕はこの点について人一倍強い自戒を持っている自信がある。

そして二つ目。これが一番の理由だったけど、それはパルサの戦績だった。その妖艶さに魅入られてパルサに近寄っていく男は、僕の同期にも先輩にも後輩にもかなりの数がいた。そして、彼らは悉く花を咲かせることなく散っていった……いや、もしかしたら死に花を咲かせたとは言うことが出来るかもしれないけど。とにかく、パルサとの恋を成就させた人は一人もいなくて、中には顔面蒼白になって戻ってきた人もいた。目の前に累々と積みあがる先達の死体の山を見れば、誰だって尻込みするものだ。

そんなわけで、今の僕は静かな諦観の念と共に、とても落ち着いた心持でパルサと接することが出来ているのだった……ごめん嘘。さっきの一言でまたちょっと揺らぎかけた。

「……そうそう、その用件なんだけどさ」

 とはいえ、僕のこの情けない叙述をそのままパルサに白状するわけにもいかない。仕方なく、露骨に話を本題に持っていくことにした。

「最近、薬材って足りてる?」

「……うーん。ちょっと厳しめね」

 僕の苦し紛れの話題のすり替えにパルサが気づいていないわけがない。それでもそこに突っ込むことなく、黙ってすり替えられてくれた。今はただその温情に感謝だ。

「どうも、地方からの供給ラインが崩壊してるみたいなのよ。でも、それがどうかしたの?」

「いや、そんな状況で薬の確保とかどうしてるのかなって。僕も色々探してるんだけど、やっぱりどうしても足りなくなっちゃうんだよ」

「その薬って、もしかしてあの十三小隊の娘に使う薬?」

「え」

 なんでそれを知ってるんだ。

 そう訊き返そうとして、直前で踏みとどまった。こんなの、犯人が自分の隠蔽を暴かれたときに言う典型的な敗北宣言じゃないか?

 そして、中途半端に開いたままになった口にまた箸が突っ込まれる。ポテトサラダ美味しい。

「最近噂になってるわよー。敷地の端っこにある掘立小屋に十三小隊なる二人組が住み着き始めたって。普段はなにもせずに小屋でイチャイチャしてるだけなのに、最近の鎮圧作戦に限って専用車で出掛けてったって」

「…………」

 なにが『軍の機密事項』だよ。ダダ洩れじゃねーか。

「尤も、ここまで話を纏めてるのは私くらいよ。みんなは断片的な噂話を暇なときにしてるくらいだから、そんなに大騒ぎにはなってないわ」

 そんな、僕の方向違いの愚痴を察知したかのようなタイミングでパルサの補足が入る。でもその補足は、パルサには多くがバレているという一番まずい事実を暗示するだけだ。

「医者のダフネをわざわざそんなことしてまで戦場に送り込むわけがないし、なにかあるとしたらあの女の子の方だろうなって思ってたんだけど、どうなの? 正解?」

 すっかり固まってしまった僕に答えを求めて、パルサが顔を覗き込んでくる。僕は、その目を見ることも出来なかった。

「……お察し下さい」

「ふーん、そっか。成程成程。んで、ダフネはその娘に使う薬に困ってるわけだ。余程激しい怪我をするのね?」

 ああ……。芋づる式にどんどん推察されていく……。それをなにも言えずにただ聞かされてる僕の心中もお察して欲しい。

「……まあ、そんなところ。本当は診療所に取りに行くのが一番いいんだけど、それは駄目だって言われちゃってさ。なにかいい方法はないかな」

「んー……そうねー……」

 パルサは箸を置くと、顎に指を添え、宙を見上げて考え込む。その様は、持っている情報を開示しようか悩んでいる顔だ。

 実際、僕の方にも目算はあったのだ。僕が必要とするような薬を軍病院が必要としないわけがなくて、しかも調達出来ない理由は同じ。なら、病院が使っているのと同じ手法で僕も薬材を入手することは出来るはずだ。

 パルサの中で結論が出たらしい。箸を取り直して、トマトを口に入れる。

「……確かに、いい方法、いやよくはないわね、とにかく方法はあるわ。裏口のパイプがあって、ここの病院はどうしても必要なものはそこから買ってるみたい。けど、これは勿論違法だし、やむを得ないとは言え大手を振って出来るようなことじゃないわ」

「その点については心配ないんだ。そのパイプってのを教えて欲しい」

 出来る限り身体を捩って、隣のパルサに向き直る。若干の気まずさと恥ずかしさを泣く泣く斬って、その目を見つめる。ドアインザフェイス作戦が上手くいかなかった以上、僕が取れる方法は恐らくこれしかない。これがないと、僕は戦う土俵に立つことすら出来ない。

 かつてない真剣さを漂わせた僕に驚いていたのか、パルサは少しの間箸を咥えたまま固まっていた。けどすぐに余裕のある笑みを取り戻して、お弁当箱から林檎の兎を摘まみ上げると一口齧って、残りを僕の口に押し付けた。

「高くつくわよ」


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