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朝になった。家の窓を開けて、外に出る。大きく掲げられた『青薔薇診療所』の看板をしばらく眺めて、その下に『問診中』の札を掛けた。
今日はこれからとある男の子の様子を見に行く約束があった。中に戻ってその準備に取り掛かる。水をコップに一杯飲んで、服を着替えて、用意しておいた鞄の中身を確かめて、最後に最低限寝癖を整えると、鋭く冷えた外気の中に踏み出した。
まだ朝早い所為か、通りには人は居なかった。いつもよりも広く寒々しく感じられるだだっ広い道。その続く先には、巨大な城が蒼然と聳え立っている。物言わぬその姿は、この国の誇りと力を公然に示しているようにも見えた。実情はそんな余裕とはかけ離れているというのに。
「…………」
少しの間、足を止めて城を見ていた。もしかしたら、父さんはあの建物のどこかにいるのかもしれない。けど、幾ら眺めたところで城はその澄ました惚け顔を崩すわけがない。そのことに気づいて、また足を動かした。
約束していた男の子の家は、そこから三十分ほど歩いた城の近くにあった。戸口の前に立って、扉を叩く。直ぐに人が動く気配がして、扉が開かれる。後ろで一つに纏めた茶髪を肩越しに前に流した、物腰の柔らかそうな女性が立っていた。男の子のお母さんだ。
「おはようございます」
「あら、ダフネくん。来てくれたのね!」
お母さんは柔らかく微笑むと、手で中を示して自分は台所に戻って行く。僕はその邪魔にならないように、四人机の角の席に腰を下ろした。僕がこの家に通うようになってから、もう一年近く経とうとしている。お互いの気心も知れているから、僕が勝手に鞄の中のものを机に並べてもお母さんはなにも言わなかった。
「あの子ったら、まだ寝てるのよ。今日はダフネくんが来るからねってちゃんと言っておいたんだけど。ごめんね、折角来てもらったのに」
お茶を用意してくれていたお母さんが、コップを二つ載せたお盆を持って僕の向かい側の席に座った。お母さんが渡してくれる前にコップを取り上げて、有難く一口頂く。
「いえ、朝早くに来たのは僕の方ですから。今日はちょっと予定が立て込んでて……それで、様子にお変わりはないですか?」
「ええ、ダフネくんのおかげで元気よ。まあ、やっぱり同い年の子たちと一緒に遊ぶのは難しいみたいだけど……」
お母さんはそう言って、窓の外を寂しげな目で見遣る。
男の子は、生まれたときから肺が弱かった。その影響で運動などが思うように出来ず、また風邪なども引きやすくなっている。多分、外に出たのも数えるほどしかない。
「……でも、代わりにダフネくんが遊んだりお話ししたりしてくれるから。あの子も、それを楽しみにしてるみたい」
そう言って僕を見るお母さんの表情には、さっきまでの寂しげな色はない。それが分って、僕は内心でほっと息を吐くことが出来た。お父さんもいないこの家では、お母さんも相当な苦労をしているはずだった。だから、何度も通ううちにお母さんにも明るい表情が増えてきて、本当に良かったと思う。
まずはお母さんの様子が分かったところで、僕は席を立った。いつもはもう少しゆっくりするんだけど、今日はそういうわけにも行かない。
「それじゃ、寝てる間に様子を見てきます」
「うん、お願いね」
お母さんに見送られ、僕は一人二階に上がった。
男の子の部屋は、二階の一番手前の部屋にあった。扉の前に立って、一応ノックをする。もちろん、返事はない。
「入るよー……」
小声で断りを入れて、そっと部屋に入る。暗くてなにも見えない部屋の中で、真っ先にそこに充満する独特な匂いが鼻をくすぐった。普通に暮らしていたらまず嗅ぐことはないような、ツンと抜けるような香り。空気を吸うと、その空気が鼻を通り、肺に溜まり、全身に巡る道のりが感じ取れてしまうような、そんな主張の強い匂い。
目が慣れてくると、その匂いの元がぼんやりと浮かんでくる。ベッドの上で微かに上下する男の子のシルエットの直ぐ隣に、大きな瓶に活けられた植物がある。この植物こそが匂いの元だった。
薄暗がりの中、植物の様子を確かめる。俯きがちに開いた大きな白い花からはまだ匂いが出ているけど、活けたときよりは弱まっている。葉も萎れていた。それを確認して、持ってきた鞄から新しい花束を取り出して取り換えた。濃く、強い香りがねっとりと立ち込める。
この花には特殊な性質があって、その香りが乗った空気はそうでない空気よりも僅かに早く移動し、盛んに流動する。他の花よりも匂いを遠くへ伝える為に獲得されたこの性質はほんの微弱なものだけど、この男の子のように呼吸器系の働きが弱い人にとっては、丁度良い呼吸の助けになるのだ。この香りが満ちた空気でなら、この子は普通の人と同じように呼吸が出来て、動き回ることが出来た。ただ、僕のような普通の人にとっては、息を吸う度に若干の違和感が付きまとうことにはなるけども。
花を取り換えて、今度は男の子の様子を確認する。薄っすらと開いた口元に顔を近づけて、そこから漏れる呼気を確かめる……うん、特に乱れはない。次に、布団をゆっくりと捲って、片手で男の子の右手首を取る。もう片方は服の下に潜り込ませて、その薄い胸板に添える。脈に乱れがないことと、軽く叩いてみた胸の感触に異常がないことを確認すると、身体が冷えないように毛布を元に戻した。
そして、起こさないようにゆっくりと部屋を出た。
一階に戻ると、お母さんは台所で料理をしていた。もう殆ど出来上がっているようで、いい匂いが漂ってくる。
「美味しそうですね」
「そうでしょ? 今日は上手くいったわ。どう、ダフネくんも食べていかない?こんなに朝早く来たんだし、まだ朝ご飯も食べてないんじゃない?」
その通りだった。今日になってから胃に入れたのはコップ一杯の水とさっきもらったお茶だけだ。
「そうしたいですけど、この後も予定があるので……今日はもう帰ります」
「そうなの? それは残念ね……」
「また直ぐに来ますから」
声だけでもはっきりと分かるほどにテンションが下がってしまったお母さんに慌ててフォローを入れながら、用意してきた小瓶を机の上に置く。薄緑色のこの液体は、さっきの花を煮詰めたもの。流石にあの子が行くところ全てにあの花を活けるわけにもいかないから、あの香りを持ち運べるようにしたものだった。
「新しい薬はここに置いておきますね」
「あ、ありがとう。丁度切れてきた頃だったの」
「そうだと思ってました」
「ふふ、もうすっかりこの家のことは知られちゃってるわね」
お母さんは楽しそうに笑うと、調理の手を止めて僕についてきた。見送ってくれるらしい。
「それじゃあ、今日はこれで。また近いうちに来ます。そのときはゆっくり出来ると思います」
「そう、なら、色々準備しておくわ。今日は早くからありがとうね」
「もしなにかあったら、いつでも来てください。お大事に」
「……ねえ、ちょっといい?」
挨拶を済ませて、外に出ようと足を踏み出したところでお母さんに呼び止められる。その声はさっきまでの明るいものじゃなくなっていて、なんとなく嫌な予感がした。
「……はい」
お母さんは、呼び止めたはいいもののその次の言葉は中々出てこなかった。なんて言うか迷っているように見えた。
「…………お父さんは、まだ帰ってらっしゃらないの?」
しばらくの間を置いて、おずおずと差し出されたのは、そんな質問だった。
お母さんがどうして僕を呼び止めたのか、こんなに言葉に詰まっているのか、大体分かった気がした。
「はい。帰ってこないです」
「なにか、お手紙とかは……?」
「それも、ないです」
「……ダフネくん、今年で何歳になるんだっけ?」
「えっと……あと二か月で十六になります」
「そう……」
俯いた所為か、それとも暗い話を聞いた所為か、お母さんの表情に影が差した。
父さんがいなくなってから、四年が経つ。これまで、心配して貰って、声を掛けて貰ったことは何度もあった。僕がこうして父さんのしていたことを受け継いでからは特に聞かれることが増えたような気がする。多分、どうして僕がこんなに元気なのかが不思議なんだと思う。
でも、大丈夫。おかげで、こういう話のいなし方は覚えた。穏便に流す為の準備を整えて、お母さんの次の言葉を待つ。
更に待つこと数十秒、お母さんはなにかを決心したように、勢いよく顔を上げて僕を見つめた。
「ねえダフネくん。うちに来ない?」
「……え?」
お母さんの口から飛び出てきたのは、僕が想像していたどんな言葉とも違った、突拍子もないことだった。その所為で、僕の返事も素っ頓狂なものになってしまう。けど、お母さんの目は真剣だった。
「だから、うちで一緒に暮らさない?」
「……ええ?」
いや、え、えっと、あれ?
お母さんは更に畳みかけてくる。
「ダフネくんは凄くしっかりしてるわ。色々頑張ってるのも知ってるし、多分一人でも上手くやってるんだと思うわ。でも……まだ十六歳じゃない。たった十六歳であの広い家に一人なんて、幾ら何でもおかしいわ」
「…………」
言い出すことが僕の予想と程度も次元も違っていたから戸惑ったけど、そう熱弁するお母さんを見ているうちに冷静になることが出来た。提案こそ一足飛びだけど、この人も他の人と同じだ。同じ所を、同じように気にかけてくれている。
それなら、僕の返事は変わらないのだ。
「…………」
「……どう?」
「ありがとうございます。でも、僕は本当に大丈夫ですから。この通り元気にやってますし、そんな迷惑を掛けるわけにも、」
「そう、それよ」
「え」
流れるような僕の言葉を、お母さんは最後まで聞かずに断ち切った。その語調はいつになく強くて、怒っているようにも聞こえた。
「私がおかしいって言ってるのはそこなの。ダフネくんは頑張ってるし、しっかりしてるけど──頑張り過ぎなのよ。しっかりし過ぎなの」
「…………」
「きっと、ダフネくんはもう折り合いをつけてるんでしょう。受け入れて、それでも頑張るつもりなんでしょう。でもね、そんなこと、しなくていいのよ。頑張らなくてもいいの、しっかりしなくていいの。きみたち子供がそんなことをしなくてもいいようにするのが私たち大人の仕事で、きみはそれをしてくれるお父さんと離れ離れになっちゃってるけど、でもそれはきみが一人で頑張る理由にはならないわ」
…………。
「もう四年も経って……ダフネくんはすっかり慣れちゃってるかもしれないけど。でもね、なくても済ませられるっていうことは、なくても問題ないってこととは違うのよ。私は、きみはもう少し人に、大人に頼れるようであるべきだと思うし、きみが頼れる大人でありたいと思ってる。だから……うちに来ない?」
…………。
……驚いた。まさか、そんなことを言われるとは思ってもいなかった。驚きすぎて、ショックで視界が歪んでしまった。こんな目じゃ、まともに顔を上げることも出来ない。
「……ありがとうございます」
取り敢えず、黙ったままではよくないと思った。けど、勝手に震える唇を抑えながらじゃそんなに多くは話せない。俯いたまま、早口で誤魔化すしかなかった。
「……でも、もう少し頑張ってみたいんです。父さんが言っていたこともあるし……だから、」
僕に余裕がないのを分かってくれているのか、お母さんは今度は僕の言葉を遮らずに来てくれていた。
「だから……もしなにかあったら……無理になったら、そのときは……」
「うん」
失礼なのは分かっているけど、顔を上げることは出来なかった。お母さんがどんな表情をしているのかも、もう分からない。
「そのときは、いつでもおいで。私もあの子も、いつでもきみを歓迎するから」
父さんは、僕が物心ついたときから既に『医者』だった。町の一角に診療所を構えて、駆け込んでくる病人も、運ばれてくる怪我人も、果てには自分から出かけていって隠れた患者を診ていた。僕が見てきたのはいつもその『医者』の方で、『父親』を見たことはなかったほどだった。
あるとき、そんな父さんに尋ねてみたことがある。「どうして、そんなに人助けばかりしてるの?」と。今にして思えば、人助けの理由を訊くなんて滑稽でしかないけど、そのときは純粋に疑問だったのだ。
どうして、父さんは僕と遊ぶ時間よりも本を読んでる時間の方が多いんだろう。
どうして、父さんは僕の服を替える回数よりも人の服を替える回数の方が多いんだろう。
そんな僕の隠れた思いに気づいていたのかいなかったのか、父さんは僕の目ではないどこかを見ながら苦笑して答えた。
「俺が人を助けるのは、自分を助けられないからだ」
意味が分からなかった。今でも分からない。
けど、そのあとに続けてこう言った。
「もしこれから、お前がピンチになって、でも自分で自分を助けられないってときには、他人を助けることに専念しろ。逆に、他の人を助ける余裕がないってときは、自分を助けることに専念しろ。そうすれば、人間生きていくことは出来るから」
この言葉の意味は、最近になって理解出来るようになってきた。
ある日突然父さんが軍に招聘された。ただの町医者が軍に名指しで呼び出されることなんてまずないことで、それだけでも驚きだったのに、それからというもの父さんは一度も帰ってこないどころか、連絡すら取れなくなった。問い合わせても答えて貰えず、出した手紙は全て送り返され、もう二度と会えないんだと気づいた途端、自分の家の床が抜けたような気がした。
もう、自分には家族はいない。
もう、周りには誰もいない。
誰も、僕を見てくれない。
僕が今ここにいることを証言してくれる人は、どこにもいない。
涙が出るほどの激情はなかった。
震えるほどの危機感はなかった。
けど、ある日突然、動けなくなってしまった。いつの間にか、少しずつ忍び寄って来ていた漠然とした恐怖に、一分の隙もなく押し固められてしまった。
その拘束を破ったのは、一人の急患だった。『休診中』の札を無視して飛び込んできたその人に言われるまま、僕は見様見真似で治療をした。幸い大きな病気ではなかったから、僕でもなんとかすることが出来た。治療を終えてほっと一息吐いたとき、僕は自分があの恐怖から抜け出せていることに気づいた。人の生死を扱っているときの僕に、緩やかな不安の付け入る隙はなかった。
人間は、誰かの承認がないと生きていけない。証人のいない人生は成立しない。だから、他人に認めて貰うか、自分で自分を認めるかしないといけない。
家族の無条件な後ろ盾を失った僕には、他人を治療して、認めて貰うしか方法がなかった。もしあの診療所の戸を閉じたままにしていれば、きっと僕はその中で窒息死してしまうだろう。
僕は、決して無理はしていない。ないものをないままで済ませているわけではない。ないものを他のもので補っているだけだ。
けれど、けれどもし。いつか、僕が他人を助けることでは自分を肯定出来なくなったら。
そのときは、あの優しい家族に厄介になるのかもしれない。自分本位の我儘を聞いてもらうことになるのかもしれない。
そんなことを考えている間に、診療所に戻って来た。もうすっかり日は昇って、周りにもちらほらと活動を始めた人の姿が見える。
朝から思わぬところで動揺させられてしまったけど、今日の僕には沢山の予定が詰まっている。しっかりしないと。
札を『診察中』の札に取り換えて、扉を開ける。すると、足元に紙が落ちてきた。扉に挟まれていた郵便物らしい。
よくある誰かからの依頼かと思いこんでいた所為で、その差出人に気づいたのは封筒を拾い上げたときだった。
真っ赤な封筒に、僕の名前が小さく印字されていた。