一話
学校が終わるや真っ直ぐここに来た。
頭を下げて鳥居をくぐると、一段飛ばしに階段を駆けた。
でも、社務所の窓は閉まっていて御簾が垂れている。
ぐるり境内を見回しても狛犬様が立っているだけ。
健二はガクンと肩を落とした。
いつもより1時間早いだけなのに。
見上げると青空、時々春の強い風がびゅっと吹く。
そう言えば、と、健二は今年の正月を想い出した。
今年からは家族3人で迎えるお正月だった――
初詣はここに来た。
市内で一番大きな神社には屋台なんかもいっぱい出てて、りんご飴もたこ焼きも、謎のお面も焼きもろこしもあって、賑やかで楽しいのだけど、迷子になったらいけないからって、兄ちゃんがここに決めた。
この神社もお正月は人が多かった。短いけれどお参りの行列も出来ていて、初穂が鈴を鳴らして3人で手を合わせた。社務所の横ではお酒が振る舞われていた。俺も初穂も飲ませてもらえなかったけど、ふたりでおみくじを引かせて貰った。あの日巫女さんは何人もいて、おみくじは違う巫女さんから授かった。俺は中吉だったけど、初穂は大吉だったから、なんか悔しかった。交通安全のお守りも買った。色は好きに選べって兄ちゃんが言った。俺は青、初穂は赤。兄ちゃんは買わなかった。兄ちゃんは神様を信じていないらしい。そのくせ社務所をじっと見ていた。視線を追跡すると巫女ねえちゃんがいた。断然綺麗だったから、あ、ここに来た理由はこれだな、って思って冷やかしたら、知ってる人に似てたんだって誤魔化した。
「兄ちゃん、正直に言えよ。惚れたんだろ?」
「バカ言うな。だいたいあんな綺麗な人は兄ちゃんなんか相手にしない」
「そんなの、当たって砕けて木っ端ミジンコにならないと分からないぞ?」
「ミジンコになるのか」
「何なら俺が言ってきてやろうか?」
「やめろ。だいたいあんな綺麗な人は性格が悪かったりする」
「それは偏見だよ」
「そうだよ。初穂は見た目も心も綺麗だよ!」
「あ、そうだな。偏見はだめだな」
普段は人の悪口言わない兄ちゃんだから俺はずっと覚えていた。
あれは絶対好きなんだって。
たらっと鼻血も垂れてたし――
「ごめんなさい健二くん、待ったかな?」
突然声がして振り向いた。
濃紺の制服、下ろした艶やかな黒髪にすらっと長いタイツの脚。無駄に綺麗なお姉さんがビックリするくらい優しく微笑んでいた。
「あ、えっと、巫女ねえちゃん?」
「そうよ。分からなかった?」
「ううん、そうじゃなくってさ、その制服、そこのR女子?」
「そうそう、よく知ってるね。R女子高校の1年生です」
「あそこってキリスト教だよね。いいの?」
ここは神社だからイエス様とか十字架とか、マリア様とかじゃない。
「どっちも神様でしょ?」
「俺、騙されないぞ。神様が違うんだ」
「あ、バレたか」
綺麗に笑う巫女ねえちゃんを、健二は眩しそうに見上げる。
「ご飯食べるときに「天に在す我らが神よ、願わくはみなをあがめさせたまえ。ラーメン」って言って食べるんだろ?」
「うん。ちょっと違うけど、よく知ってるね」
「俺の幼稚園にはマリア様がいたからな。みんな毎日ラーメン喰ってた」
「そうなんだ。もしかして星の浦幼稚園?」
「正解。巫女ねえちゃんも一緒?」
「残念、私は違うの」
そんな会話を交わしたあと、美月子は着替えのため社務所に消えた。ちょっと時間が掛かると言い置いて。
健二はその後ろ姿を見送りながら、女の人は服装で大変身するんだなと思った。初穂がやたらと服装にこだわり始めた理由もちょっとだけ分かった。でもまあ、あのお転婆じゃあ何着ても一緒なんだけど――
それにしても、ひまになった――
途中、美月子は制服のままで戻ってきて、携帯ゲーム機を置いていった。
これは本当に時間が掛かるという合図なのだろう。
だけど健二はゲームをする気にはなれず、すぐに電源を切ってポケットに放り込むと、昨日教えて貰った参拝の仕方の復習を始めた。ノートは取ってないしうろ覚えだけどやってみる。手水で清めて、参道の端を歩いて、鈴を鳴らして二回お辞儀と柏手をして、家の住所と電話番号と名前を言って、そしてふと考えた。何をお願いしようか、と。
昨日の練習の時は「美味しいとんかつが食べられますように」ってお願いした。
でも、それじゃあ子供っぽいから、もっと格好いいお願いをしようと思った。
健二は小さく「ちょっと待って」と神様に言い置いた。そうして社務所に駆けると、上の方に掛けてあるお願い事のメニューを見上げた。
厄除開運
家内安全
夫婦円満
商売繁盛
事業繁栄
病気平癒
交通安全
旅行安全
渡航安全
良縁成就
子授祈願
生育安全
合格祈願
思ったよりいっぱいある。健二に読めないのもあるけれど、だいたいは何となく意味が分かった。旅行関係が多いのは、きっとここに海運の神様がいるからだろう。巫女ねえちゃんの説明がなかったら、分からなかったに違いない。安全を願うのも多い。安全な旅行、安全な渡航、安全な生育、安全な奥さん……
長いことメニューを見上げていた健二は、よしっ! と小さく声を出して拝殿へと舞い戻る。しかしそこでは、中年のご婦人が手を合わせてお参りを終えたところだった。
普段もお参りする人いるんだ、健二はそう思うと、もう一度鈴を鳴らすところからやり直すことにした。
お賽銭は持ってない。
それでも巫女ねえちゃんはお願いしてもいいって言った。
だからお願いした、兄ちゃんと初穂と俺のために――
――
――
三十秒で終わった。
丁寧にゆっくりやっても三十秒、普通もっともっと早い。
お正月だと一人十秒だとして、同時に二人ずつお願いしたら一分で12人。
一時間だと、えっと、720人。
すごい数のお願いやわがままや欲望がここに渦巻いている。
神様ってすごい。
それを全部聞いているなんて。
でも、今なら神様を独占できる。
きっと断然お得かも知れない……
…… ってな訳ないか。
時間を持て余す健二は、誰もいない今しか出来ないことをしようと思った。
金額と名前が書いてある石の柱を見て回ろうかと思ったけど、知らない人の名前ばかりで、たいして面白くなさそうだ。神社の中には赤い小さな祠もあって、そこにも興味はあるけれど、一人で見てもよく分からない。社務所の横にはおみくじが結びつけられている柵がある。そのおみくじを解いて読んだらと思ったけど、きっと神様に怒られる。ふと見ると拝殿の脇に絵馬が掛けてあるところがあった。健二は決めた、みんなの願い事を覗き見てやろうと。
二話へ続く