一話
休みの日、美月子の朝は忙しい。
目覚まし時計を二度止めると、愛しいベッドから起き上がる。
リビングに降りると母自慢のミネストロネスープのいい匂い。
厚切りトーストにスクランブルエッグ、さっぱりパインもしっかり食べる。接待ゴルフに出かける父を見送ったら、お待ちかね、万次郎のお散歩。
万次郎はハウンドカラーのビーグル犬。斜向かいのいとこの家の飼い犬だけど、可愛いしジョギングついでに朝の散歩を買って出ている。自慢の快速飛ばして万次郎をひきづり駆けるその様をご近所さまは「朝の爆走ピンク」と呼んでいる。もちろん美月子は知らないが。
シャワーで汗を流したら、友達とカラオケだと言っていた中二の弟を叩き起こして、バッグに教科書とマンガを詰め込み社務所へGO。
巫女装束の着替えはお手のもの、でも一応鏡で確かめる。何度見てもいいなと思う、この巫女衣装は。
境内のお掃除を済ませたら、お楽しみのお賽銭の回収へ。
古びた賽銭箱、秘密の鍵を開くと一円玉五円玉十円玉をかき集める。
たまに百円玉があると「ありがたや~」と呟いてしまうのは、もはや条件反射。
今週の上がりは七八三円也。
宮司である祖父との約束で、これが美月子の今週のバイト代。
スーパーレジの時給にもなりゃしない。
しかも小銭がじゃんらじゃら。
それでもありがたく回収して、出納帳に記帳する。
社務所の横の祖父の家に挨拶をしてから、受付開始は朝九時ちょうど。
やっぱり今日も誰もいない。
空を見上げると試験勉強がはかどりそうな、いい陽気だ。
ちなみに聞いた話だと、大きな神社の巫女さんは、こんなひまじゃないらしい。
もっと忙しくてもっと厳しい毎日だって言うけど、ここは閑古鳥鳴く小さな神社。
宮司の祖父は着替えもしない。
今日もビリヤードの棒を持って、玉撞きに出かけるはずだ。
跡取り予定の伯父さんは普通の会社勤め。
こんな神社で生計は立たないからだ。
美月子は誰もいない境内を見回して小さく嘆息すると、日本史の教科書をひもといた。
しかし、その瞳は昔のことを想い出していた。
美月子を可愛がってくれた従姉妹のりっこ姉ちゃん。この神社の先代の巫女。
いつも優しく遊んでくれて、近所の子供もたくさん懐いてた。
「ショタ好きにはたまらないバイトね。みっこちゃんもやってみる?」
――ショタって何?
その時の美月子は知らなかったけれど、今は勿論知っている。
もし今もりっこねえちゃんが巫女ならば、健二くんに大喜びしてるに違いない。
と言うか、危険だ。
「お~いっ、巫っ女ねえちゃん!」
顔を上げると健二くん。ニカッと笑うその額にはいつもと同じ絆創膏。
「教科書開いてぼーっとしてたぞ。授業中もそうなのか?」
「これは瞑想記憶法と言って、ちゃんと覚えていたんですっ」
「へえ~っ、俺はてっきり昔のことを想い出してるのかって思ったぞ」
「……鋭いわね」
「そういや、前の巫女ねえちゃん知ってる?」
「勿論知ってるわよ」
「亮介言ってた、前の巫女ねえちゃんは怖いくらい優しかったんだって」
「あはははは」
「だから巫女ねえちゃんも、もっと俺に――」
「すいませ~んっ」
階段を上って現れたのは桜井先輩と、その手を繋いで赤いリボンの初穂ちゃん。
「とんかつありがとうございました。すごく美味しかったです。健二も初穂も大喜びで、早くお礼に行こうって健二がうるさくて――」
「そうだった。ごちそうさまでした。すげーおっきくて旨かった」
「どういたしまして」
「ごちそうさまでした。主人も喜んでおりました。おほほっ」
初穂は健太の腕を掴んで新妻気取り。
「あの、で、あれ、カツカレーになったんですか?」
「聞こえてました? 実は――」
健太が言うには結局みんなバラバラだったらしい。
健二はカツカレー、初穂はカレーととんかつを別々に、健太はとんかつだけを食べたと言う。
「だってカレーは初穂と健太お兄ちゃんの愛の結晶ですからね。不純物が混ざってはいけませんもの」
「こら初穂!」
「兄ちゃんはとんかつ喰って鼻血出してた。何か想像したんだな」
「健二っ、余計なこと言うなっ!」
「ぼっ、暴力はんた~い!」
「すいません、こいつらの言うことは忘れてください。でも、お肉も分厚くて柔らかくて、すごく旨かったです」
美月子の顔が自然と綻ぶ。日頃母の手伝いをしていて良かったとつくづく思う。
「腕によりを掛けて作った甲斐がありました」
「なあ巫女ねえちゃん、とんかつソースとお好み焼きソースって一緒か?」
「え、違うと思うけど……」
「ほら見ろ兄ちゃん、やっぱり違うだろ」
ドヤ顔の健二くん。
「吉住さんごめんなさい。なかったからついついお好み焼きソースで。ほんとごめんなさい」
「いえいえ、ほとんど同じですよ、いえ、全く同じです」
「人の意見に左右されるのはよくないな」
「健二くん、神社は気持ちの学校だったよね」
「だったな」
「今のお姉さんの気持ちは?」
「どうしてみんなカツカレーにしなかったんだろう。そしたらとんかつソースなくてもいいのに」
「違います」
「次はエビふりゃ~余らそうかな」
「それは健二くんの気持ちですね」
「違う。俺はフィレステーキ400gがいい」
「健二、いい加減にしろ!」
「初穂はお寿司い~っ!」
「お兄ちゃんに縋ってもなにも出ないぞ」
左腕を奪われた健太。残った右手でジャケットのポケットから白いポチ袋を取り出すと、申し訳なさげに美月子に差し出した。
「これ、全然足りないかもですけど」
「えっ?」
「ホントはうちからも何かお裾分けが出来ればいいんですけど、ちょっとそれは無理で」
「受け取れません」
きっぱりと美月子は断った。
「あれは余り物です。桜井先輩に貰っていただけなければ捨てられていたものです。それなのにお金なんて」
「いやいや巫女ねえちゃん、それは無理があるぞ。腕によりを掛けて余り物を作ったのか?」
「健二くん、ここは気持ちの学校だったよね?」
「でも、兄ちゃんの気持ちもあるぞ」
「誰の味方なのかな、け・ん・じ・く・ん?」
「あ…… 分かった。余り物だった。あれは余り物だったから怖い顔やめて!」
健二を睨めつける美月子の形相に、2年前を重ね合わせる健太。しかし美月子は一瞬で最強の営業スマイルを浮かべると健太に向き直る。
「と言う訳で、これはお納めください」
「しかし……」
「それに、これを受け取ってしまったら、今後エビフライが三尾余っても、400gのフィレが三枚余っても、特上のにぎり寿司が三人前余っても、もうお裾分け出来なくなってしまいますよ~っ?」
健二と初穂を交互に見ながら美月子はニヤリ笑う。
「お兄ちゃん、それはダメだよ~!」
「健太お兄ちゃん、お寿司い~っ!」
「はい、三対一ですね。多数決です」
「…… 分かりました」
健太はポチ袋をポケットにしまった。
「やった~、でっかいステーキ!」
「特上のお寿司い~っ!」
「オマエらなあ。「余ったら」なんだぞ、余ったら。余る訳ないだろ。一等前後賞10億円にでも当たらない限り余らない。ですよね、吉住さん」
「はい、残念ながら400gのフィレ三枚とか、特上のにぎり寿司三人前なんて、さすがに余りませんから」
「ええ~っ、巫女ねえちゃん話が違うぞ!」
「健二兄ちゃん、騙された私たちが悪いのよ。ぐすん。健太お兄ちゃん、初穂を慰めてっ!」
「お前らなあ――」
「ごめんなさい。変なこと言ってしまって」
「いえいえ、慣れてますから」
時間はまだ朝の九時過ぎ。今週はずっと天気もよく、今日もすっきりと青空が広がっていた。
「朝のお散歩ですか?」
「こいつらを公園に連れて行こうかと。ついでに買い物もして」
美月子は三人をここに引き留めたかったけど、この神社は規模も小さくて、遊具は勿論ベンチすらない。とても公園の代わりにはなれない。
「健二、初穂、お参りして行くぞ」
「おっ?」
「うんっ」
三人は手水でお清めを済ますと、並んで拝殿の前に立った。
健二と初穂が一緒に綱を大きく揺する、からんがらんと鈴が鳴る。そうして三人はそれぞれお賽銭を入れる。小さなふたりは健太に貰った小銭を、そして健太はポケットからポチ袋を取り出して、その中身を入れた。
「あ」
美月子が見逃すはずはない。健太に対し複雑な気持ちが湧いてくる。どうして、と言いたい。他人行儀が悲しい。だけどお賽銭は神様へのお供え。口を挟むのは絶対の禁じ手。
一心に何かを願う健二と初穂の間で、兄の健太だけは、ただ真っ直ぐ拝殿を見つめていた。
やがて。
三人が参拝を終えて短い参道を戻ってくると、美月子は社務所を出て待っていた。
「おつかれさまでした」
「俺、疲れてないぞ」
「健二兄ちゃんバカね。おつかれさまでしたって、中身のない挨拶の言葉よ」
言われてみると、そう言う面もあるかも知れない。初穂ちゃんってホントに賢い、と美月子は妙に感心しつつ、言葉を言い換える。
「お参りありがとうございました」
「お礼言われるほどお賽銭上げてないぞ」
「もし、よかったら、なんですけど――」
美月子は健太に向かってそう言うと、初穂ちゃんの前に進んだ。
「初穂ちゃん、巫女衣装を着てみない? 初穂ちゃん興味あるんでしょ? 昔の私のでよかったら着せてあげるけど」
「いいの?」
「いいんですか?」
「兄妹揃ってお楽しみのお時間だとは思いますが」
「いえいえ、この前から初穂がその衣装のことばっかり言ってて。どうする初穂?」
「着てみたい」
「お時間の方は大丈夫ですか」
「大丈夫もなにも、今日一日どうやって時間を潰そうかと困ってたところだから」
「俺は巫女ねえちゃんの高校の制服が着てみたいな」
「う~ん、健二くんにはサイズが全然合わないかな」
「健二は教科書持ってきただろ。復習しておこう」
「やだ。兄ちゃんゲーム貸して」
「じゃあ初穂ちゃんお借りしますね。こっちよ、初穂ちゃん」
二話へ続く




