九十二幕 IF/文化祭準備/屋上②
「はい。そこまでー」
劇の序盤から中盤に入る区切りの良い場面で監督の声がかかる。
そこで一旦休憩へと入るとドリンクホルダーを持った演劇指導役の渚から飲み物を受け取り、水分と塩分を同時に補給する。
「お疲れ様。どう、演劇の方は?」
「台詞も振付もまだ全然覚えきれてない。土日も二日かけて定期公演やってたからもうクタクタ」
「だよねー。昨日とかも頑張ってたからね」
「ライブ後の握手会も凄い人居て……誰に何を言ったのか覚えてないくらい対応した気する」
「少し前までは明里の元に三回くらいは通えていたのに、今じゃ一回しか並べないくらい人気者になって……推しの成長が著しくて嬉しいのやら悲しいのやら」
「友達を推しって言うのどうなの……それ」
仲が良いことに悪いことはないが……普段からこうして会えるのだし、わざわざお金を払ってまで何回も会いに来ることはないと思う。
「だってさ。明里ってば平時じゃ絶対にファンサなんかしてくれないじゃん。それに私はアイドルのヒカリちゃんに会いに来ているのであって、明里に会いに行っているのではないもん」
なにそのツン要素……可愛いからいいけど。
「にしても、渚はお姉さんと仲が良いんだね」
二人の会話を聞いていても良好なのは分かる。
「まぁ、一緒にライブに行くから仲はいいのかもしれないけど推し被りしてるとああやってファンサの取り合いになるから……微妙な所ではあるかな」
「それは平等にファンサを与えるように要求しているのかな?」
「そうとも言うね」
「次までに考えておくよ」
「でも、考えるべきは他にもあるんじゃないの?」
「KIFのこと?」
「うん。文化祭もあるし、それに向けた準備とかで結構忙しいんじゃないかなって」
「え、そうでもないけど」
実際的な話、KIFの方はジル社長に全面的に任せている。
運営の公式サイトに動画を挙げるだけなので、特にこれといった準備はない。
むしろ、文化祭の方に今週は専念するよう言われている。
「ルーチェのゲーム配信とかでKIF用の告知したり、ポーチカのホームページで新たに告知するとかで私や唯菜達がやる事はないあんまりないんだ。新曲は作っているみたいだけど、披露するのも選抜戦ではないみたいだし」
「へ~じゃあ、意外と休みな期間な訳だ」
「いやいや、どこが?ステージに立つ上に演劇なんてものに挑戦させられているせいでいつも以上に大変ですが!?」
「まぁまぁ、小さいことは気にしないで。練習再開するよ~って、美女(村人)はどこに行った?」
そう言えば、小春の姿がさっきから見当たらない。
野獣の場面のみを練習している間に台本を読み込むと言って何処かに行ってしまってから一向に戻ってくる気配がない。
「もう。ここから二人の掛け合いが本格化するって言うのに……」
「まぁまぁ、もうお昼休みになるし。そろそろ休憩に入ろ」
監督モードから普段のゆったりとしたマイペースの柚野さんへと戻る。
「あ、私これから一足先に食堂でご飯食べてくるからみんなお昼休み後に集まってね~」と言い残して颯爽と教室を後にする。
「いいの?助監督的に見過ごして」
「食べ物に関して柚野さんを止められる人なんて居ないから、私達もお昼休みに入るしかないかな。と言っても、演劇部に呼ばれてて……ごめん明里。お昼ご飯は別々でお願い」
「部活があるんでしょ。ならそっち優先していいから気にしないで」
「ありがとう!用が済んだら戻ってくるからじゃあ、また」
両手を顔の前で摺り合わせ、急ぎ足で教室から出ていく友人を見送る。
周りから知り合いがいなくなり、一人の時間を迎えた俺は一先ずこれを機に購買で美味しいと話題のパンを求めに向かうとした。
♢
午前の練習を終え、昼食時間を迎えた。
文化祭の準備に向けて多くの自由時間が生徒達に割り当てられている。
そのため、クラスの方で寄せ集まって昼食を共に過ごす者もいれば、部活動のメンバーと過ごす者、あるいは文化祭期間限定のメニューが出されている食堂で昼食を取る生徒がいる中で……俺は一人になれる時間を探して屋上へと上がっていた。
「誰もいない……よな」
購買部で購入した惣菜パンと菓子パンを持って人気のない屋上に出る。
かなり高い柵が周囲に張られ、ちょっとした野外バンドのステージにもなりそうな空間が広がっている。
屋上を吹き抜ける心地良い風に当たりながら入り口付近のベンチに腰かけた。
「あ~ようやく一人になれた。落ち着くわ~」
誰の目がないことを再度確認して素の自分を曝け出す。
「もうマジで何なんだよ……この世界」
寝ても覚めても俺は明里のままで一向に元に戻る気配がない。
この事実を毎朝突き付けられる度に『よし、今日も一日中明里として過ごす!』と意気込んでいるものの、そろそろ心的に限界を迎えそうであった。
慣れない生活環境に一週間過ごして慣れたつもりでいようとしても性根が男で在り続けようとする時点でボロが生じるのも時間の問題。
いっそのこと女として過ごす方が楽だと……思い悩んでいる自分も居る。
それに加えて、こっちでの生活を楽しんでいる自分もまた存在する。
新たな級友である渚との関係も良好で話していると意外にも楽しかったりする。
趣味趣向を合わせて話してくれることもあってか普段の会話であまり不都合が生じたことはほぼない。
渚自身、世話好きな性格なだけあって『普段から学校だとボーっとして過ごすことの多い明里を観ていると心配になる』と言って気に掛けてくれる優しさには存分に甘えさせてもらっている。
だが……そのままではいけない。
堕落してはいけないと忠告する自分が最後の砦を担っていた。
元の世界に戻ればこの世界での経験は夢の中での出来事と同義。
渚との関係も赤の他人に戻るだけ。
あくまでも明里として過ごすのであって、そこに変な情をかけてしまってはいけない。
それが深まれば深まる程、後々辛くなるのは自分なのだと……執拗に言い聞かせている。
「あぁもう!いつになったら元の世界に戻れるんだ俺はぁ!!」
天に向かってやけくそに叫ぶも大した変化はない。
決して世界が歪んで変わることもなければ、依然と頭上に飛行機雲を空に描く飛行機が突然視界から消えるような現象も起きない。
そう諦めかけ、落ち着いて顔を下げようとした次の瞬間……視界の端から突然ある人物の顔が現れた。
「え……」
「え!?」
垂れた髪の隙間から顔を覗かせる人物に驚いたあまり腰を抜かして床に倒れる。
「イタタ……」
受け身も取らずに腰を強打し、悶絶に顔を歪めながら軽く擦る。
「だ、大丈夫?」
ベンチの横に設けられた梯子を伝って降り、心配してくれたある人物に「大丈夫です」と返しながら再び顔を挙げる。
「あれ、小春?」
「やっほー明里。こんな所で何しているの?」
屋上扉の屋根から顔を出した人物は小春であった。
「小春こそ、何で……」
「私は時折、一人になる時間が欲しくてたまにそこの屋根で日向ぼっこしたりしてるんだよ。で、滅多に屋上なんか訪れない明里はどうしてここに?」
「それは……」
「君、明里じゃないんでしょ」
「……明里です」
アルカイックスマイルで無駄な抵抗に出る。
「別に誤魔化さなくていいよ。さっきの独り言は全部聞いてたし……それに変だな~って思って色々とカマを掛けていたから何となく気付いていたよ。多分、本当の明里は少なくからずまだ私の事を嫌っている筈だし」
嫌っている?
最後に放ったその言葉に俺は少々耳を疑った。
「明里は小春を嫌っているのか?」
「それ、本人が尋ねちゃうの?……てか、本当に明里じゃないんだね」
「明里です」
「もういいからそれ」
無駄な足搔きは要らないと言われ、両手を挙げて降参の意を示す。
「分かった。全部自白するよ」
「自白も何も君、明里じゃないなら誰?記憶でも無くしているの?」
「記憶は無くしていない。俺は唯菜やルーチェ、幸香さん、ジル社長、香織の事や……小春のこともよく知っている」
「私の事も……そう言えば、前に小学校は同じとか聞いてきたっけ。どういうこと?」
理解し兼ねるといった感じで首を傾げるも無理ない。
常人にこんな事を話していたとしても理解出来る訳がない。
「その前に先ず約束して欲しい。このことは他人に口外しない、と」
「聞いても誰かに話すつもりなんてないから安心して……その前に昼食まだなら一緒にここで取ろ?せっかくだし、ここなら誰もいないからお話出来るでしょ」
腰を曲げ、顔の前に寄せた明るい表情で放たれるその台詞からある思い出がデジャヴの如く蘇る。
一本一本が細かい葵髪を靡かせ、いつまでも記憶に残り続ける特徴的な優しい笑顔。
そんな中学時代の影を少しばかり残して成長した幸村小春に重ね合わせた途端、消えかけていた残り香が薄っすらと蘇るように脳裏を刺激するのであった。




