八十二幕 姉妹/アルバム
玄関の前に一度佇み、少し間を置いてからドアに手を掛けた香織は意を決して「ただいま」と叫ぶ。
数秒も経たずにリビングの方から顔を出したヒカリ……中身は正真正銘、香織の姉に当たる明里が「おかえり~」と笑顔で迎えくれた。
今まではなかった帰宅早々での非日常的な光景にやはり少し違和感を抱く……だが、悪い気はしなかった。むしろ、好意的に出迎えてくれる存在が家に居るということに心地良さを感じた。
兄であれば「ただいま」と声を掛けてもスルー。声は聞こえているのだろうが、する必要がないと思っているのか、リビングで顔を合わせても無言で視線を送る仕草をして終わり。
その都度、香織は「返事しろや」と指摘するも全くと言って聞く耳を持たない姿勢を示す兄に跳び蹴りをかましたくなる気持ちを抑えて……ダル絡みで憂さ晴らししていた。
最近はリビングで顔を合わせた後に「おかえり」と返事をするようになった。
雪解け……と言っていいのだろう。
沖縄以降、兄の態度は昔に戻りつつあった、
普段の会話から感じていたとげとげしい声色はなく。
穏やかで落ち着いた今の兄らしい雰囲気を帯びた声に言葉。
香織が知っていた兄はもういない。いない……けれども、兄がこうして今一度向き合ってくれていることに喜びを感じていたから別に構わなかった。
素より素っ気ない性格なのは知っている。
だからこそ、香織は構ってもらえると期待するのではなく、自ら構ってもらおうと積極的に意地悪く接することを努めていた。それに、そうした後の呆れ顔でみつめてくる兄が妙に好きだったから。
しかし、そんな兄は不在。
もっとも目の前に居る母のエプロンを身に着け、可愛い笑顔で迎えてくれた人物こそが兄であるのだが、外見と中身は全くと言って違う。
彼女はもしも兄が女の子として生を受けた場合、成長したらどの様な姉となっていたか……という脳内でしか描けない幻想像を貼り付けたこの世界には存在しない筈の存在。
言わば、仮定上の双子の姉。
双子の姉妹という期間限定の体験が得られることに妙にワクワク感を覚えていた香織は学校で何をしてもらおうか頭の中でいくつか候補を思い浮かべていたが、帰って来てやって欲しいことの一つであった『わざわざ玄関まで来て迎えてくれる』ことに若干の嬉しさを抱く。
そして、考えてきた候補は一同放棄し、何も求めずに受けへと徹することにした。
「あれ、お昼ご飯食べてきたの?今日、午前授業でしょ」
「大丈夫。お昼は済ませているから」
「そっか。じゃあ、このまま洗い物済ませるね」
母がいる……。
まるでそう錯覚させられるような母の面影を背負った言動に香織は感慨深くなり、リビングに戻る明里を追う形で香織も中に入る。
鞄をソファーの横に置き、ふと周囲を見渡すとリビングがいつもよりも綺麗に整理整頓されている状態であることに気付く。母が不在の為、溜まっていた洗濯物も畳んで置かれていた。
家事なんて基本的にしない兄と違って洗濯や掃除、料理まで出来るという母替わりを務められる姉という存在に香織の中で好感度が急上昇する。
「お兄……じゃなかった、お姉ちゃん。これ、一人でやったの?」
「うん。お母さん、居ない時の方が多いから前から家事は私もやってたし」
「へ、へぇ~。そうなんだ」
(お互いに面倒な家事を押し付け合って嫌々ながらやっていた記憶しかない)
母が不在の際は基本的に服の洗濯は香織が、洗濯物を畳むのは個人で行っていた。
掃除もジャンケンで負けた方が、あるいは家庭ゲームの対戦で負けた方がやるなどして決めていた。
どちらかが率先してやるといったことは記憶上ほぼない。
「あ、これからは私がやるから安心して。多分、暫くは家に居ることになるだろうし」
「え、いいの?」
「うん。どうせ、あまりやる事なくて暇だし」
「まぁ、その状態だとお兄ぃの通ってた学校には通えないからね。暫くは家で過ごして……って、その格好……」
ようやく明里の方を振り向いた香織は一回り大きい白いワイシャツ姿しか身に纏っていないあまりにもズボラ過ぎる格好を目の当たりにして絶句する。
「あぁ、これ?部屋にお兄さんの服しかなかったからワイシャツだけ借りたの。パンツは香織の借りてるから」
「なら、別に私の私服を使ってもいいのに」
「いつも使ったら怒るじゃん」
「お姉ちゃんの知ってる私はそうかもしれないけど、私は別に使っても構わないから。てか、ヒカリ用の変身部屋がジルさんから与えれているんでしょ。そこに行けば服や下着類とか、置いてあるんじゃないの?」
「え、こっちの私。そんな豪華な待遇なの?」
「え?違うの?」
「違うよ。だって、変身する必要なんてないし……そもそも変身って」
明里曰く、三ツ谷ヒカリという名はあくまでもアイドルとしての芸名でしかない。
アイドルになったのも、ある日偶然にもジルさんからスカウトを受けて事務所に所属したというのがきっかけらしく、TSリングなんて物を渡されて半強制的にアイドルの道を敷かれたなんて経緯ではない、というのは話から伺えた。
おまけに通っている学校も香織と同じ蘭陵女子だと主張し、会ったことすらない筈のクラスメイトの名前を何故か知っていたりもする。
そのあまりにも凝った設定ぶりにジルの言った三津谷明里という存在は腕輪の機能が生み出した疑似人格という仮説よりも別次元の世界と入れ替わった存在だと強く感じた。
「お姉ちゃんはその……帰りたいとかって思わないの?」
意地悪な質問だと分かっていながらも香織は思わず口に出してしまった。
「どうだろ。まだ、こっちが私の知らない世界だっていう実感があまりないから分からないけど、暫くはこっちに居るしかないから何とも言えないかな。まぁ、香織が怖いって思うのも無理ないけど」
「ごめん、別にそういう意味で言ったんじゃ……」
「ううん。誤魔化さなくていいよ。香織にとって大切な人がいなくなって、代わりに知らない女が勝手に家に転がり込んでいるんだもん。怖いって思うのも分かる」
心中を言い当てられた。
知らない人なのに向こうは何故かよく知っている風にして話しかけてくる。
けれども、明里が香織のことを知っているのは当たり前。
二人は双子姉妹なのだから。
十七年間も姉妹として過ごした二人はお互いをよく理解している。
話せば簡単に気持ちなんてものは見破れてしまう……なんてことはこっちではなかった。
分からないまま、分かり合おうとせずに互いの気持ちをぶつけ合って押し付けあって喧嘩ばかりしてきた香織にとって明里との会話は気持ちの芯がほぐれるような優しさが感じられる。
同性であるが故に同じ目線で近い距離間で互いを推し量れる。
そんな理想的な姉が目の前に居ることに香織は肩の力を抜いて警戒心を緩めた。
「ま、暫くはこっちでもお姉ちゃんをしてもらうんだし。折角の機会だから甘えさせてもらっちゃおうかな~」
仮にこれが兄であれば呆れた顔で「寝言は寝て言え」と一蹴されてしまうだろうが、目の前にいる人物は違った。
「なになに、久し振りにお姉ちゃんと一緒にお風呂入って、添い寝でもして欲しいのかな?」と口元に手を当ててニマニマと笑みを浮かべて、予想だにしない煽りが返ってくる。これには流石の香織もゴクリと唾を呑み、絶好の機会を逃さないべくして尖ったプライドを勢いよく完全にへし折り、妹としての立場で存分に甘えさせてもらおうと決意する。
「し、仕方ないな~。お姉ちゃんがそういうなら付き合ってあげてもいいよ……」
「こっちの香織も素直じゃないな~……でも、安心した。私の知ってる香織で」
少なからず明里もまた不安だった。
見ている景色や風景、人の外見は変わらないのに自身を取り巻く人間環境が微妙にずれている。加えて、この世界に三津谷明里という人間が存在しないという事実に初めは激しい恐怖心を抱いた。
双子の妹である香織ですらその名前に聞き覚えがなく、自身には姉ではなく兄がいるという奇妙な話しには耳を疑った。しかし、それが普通で明里という人間こそが異質だという周囲の反応には酷く困惑せざるを得なかった。
姿形は明里のままだというのに兄が居るというのもおかしな話。
明里にとっては不可思議でしかないこの状況には到底受け入れ難い話しの数々であったが、この家に来て自分の部屋を見た時にようやく理解できた。
家族で映る旅行を記録したアルバムの中に『私』が居ない。
映っているのは『私』が知らない誰か。
彼が香織の双子の兄だというのは直ぐに分かったが、やはり違和感しかなかった。
そこに記録されている光景は明里自身も知っている。
家族での楽しかった旅行の数々……その写真の中にいる『私』の立ち位置が全て自分の知らない誰かに置き換わっていて、『私』は存在しないという事実が明確なまでに記録されている。
これにはもう訳が分からないと深く頭を悩ませ、かつてないほどの孤独感に苛まれた明里は人知れず恐怖に打ち震えて涙を流した。
しかし、こうして香織とやり取りをしていると大きくは違わないのだと少しずつ気付き始めた。
目の前にいるのは明里の知る本当の妹ではない。
でも、目の前にいるのは紛れもなく明里の知る香織ではあるのは間違いない。
その事実に大きな安心感を抱きながら、こっちの香織が望むことを出来るだけ受け入れよう……お姉ちゃんをしてあげようとする。
「夜ご飯とか何がいい?香織の好きなハンバーグとか?」
「お姉ちゃんに任せる。そもそもお兄ぃに手料理作ってもらった記憶ないし」
「え、お母さんいないといつも弁当?」
「うん。こっちでは割とそうだよ」
「そうなんだ。まぁ、私がいる間はご飯作るから」
「……それでもいいんだけど、全部任せていると同じ女としてどうかと思えてくる。それに学校は行けないにしてもアイドル活動はそのまま継続するんでしょ」
「そうだね。明日から普通にやるみたいだけど」
「じゃあ、帰りはバラバラかな。遅くなるなら弁当でもいいよ」
「行く前におかずだけでも作り置きしておくから大丈夫」
(いや、姉じゃなくて母か!でも、助かる)とツッコミを入れつつ、香織は内心で有り難く感謝する。
「あ、夜ご飯作ろうにも食材足りなかったんだ。今から買い物行ってくる」
「その格好で?てか、お願いだから家でその格好はヤメテ」
自分と同じ容姿でほぼ半裸状態のまま家の中をウロウロされるのにはさしもの香織も目のやり場に困っていた。あれではまるで私が恥辱同然であるかのように映ってしまう。
「別に私は気にしないよ。涼しいし」
「私が気にするの」
(てか、お兄ぃもよく夏場は半裸状態で過ごしていたっけ。格好の理由も同じな気がする)
短パンだけ履いて上裸でリビングに来て水分補給したり、ご飯を食べていたズボラな兄の性格と何となく今の明里が合致する。
「とにかく、その格好じゃ外に出れないんだから私の部屋着でも何でも貸してあげるから、今は着替えて」
無理矢理腕を取り、引っ張る形で自分の部屋へと連れていった香織は姉に似合う服を自分と重ね合いかのようにして見繕ろう。自身もそこで私服に着替え、二人はそのまま夕ご飯の買い出しへと仲睦まじい姉妹を演じながら繰り出して行った。
♢
「お、お邪魔しま~す」
丸い木の板の中央で『明里の部屋』と書かれたプレートが掛けられたドアを引き、そっと様子を見ながら部屋の中へと入る。
二階へと上がり、廊下からドアの前までは先日まで見ていた光景とほぼ全く変わらない。
俺の知っている三津谷家の外観や内観そのものであるにも関わらず、自分の部屋だけが全くの別物であることにようやくこの受け入れ難い現実と向き合う決心がつく。
「だよな。やっぱりここに俺の部屋はないよなー」
深く溜息を吐きながら鞄を下してベッドの上に座り込むと改めて部屋をよく見渡す。
日頃から丁寧に整理整頓され、掃除が定期的にされている綺麗な部屋。
洋服を仕舞う棚やタンスも俺が持っている物とは全然形状も配置場所も異なり、普段であれば置かない可愛いらしいぬいぐるみや小道具、ファッション誌等が部屋の中の雰囲気を女の子っぽく演出している。
「なんだろう……この自分の部屋が他人に支配された時の感じ……凄い複雑」
しかし、慣れる他あるまい。
暫くこの生活が続く以上、この部屋は俺の活動拠点で尚且つ唯一の安らぎ空間でもある。
そして、俺が三津谷明里として過ごすための道具でもある。
この身体の主のことをよく知るためにも少しばかり部屋を散策するとしよう。
さて、自分を知るためには先ずアルバムを探すのが手っ取り早いだろう。
明里が過去に何をしていたか。
どういったことをしていたのか。
写真を見れば大抵のことは分かるかもしれない。
「確か……アルバムは……あ、これだ」
机の引き出しの中。
そこに小・中学校時代のアルバムや家族写真を入れていた。
どうやら置き場所は同じらしい。
「一先ず、中身を拝見っと……」
小さい頃の明里。
写真に映る自分はよく笑っているようだ。
明るく笑顔で元気な女の子。
姉妹で何かして遊ぶことが多く。
仲睦まじい二人の顔がカメラマンたる父さんの目からよく撮れていた。
「ん、この場所って確か家族旅行で来た所だよな……」
その風景はまさしく俺の知っているものでどの写真も見覚えのある光景が脳裏に過ぎる。
そして、時代が進むにつれて……二人の姉妹が成長するに伴って明確な違いが現れる。
それは小学校高学年に入る頃、明里はスポーツのバトミントンを始める。
「バトミントン……俺がやっていたテニスではないのか」
ちょうど明里がスポーツをやり始めた時期、俺はスクールテニスに通い始めていた。
何かスポーツをやるきっかけとなった理由は覚えていないが、母に連れられてそこのテニスクラブに行っていたのはよく覚えている。
「そう言えば、ラケットみたいの置いてたよな」
黒い布製のラケット袋。
てっきりテニスラケットとばかり思い込んで確認していなかった。
やはり中身を開けて確認するとそれはバトミントン用のラケットで、その近くに大会の賞状が額縁に入れられて置いてあった。
その成績は大会の上位入賞を示すものばかり。
明里はかなりバトミントンが上手な選手であったようだ。
「へ~、結構運動が出来る感じなのか。あれ、でも中学校から先の大会に出ていない?」
賞状があるのは中学一年生の新人戦における第二位という輝かしい成績が最後で、それ以降はない。
ラケットのガットを張り替えた時期が記された紙が袋に残っていたので確認するとやはり、中学一年生の七月を最後に張り替えられていない。
中学三年生まで部活を続けていた俺とは違って明里は中学一年生の夏で部活を辞めた。
そう捉えるのが正しいのかもしれない。
一体、何が原因で明里は部活を辞めたのか。
それを知るのは恐らく香織であろうが……聞くと再び疑いの眼差しを向けられ兼ねないのでヤメトク。
真相は他の誰かに機会があれば尋ねるとして……再び明里を知る手掛かりを探そう。
ラケットを元にあった場所へと戻す。
するとその弾みで伏せてあった一枚の小さな紙が床に落ちかける。
「おっと……」
スポーツで鍛えたこの身体の主の反射神経が優れているのか、あるいは俺が鍛えたテニスでの反射神経が優れているのかはさておき……床に落ちる寸前に空中でキャッチし拾い上げる。
「これ、写真?写っているのは……明里と……」
俺は少しばかり目を疑った。
その写真の中で片手にラケットを有し、もう片方の手でピースをサインを示しながら肩を並べる笑顔を見せる二人の少女が写っていた。
時期的には恐らく中学。
記憶にはないが間違いなくそうであると確信出来た。
その最たる理由は主に明里の隣に立つ少女にあった。
「幸村……小春」




