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八十一幕 序章⑨

 五階建ての事務所の前にやってきた香織は守衛を務める黒服の一人に話して通してもらい、エレベーターを使って社長室のある最上階へと上がる。

 ドアが開いた直ぐの玄関で靴を脱いで廊下を進んで奥の部屋に入る。すると、中で待っていた銀髪の青年が立ち上がって、笑顔で迎える。


「やぁ、学校帰りに寄ってもらって申し訳ない」

「いえ、お話を伺うのであればこちらの方が適当だと思いますので、構いません」

「そう言ってもらえると助かるよ。さぁ、遠慮なく中に入ってくれ」


 招かれた身であっても本来ならば足を踏み入れることはない場所。

 しかし、香織は先日の兄の身に起きた出来事と詳しい内容を伺うために午前授業を終え、制服姿のまま事務所を訪ねた。

 広々としたリビングの様な部屋に冷蔵庫やテレビ、机に椅子、食器棚等々の私生活が漂う物々が置かれている風景に仕事部屋なのかと疑わしく感じつつもソファーへと座る。


「ジル~、冷蔵庫にある具材、勝手に使っていいの?」

「構いませんよ」

「わかったわ」


 台所の方からか、香織よりも一足早くやってきた麗華の声が聞こえた。

 何か手料理でも用意しているのだろうか。

 普段からあまり料理をしない印象のマネージャーが手料理を振る舞おうとする様子が気になるも、今は机を挟んだ向かい側のソファーに腰かけた人物の話を集中して聞くことにする。


「さて、お昼ご飯は食べたかな?」

「え……まだ、ですけど」

「ちょうどよかった。なら、君も食べていくといい。麗華さんの作る手料理、気になっているんだろう?」

「はい。少し……」

「それまでの間であれば君の質問にもいくつか答えよう。その前に君は彼女についてどう思っているのかな?」

「彼女って姉のことを指してます?」

「勿論」


 昨日、倒れた兄の身を案じて急ぎ駆け付けた際、何事もなかったかのように目覚めた兄は香織の知っている三津谷陽一ではなく、自身を『香織のお姉ちゃん』と称し三津谷明里と名乗る少女と中身が入れ替わっていた。


 その後、色々と確認を取るべくいくつかの質疑応答をしてもらい……結果、身の回りを構成する彼女の知っている者達の存在は大して変わらず、ヒカリとして過ごしている際の記憶はあたかも共有されているような印象を受けた。


 しかし、いくら彼女に兄との思い出を聞かせても、別の思い出に置き換わった答えが返ってくるのみで何だか上手く話が嚙み合わず、本当に兄と人格が入れ替わっているのだと判明した。

 

「変な感じです。今まで話していたら兄だと思えていたのに、彼女と話していると別の誰かに見えてきてしまい……少し苦手です」


 話していると根本的な部分で二人は似ているのだと分かる。

 性格面や癖といった部分も同じであることから兄が女の子になったらあぁなっていたのだろうというのが短い時間での付き合いでも伺えた。


 だが……やはり違う。


 香織が知る兄の影が全然見えないことに少し恐怖を抱く。


「心中は察するさ。少なからず僕も同じ経験をしている」

「兄、以外にも同じような事例があったのですか?」

「過去にね。詳しいことは申し訳ないが説明しかねる……まぁ、代わりに出来る限りの情報を君に開示しよう。そうだね……まず、あの腕輪の機能について説明しようか」


 ジルの提案に「分かりました」と頷く。

 

「あの腕輪をTSリングと僕は呼称している。機能は君も知っての通り、装着者の性別を変化させること。ではあるんだけど……厳密に言えば、変身という方が正しいかな。それに変身機能はあくまでもあの腕輪の持つほんの一部の機能でしかない」

「本来の機能というのは?」

「それはちょっと言えないかな。企業秘密ってやつさ」

「性別を変化させる以外にも機能があるのは知っています。髪色を変化させるのとか」

「あれは単なる追加オプションだよ。それに昨日も言ったと思うが、あの腕輪は使い勝手が悪くてね。順に追って説明していくと……付けて、体験してみるかい?」


 言葉での説明がやや面倒になったのか、急に妙な提案をしてくる。

 好奇心旺盛な香織はどうやって変身しているのか、気になる所ではあった。

 しかし、付けたら最後、悪徳商法に引っ掛かって取り外せないような雰囲気と酷似していたことを警戒し、あっさりと身を引くことを宣言する。


「やめておきます」

「ははっ、賢明だ」

「ジル?」

「さて、冗談はこのくらいにして真面目な話に戻ろう」


 麗華が手に握る包丁にいくつか赤い血の付いた何かが付着している。それに伴って発せられた圧にジルは屈し、冷汗を滲ませながら話を戻す。


「腕輪が持つ本来の機能というのは、存在しない筈の自己と容姿を現実世界に映し出す……分かりやすく言えば、三津谷陽一が女の子だったら三津谷明里という存在が君の姉として一緒に暮らしていたかもしれないということさ」

「じゃあ、彼女は……」

「腕輪の持つ本来の機能が形成した疑似人格だとも言える。あるいは本当に別次元の世界に居る三津谷明里と入れ替わってしまった……という説もね。正直な話、僕もよく分からないんだ」


 軽快に笑っているが、全然笑えないと香織は内心でツッコミを入れた。

 真剣な表情に戻すと顔の前で腕を組んでテーブルを見詰める。


「彼に渡した僕が言うのもなんだが、あの腕輪は危険だ。先も言ったように、腕輪の持つ本来の機能が働けば、姿や性別が異なる別人格のもう一人の自分が現れる。主体となる意識は何処かに流れ、下手をすれば一生別の誰かと代わったままの可能性も有り得る。それを防ぐためにTSするだけの機能を残して制御している……というのでTSリングと呼称しているのさ」

「……複雑ですね」


 急なSF的な部分が強めの話に香織の中でイマイチ現実味を帯びない……が受け入れるしかない。

 そうでなければ今まで見てきたヒカリの存在を説明出来ないのだから。


「では、腕輪が直って制御機能が復活すれば兄は戻って来れると?」

「結論を言えば、そうだね。彼の自己は腕輪の中で保存されているから安心してくれ」

「分かり……ました」


 話を聞いた所で何も出来ないのは端から分かっている。

 ジルが言うように今はただ修理が完了するまで待つしかない。


「だが、一つ敢えて危惧していることがあるとすれば彼の意識が完全に戻ってくるとは限らない可能性は視野に入れて欲しい」


 その有り得そうなパターンを香織は予測し言葉に出す。


「三津谷明里の人格が消えずに残り続けてしまい……二重人格になるってことですか?」

「流石の洞察力だ。恐れ入るよ」

「いえ」

「だからと言ってはなんだけど、僕としては先程『あるいは』の続きで語った後者の可能性であることが望ましい。まぁ、こればかりは修理した腕輪を再度、彼女の腕に付けて彼の意識をこちらの世界に引っ張らないと分からないが……無論、彼が戻ってくることに尽力を惜しまない」

「そこはお願いしますとしか言えません。幸い両親も長期出張で家を空けていますので、暫くは気づかれないと思いますが」

「必要とあれば僕から御両親には説明するよ。もっとも、彼自身がそれを頑なに拒みそうだけど」

「はい。兄のことを配慮して、私も必死に伏せています」


 そもそも、兄が女の子になってアイドルとして活動していたら人格が変わってしまった。なんて説明をどうすればいいのかも分からない上にいきなり姉と化した兄を二人の前に連れて出せば、二人がどんな反応をするかも容易に想像つく。


 まぁ、この際兄の威厳を守る云々はさておき、妙な荒波を家族内でたてることは避けたい。

 隠し通せるのであれば隠し通すまで……というのが香織の作戦である。

 二人の話も一旦区切りがついたタイミングで麗華が作った美味しそうナポリタンが大皿の上に載せられて机の上に置かれる。


「一先ず、ご飯にしましょ。ジル、小分けして」

「了解です」

「あ、私が……」

「いいんだ。お客様は座っていてくれ」


 小皿を用意して手際よくナポリタンを小分けする。

 食器洗いを後にして、エプロンを外した麗華も香織の隣に座り三人で食卓を囲む。

 その変な光景に香織は萎縮しつつも麗華お手製のナポリタンを食す。


「美味しいです。麗華さん、料理出来たんですね」


 普段の食生活を聞く限り、たいていコンビニ弁当やスーパーのお惣菜にビールといった具合でズボラさが滲み出る偏ったバランスの悪い食事が多いことから料理をしない印象が根付いていた。

 

「たまにはやるのよ。少し前まではこの子達の食事を作っていたし」

「久し振りに麗華さんのご飯が食べれて嬉しいですよ」

「そうね。これはこの間の謝罪みたいなものよ」

「もしかして、松前社長のことを指してます?」

「えぇ、善男君から聞いたのよ。あなたの所の子がアンコール中にスカウトされたって話」 


 それは香織にとっても初耳であった。

 自身が歌っている裏で兄にそんな出来事があったのは知らなかった。


「気にしてませんよ。それに彼なら断ると分かっていますから……他の事務所の横やりなんて怖くありません」

「そうね。首輪とリード掛けているも同然だものね」


 二人の話から兄が置かれている状況が容易に想像つく。


「でも、それだけ済まない話なのは分かっているでしょ。あの達磨親父、あなたの子に裏切ってこっちに来いって下衆な笑みを浮かべて誘ったのよ。差し詰め、香織とのユニットが最高に金になるとか踏んで色目を付けたんでしょうね。注意なさい、これからも干渉してこないとは限らないし」

「若干麗華さんがあの人を如何に嫌っているのかがよく分かる脚色が入っていますが、一応注意しておきます」

「えぇ、田村君にも伝えたわ」

「ですが、麗華さん達が彼女らを連れて僕の事務所に入ってしまえば丸く収まると思いますよ」

「あんたも一端の社長気取るなら、もっとマシな冗談を言いなさい。SCARLETを今のまま維持するにはあの達磨親父の元じゃないとダメなの。言わせないで、腹が立つから」


 香織にとってはジルの妙案は悪くないと思ってしまった。

 しかし、麗華の言うように今のジルが有するマネージメント力では松前健勇が抱える事務所に足元も及ばないのは事実。


「せめて、SCARLETと同程度の会場規模で集客出来たら考えてもいいわ」

「ははっ、ならまだ先の話ですね……まぁ手段を問わなければなるべく早く追い付けるかもしれませんが」

「カッコよく言ってるつもりなんだろうけど、止めておきなさい。いくらあの子だけを成長させても、他の子が育たなかったら意味ないでしょ。それに今は……」

「はい、暫くは少し活動を抑える予定です。週末のみのライブを行う形式に戻すだけですが」

「彼女のこともあるだろうし。下手に大きなイベント事は入れない方がいいわ。綾華の様な結果は……招きたくないでしょ」


(え、綾華?今、麗華さん綾華って言った?)

 

 麗華の放った名に香織はフォークの手を止めて顔を挙げるといった過剰な反応を示す。

 それを確認したジルは気づかれないよう意識を削ぐように話題を振る。


「そのことは重々承知してます。なので、香織ちゃん。君には出来るだけ彼女のフォローをお願いするよ」

「え……はい」

「お兄さんではなくて苦手意識を持つのは分かるが、彼女も君と血の繋がった姉妹も同様。滅多にない機会なんだ。ここは気持ちを切り替えて、彼女を実の姉と慕ってみてはどうだろうか」

「……そうですね。私も嫌いという訳ではないですし。本当のお姉ちゃんというのがどういうものか知りたい所ではありますので」


 ジルの言う通り、兄の帰還をただ待つだけではなく有意義に待つのも一つの手であるとする。

 中身はどうあれ、三津谷明里は香織を妹として慕ってくれる。

 香織が理想とする棘のない優しい姉として彼女は接してくれる。

 そこに変なプライドは邪魔だと言い聞かせて素直になると決める。

 

「向き合ってみようと思います。私の姉として」


 その覚悟を聞き、香織の器量の広さを痛感させられたジルは内心で『本当に敵わない』と呟いた。

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