七幕 始まり①
翌日の朝。
いつもよりも目が早く醒めた俺はホームルームが始まる一時間前に登校していた。
昨日の放課後と同様、閑散とした教室内にただ一人だけというのは心細く映る。
だが、反って新鮮の様にも思えた。
基本的に教室内を一人で過ごすことはほぼない。
朝のホームルーム始まる直前に登校し、帰りのホームルームが終われば直ぐに帰宅する俺からすれば常に他の生徒がいて当たり前の時間を過ごしていることの方が圧倒的に多い。
騒がしい教室意外を知らない俺にとっては教室がこんなにも静かである方が不思議に見えて仕方がない。なんてことを考えつつも、自分の席に座っていつも通り机の上に突っ伏す。
しかし……何故か落ち着かなかった。
普段の煩い時間に慣れてしまった所為か、広く静かな空間に一人でいることが落ち着かず、目を閉じては耳を澄ませると……サッカーボールの蹴り音や中庭でテニスボールが高速に打ち返される音が聴こえた。
朝早くから学校に来る人間は三種類存在する。
先ずは、今し方聴こえたように部活動の朝練をしている生徒。
次に、早朝から開いている自習室で勉強をしにくる受験生。
最後は、朝早くから登校する女の子に話しかけられることを期待する冴えない男子生徒だ。
最後のは完全に俺の主観でしかない。
だが、ライトノベルやラブコメ漫画とかの序盤の展開ではこういった何の変哲もないシーンから物語はスタートしたりする。
例えば、委員長らしき人物が教室の掃除をする為に皆よりも早くから登校して箒で床を掃き、窓ガラスを雑巾で拭き、花瓶の水を替えたりとしている。そんなある日、普段は決して見ない人物が朝方にやってきては何もせずに教室で寝不足を解消すべく時間まで寝ようとする。教室の掃除を行う委員長からすればかなり邪魔で、寝るくらいなら掃除を手伝って欲しいと文句を言いたくなるだろう。手に持った箒の柄の部分の頭を使ってコツンと叩き、寝ている生徒を起こしては顔を近づけて文句の一つや二つを述べてくるに違いない。そして、二人の時間はそこからスタートし……やがては恋人へと結ばれていく……
なんてアホみたい妄想はさておき……ここは現実世界だ。
そんな生真面目で、掃除好きで毎日一時間前から登校してくる生徒は少なくとも自分のクラスには存在しない。そんなシチュエーションを期待するだけ無駄だというのは高校一年の四月当初から知っていることだ。
妄想と現実は違う。
妄想で膨らんだ理想は決して現実には成り得ない。
成りえたとしても、相当な努力を積むか、あるいは特別な何かを経験しなければ始まらない。
だから、妄想が現実になるなんてことは絶対に有り得ないと思っていたのだが……現に昨日、俺の価値観が覆るに至った例を体験した。
それも自分が香織に似た美少女になって、アイドルになるという不測の事態。
未だに自分でも昨日の出来事が夢ではなかったのかと疑ってしまう。
しかし、あれは夢などではなく正真正銘の現実。
現にその夢が現実である証拠を俺は腕に身に付けている。
こうして手を添えて念を込めれば俺は再び三ツ谷ヒカリという架空の少女に返信出来る。
新たな自分へと変わることが可能となる……が、今はしない。
万が一、自分の正体がある一部の人間に知られてしまうとかなり不味い立場に成りかねない。
それぞ、同じクラスメイトの白里には決して知られる訳にはいかない。
バレたら最後、俺は色んな意味で居場所がなくなりかねないからな……。
「はぁ……面倒な役割を引き受けてしまったもんだ」
正直に言えば、そこまで悲観していない。
むしろ、この非現実的なシチュエーションに遭遇して胸を高鳴らせている自分がいないでもない。
これまで何も生産性のない退屈な時間を過ごしていた自分にとって、これは変わることの機会でもあるように思えて期待を馳せてしまっている。
アイドルなんて面倒なことをやらされていると言えども、ちゃんと給料は発生する上に自分だけの秘密基地ならぬ部屋も貸し与えられた。正体がバレることを避け、アイドル以外の仕事は極力控えることも契約の範疇に入り、無理のない範囲でマネジメントを行ってもらうことも約束してもらった。
ジル社長自身もそれなりに三ツ谷ヒカリをメディアに露出させない方針を取らざるを得ない辺り……信用はしてもいいのだろう。それに何を考えているのか掴み所がはっきりと分からない性格ではあるが悪い人ではなさそう。
彼が手掛けるアイドルを切に思うくらいには紳士的で真面目な方であるようには思えた。
無論、何処か胡散臭さがないとは言い切れない。
だが、俺を嵌めて陥れようという思惑が一切ないことは契約の内容からも明らかであったから安心していい。
ただ、少しだけ不安材料があるとすれば……俺がアイドルを知らないということ。
ライブや仕事のある日、以外は何をして過ごしているのか。
それは香織の普段の様子を思い返せば何となく知ってはいるが、詳しくは知らない。
実際に、その環境に身を置いていかないと分からないことだらけなのが普通だ。
当然の如く最初のうちは不安も付き纏い、周囲の助けも借りながら慣れていく必要がある。
それにどうやら、今日の午後からレッスンとやらが始まるらしい。
アイドルのレッスンがどういったものなのかは何となく想像がつく。
ダンスやボイストレーニングといった基礎的なレッスンが多いのだろう。
しかし、ヒカリとなった姿でアイドルらしく可愛い振付や仕草を自然に出せるかと問われれば、無理と回答する。
いや、こう考えよう。
自分が三ツ谷ヒカリという3Dモデルのキャラクターを実際に動かしているのだと。
それで有名な動画配信者みたく演じればいい。
そう考えると案外やっていけなくはないが、心配な点はそれだけじゃない。
探したらキリがない程、浮かんでくる、
そのせいで、昨日の晩は全く眠れなかった。
スマホの液晶画面に反射した自分の顔を見詰めると目尻に大きな隈が出来ている。
すると、悩みの種を蒔いた人物であるジル社長から今日に関する連絡が届く。
『マンションの部屋へ案内したいので下記のURLの場所に13時に集合でよろしく』という文章を拝見し、指定された時間に疑問を抱く。
「13時ってまだ授業中だし」
一先ず、時間の件について間違っていないかメールで確認を取る。
「ったく、こんなんで大丈夫か。この先……」
「何か不安なの?」
「そりゃまぁ……って、え?」
先程まで誰もいなかった隣の席から声が聞こえ、慌てて振り返る。
するとそこには、キョトンとした顔でこちらを伺う白里がいた。
「おはよー、昨日振りだね」
手振りを交えた笑顔で挨拶をしてくる白里に内心で(アイドルとしての参考になる)とつぶやきつつ、現実では「おはよう」と照れ臭さを隠して返す。
「珍しいね。三津谷君がこんなにも朝早いなんて」
「たまたまだよ。昨日はちょっと眠れなくて」
「それいつもだよね」
休み時間や授業の退屈な時間を俺が大体寝ているのはお隣さんの白里が知っているのも当然か。
「そういうそっちは?」
「朝練だよ」
「……部活入ってたっけ?」
「ううん。ダンス部が使っている校内のダンススタジオを朝だけ特別に使わせてもらってて」
(それは熱心なことで)
「何だか不思議だね。この時間だとまだ人が来ないからいつも一人ぼっちだったし」
「もう八時になるからそろそろ誰か来るじゃないか?」
「いや、来ないよ。今日は学校お休みだし」
「へ?」
間抜けな声をあげ、机の上に置いてある携帯の画面に表示された日付を確認する。
今日は金曜日で普通の平日。祝日でもない普通の日であるのは間違いないが……
「今日は開校記念日だからお休みだって、昨日先生が言ってたけど……聞いてないか」
「聞いてない」
「寝てたからね」
「そうだった……」
最悪だ。最悪の連鎖が巻き起こっている。
色々と負のスパイラルが度重なって起こり続けているせいか、気分がぐんと沈む。
そして、先程ジル社長が送ってきたメールの時間の意味をようやく理解した。
「クソ最悪だ……来て損した」
「まぁまぁ、休みって分かっただけ良かったじゃん」
「昨日の時点で知っていればもっと良かった」
「それは自業自得ってやつだよ」
返す言葉もない。
全ては寝ていた自分が悪い。一切の落ち度は全て自分にあるとし、これからは担任教諭の話す内容には出来る限り耳を傾けると誓った。
そして、授業がないと分かれば取る行動は一つ。
「帰るか」
「帰っちゃうの?」
「え、だって……」
勤勉家でもない俺が休みの日に学校に来て、勉強して帰るなんて発想は到底ない。
そもそも、学校には授業を受ける目的以外に登校する理由などない。
ホームルーム前のギリギリに登校して、帰りのホームルームが終わった即帰宅が俺の鉄則……だった。
これからは今までと一辺倒した生活を送ることになる以上……今までの自堕落な生活とはおさらばになる。
休む時は休んで、動く時は動く。
このメリハリに従い、俺はさっさと帰って少しでも身体を休息させて備えるとする。
「……白里はこの後、何か用事でもあるのか?」
「レッスンがあるよ。お昼から」
ですよね。同じグループのメンバーですもん。そりゃそうだ。
聞くまでもない事だと分かっていたが、敢えて確認を取った。
これで昨日の出来事が夢ではないという確証を得た。
「そういう三津谷君は何か用があるの?」
「……ある」
「へ~、どんな?」
バカヤロー!
なんで「ある」って言ったんだ、おれ!
問い詰められた苦しさにそれっぽい言い訳で逃げる。
「友人とゲームかな」
「そこは寝なよ」
「ごもっとも」
眠たそうな表情を見せる俺に気遣ってくれたのか、鋭いツッコミを入れられた。
そのやり取りが意外にも楽しかったのか、白里はクスリと微笑む。
「なんだか、三津谷君と話していると少し自信が持ててくるよ」
「自信?」
「うん。私って見かけに寄らず少し人見知りな所があるから、初対面の人とかとこうやって話すのはあんまり得意じゃないの」
「そう?なのか?」
「そうは見えないって良く言われるけど。それはこの仕事柄だから無理矢理慣らしたって感じかな」
そんなことはない……と思った。
普段から見せる表情は自然な笑顔で間違いないと思うし、人見知りという程白里は消極的な性格ではない気がする。
白里の質問はまだ続く。
「私ってば、変だと思う?」
「変って、何が?」
「前ね。ファンの人に言われたの。私は私だという部分が見えてこないから変だって」
いや、そう指摘するお前こそ変だと言ってやりたい。
「多分、私には私らしい所が上手く表現出来ないんだと思う」
「白里らしい所……」
例えば、と言われても直ぐには浮かんで来ない。
まだ、俺の中での白里唯菜という情報はあまりにも少な過ぎて判断材料にはならない。
もっと近くで彼女を観察する以外に答えは出ないだろう。
最も、これは第三者の意見ではなく、自分で見つけていかないといけないこと何だと思う。
この先、アイドルとしての白里唯菜を決めていくのは俺やファンでもなく、自分自身。
その性格性の方向付けにどうやら迷走していると言いたいのだろうか。
「ごめんね。変なこと言っちゃって」
「別にいい。それにそうやって弱音を吐く一面も、本当の白里なんだって一つ分かったし」
「それはズルいし、知らないで!」
ムッとした顔のままそっぽを向いてしまう。
そんな彼女の横顔もまた、見る者を魅了するものであると密かに感じた。
そこに白里唯菜という独自の魅力がなくとも、顔の良さというだけで推せるちょろい男性ファンは少なくとも百人は釣れる筈だ。
「とにかく、この事は誰にも言わないでね」
「香織にも?」
「当たり前だよ!それよりも、昨日はちゃんと伝えてくれたの?」
「あ~言ってません」
「ひどっ」
「昨日はあれから会ってないし、今朝も早起きだったから顔すら見てない」
「軽薄なお兄ちゃんだ」
「今日、伝えておくよ」
『そこまで言われる筋合いはないだろ』と徹底的に反論したくもなるが、これ以上話していると時間もなくなりそうなので会話を切り上げる。
二人でこうして他愛ない話をするのも悪くはないが、準備が優先だ。
机の横に掛かった鞄を持って顔を挙げると、昨日の帰り際同様の笑顔で手を振っていた。
「またね」
「あぁ、また」
白里が言った「またね」とは違うニュアンスを込めて返すと教室を後にした。