六十九幕 幕間⑤
ライブから帰って来るや否やリビングの方から扇風機が回る音が聞こえた。
部屋を出る前は電源を消した筈の扇風機が動いている事実に違和感を覚え、直ぐにリビングへと急行する。すると案の定、彼女は居た。
「またか」
クーラーも付けずに扇風機から吹く生温い風に当たりながらソファーで寝そべってアイス棒を食べるルーチェがいつもの手口で侵入していた。
「あ、おかえり~」と携帯ゲーム機に触れながら、足をひらひら動かして挨拶してくる。
夏を感じさせる上品な白いワンピースを着ているも、上品さの欠片もない格好でゴロゴロしている隣人に溜息を吐きつつ、冷蔵庫に冷やしてあったアイス棒を取り出しては一緒に食べる。
「これ、あんたのだったのね。貰ってるわよ」
「どうぞ」
「で、今日はどうだったの?幸香と私居なくて大変だったでしょ」
「色々とな。それで、お前はなんで兄貴から逃げてたんだ」
ルーチェと幸香さんがライブに参加しなかった理由。
幸香さんは別の優先すべき仕事があったらしく不在。
一方でルーチェはジル社長から伝え聞いた話によると、ロシアへ一緒に帰る手筈だったのが唯菜の家に避難したのがバレ、お盆休みの終わる前日に日本へ戻ってきたジル社長が迎えにくるも再度逃走。それから今日に至るまでの約三日間は逃走劇を繰り広げていた……というらしく、今もジル社長はここにいる妹を探しているのだとか。
……今回ばかりは流石に同情する。ジル社長に。
「で、ここに戻ってきたってことは、もう用は済んだのか?」
「用も何も。私は兄貴から逃げてるだけ」
「理由もなしに、お前がジル社長からこんなにも逃げる訳ないだろ」
逃げるにしては些か本気度が高い。
ジル社長の裏を搔いて足取りを掴ませないようにするのはいくらなんでもやり過ぎ。
そうまでしてジル社長から離れたかった理由は何なのか。
「単純な話。私が日本を離れたくないから。それに、ママにも会いたかったし」
ルーチェは珍しくゲーム機を降ろして感傷に浸っていた。
どこか悲壮感を抱かせる表情をよく見ると目尻が少し赤く染まっていた。
ルーチェの言う『ママ』には会えたのだろうが、それが果たして本当に会えたという意味ではないのだと悟る。
「私と兄貴がハーフなのは知ってるでしょ」
「一応」
「ママは日本人。パパがロシア人。兄貴も私も日本人っぽくは見えないけど」
確かに二人の容姿はロシアの血が濃く思える。
ジル社長の穏やかな目付きや顔のパーツには少し日本人らしさを感じるも、ルーチェは日本人の要素がほぼない。強いて言えば……
「この小さな身体。これはママからの贈り物だと思ってる」
ルーチェの身長は140㎝くらいとかなり小さい。
幼いルックスと相まって小中学生にも見えるが、これでも一つ下の高校一年生である。
そんな彼女があまりルックスにおいて、特に身長面で悩みを感じている様子を目にしたことは一度たりともなかった。
「別に小さくたっていい。これはママが私にくれた……ママの子供だって証明できるものだから。それを馬鹿にしてくる奴らの所にわざわざ好んで顔を出すかって話」
なんとなく事情が読めてきた。
恐らくロシアの親戚と会った際、過去に身体的特徴で揶揄された経験があったのだろう。
それで怒りを覚えたルーチェが親戚と会いたくない一心で強引に帰国の便から逃れ……遠い地にいるであろう母の元へ逃げた訳だ。
「なるほどな。それでお母さんには会えたのか?」
「さぁ。会いには行ったけど、会えたかどうか分かんない。だって、ママもう三年前に亡くなっているから」
目尻が赤かったのはそれが理由か。
「ごめん」
「別に謝らなくていいわよ。悪いのはあっちの親族達との付き合いを優先してママのお墓参りを蔑ろにした兄貴なんだし」
「逃げているのはそういう理由か。後で一緒に行ってやればいいのに」
「分かってる。分かってるけど、私は素直になれない」
まるでどっかの誰かさんみたいだ。
自分に正直になれず、いつまでも拗ねた態度を取り続ける所がよく似ている。
ルーチェの場合、それを認めていても直そうとしない気質が羨ましく思える。
「まぁ、少なからず兄貴には色々と悪いと思っているわ。ママが居なくなって辛いのは兄貴も同じ。ううん……私以上かな」
二人はずっと喧嘩しているのか。
兄の前では癇癪を起こしやすいルーチェも裏ではそれを反省する可愛い一面を持ち合わせていたりする。今回も同様に長引いている喧嘩を拗らせ、子供染みた態度で心配症な兄を困らせることに多少なりとも内心で気が引けているのだろう。
「仲直りするの手伝ってやろうか?」
否定されると分かっていながらも、冗談めかして言う。
「要らない。あんた達みたいなブラコン、シスコン拗らせ兄妹じゃないし」
「誰がシスコンじゃ」
「は?間違ってないでしょ。あんた、妹の為にそこまで身体張れるタイプだっけ」
「変わったんだ。燻って怠惰で過ごしてたのも悪くはないが……今はこうしてる方が楽しい」
「あっそ。ドМの考えは理解しかねるわ」
「お前、今すぐに兄貴を呼んでもいいんだぞ」
「無駄よ。今頃、兄貴は私の罠に引っ掛かってて北海道にいるだろうし」
♢
北海道の旭川にある墓地。
東京より比較的穏やかな日差しが照りつける中、車から降りた黒いスーツの人物がスマホを眺めながら墓地を進むも、そこにいたのが目的の人物ではないことを知って項垂れる。
「はぁ、やられたよ。まったく……」
GPSの発信源元に居たのはルーチェではなく、普段とは装いを変えた黒いスーツに身を包み、花束を手向けている善男であった。
革靴が石造りのタイルを蹴る音が聞こえ、徐にジルの方を見上げて確信犯的な笑みを浮かべる。
「あら、遅かったわね」
「誰かさんがあいつの逃亡を手助けするから手を焼かされてね」
「ふふっ、ごめんなさいね」
「それでルーチェは?」
「今朝、一番早い便で東京に戻ったわ」
ジルは昨日の晩、ルーチェが母の実家である旭川の祖父母宅に訪れていた事を善男を通じて知っていた。逃げられないよう、朝一の飛行機で羽田から宅に訪れて、直接捕まえる段取りであった。
しかし、ルーチェはジルを北海道に来させるようにわざとスマホのGPSをオンにしたまま兄に居場所を知らせた。入れ違いを狙って善男にスマホを託し、柄にもない早起きをして朝一の羽田行きの便に乗って午前中の内に東京へと戻っていた。
「なるほど、北海道に来させた時点で僕の負けか」
「分かっていて乗ってあげたんでしょ。わざと」
「どの道、母さんの墓参りはするつもりだったからね。ルーチェはどっちかというとついでさ」
いや、ここで捕まえられると少なからず確信していた。
わざわざここまで来させたことにルーチェから何かしらの意図がある……そう思って帰国して間もなく、こちらへとやってきたものの本人は意地悪にも一足早く帰ってしまっていたことにジルは残念に思う。
二人の母が眠る墓標へと立ったジルは赤いキューピットの花束を手向けた。
手を合わせ、静かに眠る母に哀悼の意を送る。
「今年もまた、ルーチェと一緒に来れなかった。ごめん、母さん」
形だけでも仲の良い兄妹であることをジルは亡き母に見せたかった。
毎年あの手この手を使って、一緒にルーチェと墓参りに来ようとするも逃げられ、最終的に個人で別々に来ていた。
その証拠にジルと善男の他にももう一人、赤いキューピットの花束を手向けていた。
強く抱き抱え過ぎたあまりくしゃくしゃになったラッピングペーパーを見詰めたジルはその人物がここで何を想っていたのかが容易に想像出来た。
「ルーチェのやつ、また泣いてた?」
「えぇ、会いたい会いたいって……何度も叫びながら泣いてた。辛いけど私には見てることしか出来ないもの」
「居てくれるだけでも助かるよ。僕は……出来ればルーチェのそんな姿を見たくない」
母が亡くなった時、悲痛な叫び声を漏らし、眠る母のベッドの傍らで疲れ果てるまで大粒の涙を流していた。力尽きて尚、母から離れたくない一心で少しばかり余力を残して抵抗するも止む無く善男に抱かれて病室を後にした。
一人、母との最期の別れを過ごしたジルは小さく震えた声で涙ながらに謝罪した。
『ごめん、母さん。約束を守れない……』
生前交わした母との約束。それが今は守れなかったことへの謝罪といずれ約束通り会いに来ると誓いを立てた。
そして、まだその約束は果たされていない。
「暫くはまた、ルーチェと二人で来てあげてほしい」
「いやよ。今度こそは三人で行きましょう。それに私はあなた達の叔父でもあり、家族。姉さんの大事な息子と娘にこれ以上寂しい想いはさせたくない」
「本当にありがとうございます。叔父さん」
「いいのよ。それと、そう思うなら早くルーチェちゃんと仲直りしなさい」
「それは難しいよ。あっちが僕を避けてるんだし」
現にジルは何でルーチェが兄である自分を頑なに毛嫌いする素振りを示すのか全く検討がついていない。
「僕も試行錯誤しているつもりだけど……彼らみたいに上手くはいかないさ」
ジルの言う、彼らが三津谷兄妹を指していると善男は判断した。
「彼は妹ちゃんとしっかり向き合ったから上手くいったのよ」
「そうらしい。でも、彼が妹の為にあの腕輪を使ってまで身体を張るというの予想外だったけど」
「知ってたの?」
「麗華さんから注意されたよ。僕に注意する権利なんてないけど」
「違いないわ。かつて、彼と同じことをして麗華ちゃんを騙してたジルには言う権利ないわね」
忘れたく思う過去を掘り返されたことにジルは肩を竦めた。
静かな墓地にスマホのメール音は鳴り響き、無事にライブを終えた旨を伝えたナイルに『ご苦労様』と返信。右上に表示された時刻から帰りの飛行機の時間が迫っているのを確認する。
「僕はそろそろ東京に戻る」
「なら、私は先に実家に戻って荷物を用意するから先に戻っているわね」
後から車で迎えに行くと伝えたジルは再度、母の墓標と向き合う。
「また、来るよ」
いつもの様に笑顔で母に別れを告げる。
「次こそは二人で必ず来るから。またね、母さん」




