六十六幕 特訓⑥
お盆休み……それは古来より日本の夏季に行われる祖先の霊を祀る行事。
この時期はいつも青森にある祖母の家に行き、亡くなった祖父の線香をあげに毎年家族三人で過ごしていたのだが、今年は母さんだけが青森に帰った。父さんもまた実家のある山梨に二日だけ戻り、二人共再び家を空けることとなった。
一方で残った俺と香織は何をするかというと……
「へいへい、お兄ぃさん?起きてますかーって、起きてんじゃん」
ノックもせずに勢いよくドアを開けて侵入してくる人物に怪訝な表情を送る。
自分が想定した状況と異なり、無邪気な笑顔が残念そうに変わる様に鼻で笑う。
「お前、もう体調は平気なのか?」
「バッチリ。三日も休めば充分」
「休み過ぎて舞い上がっているみたいだが?」
「まぁね。それより、なんで休みなのに早起きしてんの?」
「今日が休みじゃないからだろうな」
「どういうこと?」
「どうせ、付き合わせる気だったんだろ。自習練に」
鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くしている。
「いいの?」
「付き合ってやるからお前も仕度しろ」
着崩れた水色のパジャマ姿に絶賛大暴走中の寝癖頭。
熱狂的なファンにこんな香織の写真を見せたら一体いくらの高値で買ってくれるだろうか……なんて狡い商売を思い付きながら早く直して仕度を進めるよう促す。
「ちょ、待ってよ。私、まだ準備に時間かかるし」
仕度は早い方だと言えども、いつも通りの髪型に整えるには時間がかかるだろう。
まぁ、仕度に時間がかかるのは俺もまた同じ。
「別にゆっくりで構わない。俺は先に行ってる」
「え、どこ?お盆休みだからレンタルスタジオは空いてないでしょ」
「大丈夫。無料のスタジオを借りたから」
「無料?」
「まぁ、そこに行けば分かるから後から来てくれ」
スタジオの位置情報を送り、半ば一方的にそう告げた俺は一足先に家を出た。
一際熱い陽射しに照りつけられながらも心と身体を前に向かせ動かす。
今日から三日間、休みをまた返上して特訓の日々が続く。
本当なら心も体もベッドに就きたい筈ではあるが、それすら押し殺して面倒な役割を全うする。
そう意気込んだ俺はこの後に待ち受けている後半戦が如何に厳しいものか、この時はまだ知る由もなかった。
♢
「ふぁ~ねむ……」
大きな欠伸を掻きながらマンションで準備を進める。
若干酸素不足で脳内があまり働かない中での午前中はやはり気怠さを感じる。
ここが学校で机があるなら今頃、突っ伏して寝ている。
そんな学校もお盆休みが明けた一週間後には二学期が始まる。
約一か月とあっという間の夏休みももう終盤戦。
忙しいアイドル活動をしていると物事があっという間に進んでいく。
その分、思い出に残りやすい濃い記憶が根付くから何もしてなかったでは終わらないで済む。
それが学生時代に打ち込んだ事としては決してアピール出来ないがな。
「止めよう。せっかく前向きな気分なんだし、これを維持する方がいい」
ヒカリでの仕度を諸々済ませタオルやスポーツ飲料を持って玄関へと向かう。
『そろそろ着く』と返信した香織のタイミングに合わせて外に出ると……
「え?」
「ん?」
ルーチェの部屋のドアノブに手を伸ばした赤白チェックのボーダーにフレアスカートを履いた少女と思わぬ出会いを果たした。
「ヒカリちゃん!?」
「唯菜?」
予想だにしていない出会いにお互い目を大きく見開いた。
「あれ青森の実家に帰っているんじゃ……」
そう言えば、そういう設定にしてるんだった。
どうする……少し早めに帰って来た、と誤魔化すか……ここは敢えて一部事実を改竄して誤魔化すか……いや、迷っている余裕はない。ここは後者でいこう。
「実を言うと私、青森に帰ってなくて」
「え、そうなの?」
「うん。帰る時、香織が熱を出しちゃって叔母さんに看病を頼まれて」
「そうなんだ。三津谷君はいなかったの?」
「彼は友達と旅行かどっかに行ってて、それで私が代わりに」
「そっか、それじゃあ仕方ないね」
絶妙な言い訳の仕方でピンチを回避。
いや、全然回避出来ていなかった。
「あれ、その格好……練習着だよね?」
「そう……だね」
「これから自習練でもするの?」
「一応……」
「一人で?」
「ふ、二人で」
「香織ちゃんと?」
「……香織ちゃんと」
唯菜の声のトーンがだんだん冷たくなったような気がする。
問い詰められて更に追い詰められ、逃げ場のない袋小路に追いやられた気分だ。
どうにかして話題を逸らさねば……
「ちなみに唯菜は何でここに?」
「私はルーチェちゃんに頼まれてゲーム機を取りに……あ……」
言葉が詰まった唯菜に疑問を覚え、直ぐに違和感の正体に気付く。
「ルーチェ、唯菜の家に居るの?」
「うん。そうなの」
「ジル社長から逃げたのか……」
「そうみたい。三日前の朝、突然家の前で『匿って欲しい』って頼まれて……」
兄貴と一緒に帰国したくない一心でナイルさんが迎えに来る前に逃走し、唯菜の家に転がり込んだ。自室へ下手に戻ると追手に捕まって連行されるから手の届きにくい唯菜の家で身を潜めている。というルーチェの考えが容易に浮かぶ。
「それに付き合わされる唯菜も大変だ。要は遊ぶ物がないからゲーム機取ってきてってお願いされたんでしょ?」
「正解」と苦笑いで答えた。
「幸い、お母さんがルーチェちゃんのこと気に入っているみたいだから暫くは家にいるのかな。あ、いっそのことヒカリちゃんも泊まりにくる?」
「あ~私は三津谷家にお世話になっているから今回は遠慮しとくよ」
「え~香織ちゃんと一緒においでよ~」
魅力的で嬉しい話だが、唯菜のパーソナルスペースに侵入するにはまだ心の準備が足りないどころか懺悔する気持ちが強いのでかなり気が引ける。
それに下手にお邪魔したらルーチェが付いて来て本当の実家がバレるとも限らない。
唯菜の家よりも隠れ蓑としての機能力の高い実家が奴に支配されるのも容易に想定出来る。
唯菜には悪いが、暫くルーチェはそこに留めておいてほしい。
「ごめんね。これから香織とやらないといけないことがあって」
「やらないといけないこと?」
「それは唯菜にも言えないんだけど。いつか、必ず教えるから今は……」
「いいよ。ヒカリちゃんが誰かのためにそうやって動いている時は多分……良いことなんだって。私は知ってるから」
癒しを与える柔らかな微笑みに温かな言葉。
いつだって元気をくれて、背中を押してくれる唯菜の寛容さには感謝でしかない。
「ありがとう。いつも……」
「どうしたの急に?」
「いや、何でもない」
手に握られたスマホから通知が届く。
『着いた。まだー』と綴られた文章に目を落とす。
「香織ちゃん、待ってるよ」
「だね。じゃあ、また」
「うん、またね」
手際よく鍵を閉め、唯菜の横を通って下の階に降りる。
少しは重かった心も身体も今はなんだか軽く感じ、前向きな気持ちが高まっている。
意外にも自分の心が単純な作りをしていることを再確認する一方で、知らぬ所で暗く伸びた影に目も暮れずにそのまま目的地へと向かった。
 




