四十九幕 沖縄/海⑪
沖縄本島から約五キロ離れた場所にあるホテル所有の小島。
船を停泊させる桟橋を降りて直ぐにビーチが一箇所、島の中心に生い茂る雑木林の中に整備された小路を抜けた先にある島の反対側にもう一箇所のビーチが存在する。
因みに今回、俺達がいるのは反対側。本島が見える入り口側とは逆でこちらから見える景色は一面の大海原が広がる太平洋の一部。
透明度の高い海に囲まれ、絶えなく聞こえてくるさざなみに耳を澄ませ、大自然と一体化を試みる。
午前中の気象は快晴とはならず、上空を覆う雲が所々多いため青海の夏空を拝むには至らず。しかし、雲の隙間から太陽の光が水平線へ差す込む様子はさながら女神が降臨する前触れを予見させる。
そんな壮大な海を前に圧倒され、ふと心の底から感慨深い言葉が出る。
「良い眺め」
「沖縄で海を見たのは初めてじゃないでしょ」
隣に降臨……ではなく並び立ったのは女神ではなく悪魔……でもなく香織。
一人きりでこの景色を堪能していた状況を邪魔するように現れた香織の情緒を介さない台詞に『やれやれ。この景色を良いとは思えないなんて、心が汚れている証拠だ』という言葉を内心だけに留めておく。
「今、コイツマジで空気読めねーみたいな感じなこと思ったでしょ。てか、顔に出てる」
「お前は分かっていないな。こんな光景、滅多に拝めるものじゃないっていうのに」
「綺麗だと思うのは同感。お姉ちゃんが見ているのを気になって来たわけだし」
「……なぁ、そのお姉ちゃんっていうのやっぱり止めにしないか?」
「約束は約束。それに春乃や唯菜さんには後で私達の関係を話すつもりだし」
「兄妹なんて言うなよ」
「分かってる。あくまでも従姉妹で通すつもりだから、ね。お姉ちゃん」
「お前の従姉妹のお姉ちゃんは俺じゃなくて他にもいるだろう」
母さんのお姉さんの子供。
俺と香織よりも歳は二つ上と四つ上の従姉妹。
二人ともに性格が良くて面倒見がいいお姉さん。俺も香織も幼い頃はよく一緒に遊んでもらったりとお世話になったものだ。
かなり遠方に住んでいるため、もう三年近くは会っていない。
「あの二人はお姉さん過ぎるから却下。それに私は世話が焼ける不器用な姉を隣で助けてあげる優しくてお姉ちゃんっ子な可愛い妹を演じてみたいの!」
「自分で言うな、自分で」
香織のどうでも願望話をしているうちに雲の量が少なくなり、沖縄の青海が大きく顔を出すくらいまでには晴れ、いつの間にか光が砂浜までに届いていた。
海から吹く暖かい潮風を感じ、日光浴をしながら身体を大きく伸ばす。
「それで、ここまで来たのはわざわざ邪魔しに来ただけじゃないんだろ」
「別に邪魔しに来た訳じゃないし。一人でたそがれてる誰かさんを見つけたから、中二病ってどんな気分なんだろうって興味本位で経験しに来ただけ」
「お前の目には俺がどんな風に映っているのか、なんとなく分かった気がする」
「ただの冗談。青春してるなって思っただけ」
「これが青春ならもっと違う青春を送りたかった」
「元の姿だったら今、ここにはいないんだからマシでしょ」
どうだろうか。
ヒカリにならなければ得られなかった感動や友情、出会いがある。その反面で多大なリスクを背負っていることも注視してしまえば素直に良かったとは思えない。
それに一度、考えたことがある。
もしも、俺がヒカリではなくなってアイドルを辞めたら今ある関係は全て終わってしまうのではないか。唯菜との関係も単なる同級生という形で終わり、今みたいな距離感で接することはないに等しい。特にそれ以外のメンバーとは殆どが赤の他人で終わってしまう。
そんな終焉はいつか迎えることになるのだろうが、その時の選択を今はまだ考えることは出来ない。
「……お兄ぃ?」
「いや、何でもない。それよりも呼び方戻ってんぞ」
「まぁまぁ、せっかくの南の島なんだし。辛気臭い顔していないで海でも入ったら?それ、一応水着なんでしょ」
香織の指摘に改めて自分の格好を見つめ直す。
白いTシャツに水着用のハーフパンツ。水着なのかと問われるくらい露出は全体的に控えめ。
対して隣で水色のパレオ付きのビキニに紐パンと中々に攻めのスタイルで立つ今話題沸騰中のアイドル三津谷香織のビキニ姿には同じアイドルとして感服せざるを得ない。
プライベートであっても決して手を抜かず、見る者を喜ばせようとする精神が象徴的に表れている。これにはヒカリの中に隠れた健全な男子高校生である陽一も興奮してしまう。
「なに?ジロジロと……」
「水着似合っているなって」
「違うとこ、見てたくせに」
そう言って香織は胸の前を手で覆い隠す。
「別にお前の見なくても、一応こっちもあるし」
シャツの胸辺りに視線を落とす。
膨れ上がった二つの膨らみと質量感が実っていることを少しアピールした。
「それ、自分で言って恥ずかしくない?」
呆れた香織の言葉に俺は正直に「恥ずかしいです」と認めた。
「てか、女の子になっているならもうちょっとお洒落な水着着たら良かったのに」
「これでも十分、お洒落だと思うが」
「唯菜さん達のセンスが良いんでしょ。結構、水着選びに戸惑ったって春乃も言ってた」
「やめてくれ。昨日、あの二人から何回着せ替え人形にされて弄ばれたことは出来れば思い出したくない」
三人の魔の手にかかり男の矜持が危うく揺らいでしまうくらい露出の多い様々な水着を片っ端から着せられたのは悪夢の様な時間だった。
俺が選んだ水着は軒並み却下され、次から次へと持ってくる大量の水着に試着室のハンガー掛けが埋め尽くされた。二人の隙を見計らって逃げようとすれば気配遮断能力の高い柚野さんに店先で捕まってしまい強制連行及び監視が付いて逃げられなくなった。
結果として、Tシャツの下にオレンジ色のビキニを着ることで少しオシャレ感を出した水着で三人を納得させて二時間に渡る水着選びを終えたのであった。
「ふーん。私が見てない所でイチャイチャしてたんだ」
「今の話を聞いて、どう解釈したらイチャイチャしてた。になるんだ?」
「全部」
「はいはい。俺が悪かったよ」
ムスッとした香織に言い争う気も起きなかった俺は即座に白旗を挙げる。
「何で言い返してこないの?」
「言い返して欲しいのか?」
「別に……」
何だろう。
昨日から香織の様子が少しおかしい、というかいつも以上に何を考えているのか分からない。
「ねぇ、聞いていい?」
「嫌だ」
「お兄ぃって、やっぱり唯菜さんのこと好きなの?」
「……その答えは前にも聞かせただろ。クラスメイトで同じグループの……」
「そうじゃなくて!」
叫んだ香織の声に反応したのか、数羽の海鳥がどこかへ飛び去る。
「ごめん。やっぱり何でもない」
俯いたまま表情を見せずに背を向けたまま香織は海の家がある方へと戻って行った。
「……分からん」
香織が感情を露わにするのは珍しいことではない。
外では決して出さない表情を家の中では、主に俺の前では積極的に見せてくる。
特に不機嫌な時が一番多い。
さっきみたいなムスッとした顔や不満気な顔、『マジ死ね』と言わんばかりの強烈な侮蔑が込められた顔……しかし、さっき垣間見えた表情はあまりめにしたことはなかった。
それに香織を怒らせるような事を言った覚えがない。
普段通りの素っ気無い態度。
そんな風に考えながらも海の中に足を浸ける。
「……変な感触」
熱された砂浜で温まった素足を冷やしてくれる海水に足指の隙間に絡みつくようにして砂が纏わり付く。
「ズルい!」
岩陰の方で砂浜にレジャーシートを敷き、荷物を置いた唯菜が先に入っていることを指摘してくる。
栗色髪と同じ色のビキニを纏い、傾状の砂浜を勢いよく駆けた唯菜が波打ち際で高くジャンプ。
俺よりも前の方で着水し、大きな水飛沫を周囲にまき散らす。
「つめた!」
「うん、冷たい!」
楽しそうに笑いながら二度、三度こちらへと両手ですくった海水をかけてくる。
大量の水が顔や身体に飛び付き、まだ足首辺りまでしか浸かっていないにも関わらずTシャツをビチョ濡れにされた。
「ダメだよーそんなの着てちゃ」
いつまでTシャツ着ているんだ!往生際が悪いぞ、と言わんばかりの勢いで水をかけられる。
「ちょ、本当に寒いから!」
「なら脱げぃ。そして、沖まで泳ぐぞ」
テンションがおかしい方向へ高まった唯菜が手を引っ張りながらドンドン奥へと進んでいく。
それにつれてTシャツが海水で濡れ、腹部の辺りに纏わりつく。
「分かったから。これだけでも脱がせて」
流石に肌寒く感じてきたため、観念した俺は砂浜に打つ上げられた流木へとTシャツを置く。
唯菜も一旦、足首までに浸かる位置に戻り「あっ」と何か思い出すようにして尋ねてくる。
「ヒカリちゃん、日焼け止めは塗った?」
「塗ってないけど」
「えぇ!?ダメだよ、沖縄は紫外線強いんだから何回も日焼け止め塗り直さないといけないんだよ!」
「でも、出る前に塗ったばかりだし」
「ダメダメ。ほら、私が背中とか塗ってあげるからつべこべ言わずに来る!」
日焼けダメ、ゼッタイに!
女子力が圧倒的に足りないことを最近、唯菜に見透かされてしまった気がする。
部屋の掃除といい、洗濯や料理、化粧品など、陽一には縁遠いものを率先して教えてくれるのはもの凄く助かる……のだが、それに応じて性格面も看破されてきたのか、ヒカリが面倒屋な性格だと思われてしまったらしい。
そのため、何を嫌がるにしても唯菜はこうして手を引っ張りながら一緒に付き合ってくれる。
そんな不思議な光景に改めて気付き、少し口が緩んでしまった。
「何か面白いことでもあった?それとさっき香織ちゃんと何か話してた?叫び声が聞こえた気がしたんだけど……」
そう言えばと思い返した唯菜の質問に「いや、何もないよ」と答える。
まぁ何かあったから香織は感情を露わにした訳で、その答えを持っていない俺に回答件はない。
「そっか」と口で返した唯菜はバックから日焼け止めを取り出すとレジャーシートに寝転がるように指示してくる。
「じゃあ、隈なく塗ってあげるね」
「いや~自分でやるから貸して欲しいな~」
ダメもとでクリームを掴もうとするも答えはノー。
「私がやる」と一点張りの唯菜が再度寝転がるように急かす。
「程々に……お願い、します」
「うん、任せて!」
うつ伏せで寝転がると背中で止めていたビキニのホックが外される。
その次の瞬間、ひんやりとして滑っとした感触が背中全体に広がる。クリームを肌に染み込ませるように肩から脇下辺りを優しく揉み解すように手でなじませる。
その気持ち良さに目を閉じると眠気が誘ってくる。
ヤバい、ウトウトしてきた……
昨日は日付が変わった後に就寝し、今朝はかなり早く起きたせいか昨日一昨日の疲れが今になって身体の内から出てくる。
この気持ち良さ呑まれて寝てしまうのも……致し方なし。
「はい。じゃあ次は前だね!」
唯菜の言葉に一瞬で意識を取り戻した俺はバッと起き上がる。
「ごめん。それは自分でやります」
「そう?はい、これ」
あっさりと日焼け止めを受け取り、前の方は唯菜の監視のもと自分で塗るのだった。




