三十三幕 デビュー/緊張①
六月の下旬から七月の上旬まで続いた梅雨が明け、来たる七月十五日の横浜アイドルトーナメントが開催される。即ち、三ツ谷ヒカリのデビューライブを今日迎えることとなる。
この日に至るまでの約三週間。ヒカリはひたすらに新曲の一曲目のみを練習し続け、概ね完成というレベルまで仕上げた。
前日と前々日に行われたリハーサルでもミス一つなく、しっかりと歌って踊り切った。
誰が見ても違和感なく、場に溶け込んでいると思える状態に仕上がった。そう付きっきりで指導を行ってきた善男も評価し、他のメンバー四人もセンターとして信頼を置けると判断した。
そんな好調の中、栄えデビューライブの一回戦にSCARLETとの初対決を迎える。
センターとして大きな役割を担った陽一は自身に重く圧し掛かったプレッシャーをモチベーションの向上へと変え、これまでの練習に取り組んできた。
準備は万端。
今出せる実力を出し尽くすパフォーマンスをステージでしてみせる。
そう心持ちを強く保ちながら、一夜を過ごしたマンションから会場の赤レンガ倉庫へと一歩を踏み出した。
♢
イベント開催は午前十一時で現時刻は午前九時。
三日前から建造された特設外野ステージには多くのスタッフが最終調整及び機材のセッティング準備に取り掛かっている真っ最中。
そのステージ裏にはバックルーム用のテントが五ヶ所設置され、参加する8グループが各々割り当てられたテント内で着替えを含めた準備を行う。
その中のあるテント内で一人、予備の機材が並べられた隅っこの方の機材と機材の間で体育座りのまま画面蒼白で意気消沈している人物が居た。そう……ヒカリである。
「何か声を掛けた方がいいの?」
「うーん。今は暫くそっとしておく方がいいんじゃないかしら」
ヒカリをどう扱うか少々困ったルーチェと善男は気持ちが落ち着くまでそっとしておくことにする。
直後、「おはようございます!」と元気良く挨拶をしてテント内に唯菜が入る。すると、ブツブツと単調な音を発する何かが気になり、ふとその方に目を向ける。
「え……ヒ、ヒカリちゃん!?」
死んだ魚の目で虚空を見詰めているヒカリに唯菜は驚く。
「ど、どうしたの?」
声を掛けても唯菜の言葉は聞こえていない。それどころか、目は開いているものの焦点が合ってない。
「緊張しているようね」
ヒカリと同じタイミングに来ていた善男は現状を簡単に説明し、その隣で呆れた表情を浮かべたルーチェは「やれやれ」と首を横に振る。
「どうやら本番に弱いタイプみたい。昨日まではあんなに生き生きとしてたのに」
リハーサルであっても、実際のステージに立つと多少なりとも緊張はする。
しかし、昨日のヒカリは一切それが感じさせない振舞いをステージ上で披露した。
声に緊張感はなく、ダンスに迷いがない。
音源を身体全体で感じ取り、唯菜と阿吽の呼吸でコンビを組んでみせた。
それが唯菜の中ではとても頼もしく感じられ、リハーサルの段階でももしかしたらSCARLETに勝てるかもしれない。なんて夢心地の良い希望を抱いた。
そんな期待を胸に今日の朝、気合いを入れるための必勝祈願を来る途中にあった神社でお参りしたものの、肝心なパートナーが絶不調で始まる前から再起不能に追い込まれていた事実に啞然とした。
兎に角、このままではいけないと判断した唯菜はヒカリの手を取り、必死に声を掛ける。
「だ、大丈夫だよ!ヒカリちゃんなら出来る。絶対!」
そう鼓舞してみるものの「……うん」と反応は薄い。
「うぅ……どうしよう……」
初めて目の当たりにするヒカリをどう接するべきか唯菜も困り果ててしまう。
「暫くそのままにしておけば?どうせ、直ぐに立ち直るだろうし」
「そうね。彼……じゃなかった、ヒカリちゃんは芯が強い子だから問題ないわ」
「タムタム……」
「ごめんなさい。気を付けるわ」
苦笑いを浮かべる彼の腰をルーチェは肘突く。
「それに唯菜ちゃんも準備あるでしょ。大丈夫、ヒカリちゃんは既に衣装着ているからいつでも出られるわ」
よく見るとヒカリの髪色に合った黄色を基調としたポーチカの衣装を既に着用していた。
デザインは唯菜達が着ているのとほぼ変わらない。
変更した点あるいは変わった点があるとすれば……
「あれ、スカートじゃないんですね」
「本人たっての希望でね。どうしても短パンじゃないと嫌なんですって」
善男の言葉を引き合いに唯菜は一週間前にヒカリの部屋を掃除した時の記憶を読みがらせる。
ヒカリの持つ私服の殆どがシャツや短パンといったカジュアルな種類が多かった。他にもワンピースやスカートの類もタンスの中には仕舞われていたものの、新品のまま未使用に近い形で奥の方に半ば封印される形で隅へとおいやっているようであった。
「スカート、苦手なんですかね」
「それは本人に聞いてみて欲しいわ」
おいおいそれは聞くとして……唯菜は衣装に関して浮かんだ疑問を口にする。
「ヒカリちゃん一人だけが短パンで少し目立ちませんか?」
ポーチカの衣装は基本的に全員がスカートを履く。
ズボンじゃないといけない決まりはないものの、一人だけ短パンだと少しだけ浮いてしまいかねない。
「大丈夫。兄貴に頼まれて、私が短パン係を担うから」
バックから急遽用意されたルーチェ用の短パンを取り出して見せる。
一人だけならともかく、二対三であれば特に変には映らないだろう。
「それと唯菜ちゃん。『衣装に着替えて準備完了次第、運営側のテントに来て欲しい』ってジルから伝言を頼まれてたわ」
「あ、私もそう言われてました」
事前に伝え聞いていた言葉を思い出し、唯菜は急ぎ支度に乗り出す。
そうバタバタと唯菜が支度をする傍らで体育座りで虚空を見詰めていた筈のヒカリが再起動。蒼白でヨロヨロとした足取りのまま、ゆったりとした歩行で体調悪そうにテントから出ていく。
「あんな状態でもちゃんと理性は働いているのね。心配だけど」
「今は一人にしてあげれば。多分、その方があいつは落ち着くだろうし」
その様子を傍から観察していた二人は止めもせずに海側へヨロヨロと向かうヒカリを見送った。
♢
ヤバい。
気持ち悪い。
吐きそう。
かつてないほどの緊張感に駆られ、心の作用が身体に大きな悪影響を及ぼしていた。
やれる事はしてきた。
練習を通じて何度も身体に歌と振りを染み込ませて確認してきた。
前日のリハーサルも大きなミスなく普段通りに出来た。
準備は万全……な筈。
しかし、凄まじい緊張感が心を大きく搔き乱し、不安を増長させる。
本番開始二時間前だと言うのに心臓の鼓動が普段よりも早く脈打つ。
ステージ側を見るだけで脈打つ鼓動が早くなり、脈打つ強さも高まる。
落ち着け私……じゃない、俺。
「くそ……全然大丈夫じゃねぇ」
『大丈夫』そう何度も自分に言い聞かせても効果はない。
やってきた内容を思い出し、気分転換に新曲を聴いて小刻みに身体でリズムを掴んでも何一つ安心感が得られない。本番前にしてようやく自分に重く圧し掛かっていたプレッシャーに自覚し、今更ながら俺は臆していた。本当に今更ながら……
(ははっ、相変わらず心が弱いな俺……)
自嘲気味に内心でそう吐き捨てながらコンクリートの地面を視線で沿っていると視界の上の方からコバルトブルーの海が映る。
頬に当たる潮風に顔を挙げると目の前には青々とした横浜湾が広がっていた。
右を向けば横浜ベイブリッジ、前方の奥に目を凝らせばコンテナ輸送を担う大型の船が港に停泊しているのが見える。乗り物酔いを覚ますのと同様に遠くで停泊する船を眺めたまま暑い日差しの中でも辛うじて涼める心地良い潮風に身を委ね……何も考えず、ひたすらに自然と一体になる。
無心となり気持ちを安らぐよう試みるも、ただ、一点だけ気が気でない事実があった。
「うぅ……吐きたい」
そこだけは抑えられそうにない。
既に胃の中から逆流しかけ、一度は口から出そうになった。
さっさと衣装を着てしまい、気合いで緊張を吹き飛ばそうという考えが甘かった。
これを着てしまったら最後、ステージが終わるまでは汚れ一つも付けられない。
自分の吐しゃ物なんてもってのほか。
しかし、我慢出来ないものは出来ない。
なら今からトイレに行ってスッキリしたい……って、トイレ何処?
前は海、後ろはステージ。
トイレがありそうな赤レンガ倉庫は少し距離がある。
そこまで辿り着くまで我慢が出来るかと言われれば厳しい。
なら、いっそのこと……海に……(㊟本当はダメです)
だが、背に腹は代えられない!
そう覚悟を決め、上半身をゆっくり海の方へ乗り出す。
鼻腔一杯に漂う潮の香りを我慢するも、胃は我慢の限界を迎える。
「うっ……」
口から勢いよくものを吐き出した直後、誰かの手が優しく背中に触れられ……少しばかり心が落ち着く。
「大丈夫。私以外誰も見ていないからそのまま……」
その言葉に後押しされ、海に落ちないよう心掛けながら続ける。
優しく背中擦り「落ち着いた?」と声を掛けてくれた見知らぬ人の援助でどうにかやり過ごす。
「すみません……ありがとうございます」
「平気です。それよりもそのままで構わないのでゆっくり心を落ち着かせてください」
それに甘えた俺は四つん這いのまま少し心にゆとりを持たせて海を眺める。
「もしかして、今日が初めてですか?」
『アイドルとしてステージに立つこと』が初めて、という意味で受け取った俺は小さく「はい」と答える。
「私も同じでした。今のあなたと同じで物凄く緊張してて……ステージ前にここで吐いちゃったんですよ」
人に軽く話すような内容でもない思い出話で気を紛らわせようとしてくれる。
その気遣いに心の中で深く感謝した。
「それにしてもよく分かりましたね」
「さっき、あなたが海の方に行くのが見えて……その姿があの時の私そっくりだったから、放っておけなくて」
「あはは……お互いに、苦い思い出の場所ですね。ここ」
軽口が叩けるまで落ち着けた俺はゆっくりと後ろに後退する。
「はい。これ使って」
白いタオルとスポーツドリンクを渡された俺はタオルで口元を拭い、水を軽く口に含む。
吐いたことで大分スッキリした。
気持ち悪さは多少なりとも残っているものの、時間が経過すれば問題ない。
心なしか緊張感もかなり収まってきていた。
「あ、ヒカリちゃん!」
名前を呼ばれ、ゆっくりと振り向いた先には慌てた様子でこちらに向かって走る白里が映った。
急変した俺を気にかけて心配しに様子を見に来たんだろう。
「テント内から急にいなくなって心配したよ!」
「ごめん」
「体調は大丈夫?」
「うん。ちょうど、今この方に助けていただいて……」
「「えっ?」」
そう言えば、この人は一体誰なのだろうか……と、介抱してくれた見知らぬ女性の顔を二人して拝見する。
それは俺と白里もよく知る人物。
「こんにちは。白里唯菜さん」
三津谷香織。俺の妹だった。
前回のライブ時に着ていた衣装よりも外で着られるように露出が多く、真夏で動くには通気性の良さげなクールビューティーな装い。
顔を見て、ようやく聞き覚えのある声に気付いた俺は自分の妹に優しく介抱されたという事実に後になって痛感し、形容し難き恥ずかしさを今更ながら感じて赤っ恥をかく。
一方、白里はごくりと唾を飲んだ上で「こんにちは。香織ちゃん」と向かい合っていた。
「今日はファンではなく、互いに競い合うライバル。そんな顔をしていますね」
「うん。私は今日、香織ちゃんを倒すために来たよ」
白里の決意とも言うべき宣戦布告に少し驚いた。
あれだけ憧れの目を向けていた香織を今は自分の好敵手と見なし、戦うべき相手と見定めている。
その意志を明確なまでに口に出して示すその雄姿に大きな安心感を覚える。
その反面、こんな所で体調不良に陥っている自分が情けなく思えた。
身体が女の子だから、心なしか心もまた女寄りになっているのではないか。
見た目は美少女だとしても心は男で在り続ける。
最初に誓った時、俺はそう決めた筈だ。
なら、俺がここで横に立たずしてどうする。
「そうだ……倒すために来たんだ」
香織の元を離れて白里の隣に立つ。
「恩を仇で返す様な感じで申し訳ないんだけど……」
互いに視線を合わせて次の言葉を出す。
『私達は負けない』
強い意志で揺るぎない声で宣言する。
SCARLETに……三津谷香織には負けない。
それは当然、香織も同じ。
「私達も負けを譲る気はありません。SCARLETの名に懸けて」
気迫。
真剣な眼差しで俺達を捉える香織の瞳から鋭い気迫が放たれた気がした。
数々の大舞台に立ち、色々なステージを経験してきた香織とたかが小さなライブハウスステージでしか披露したことのない白里にデビューライブを迎える俺。経験の差は歴然。
しかし、そんな事は既に承知済み。
今更、怖じ気ついた所で何にもならないと分かってここまで来た。
あとは簡単な話。
全力全霊でやるだけやって、当たって砕ければいい。
「元気になれて何よりです」
「お陰様で。それと礼なんだけど……」
「お礼はステージ上で返して下さい。あなたの全力のパフォーマンスを見せて頂ければ満足なので」
「香織~麗華さんが来てだって~」
この声は春乃さんだろうか、同じメンバーに呼ばれた香織はタイミングが悪いと言わんばかりの顔で少し溜息を吐いて見せた。
「私はこれで失礼します。あ……タオルとドリンクは運営から貰ったものなので、そのまま持っていて構いません。それでは」
俺と白里が並ぶ横を通り、ステージの方へと歩む。
そこである事を聞きそびれた白里は悩みながらも振り向く。
不思議に思った俺も後を追う形で振り向くと香織もまた同様に足を止めて振り返っていた。
「あの、お兄さんは今日、来ないの?」
「あの、兄は今日、来ないのですか?」
同じタイミングで、同じ意味合いを帯びた内容を尋ねる。
そこで俺は金曜日にあった関連エピソードを頭の中で瞬時に二つ思い浮かべた。
先ずはお昼休みの教室での事。
『三津谷君って、今週末のイベント。香織ちゃんを応援しに行かないの?』
『いや、行かない』
行くけども。あくまでも行くのは俺であって俺ではないが。
『そう言いながらも、LOVE香織ちゃんTシャツ着て、関係者席で見てたりしない?』
『しないし、着ないから』
あのTシャツはあれ以来タンスの奥に封印したまま。
香織がおちょくるネタで使おうと俺の居ない所でタンスを漁っているのは知っているが、俺が仕掛けたタンス内のトリックに気付かず見つけられていない。
あれを二度と本人の前では出すまい、着まいと決めた以上封印が解かれることはない。
『そっか~ならいいんだ。気にしないで』
『うん(まぁ、俺も出るんだけどね。一緒に)』
というのが一つ。
もう一つは、レッスン帰りの夜。最寄りの駅から自宅の帰路を歩く途中、駅前のコンビニで夕ご飯を買っていた香織と偶然にも出くわした。同じ家に帰る者同士、そのまま二人で歩いている途中でその会話は生じた。
『今週末、イベント来ないの?』
『行かない』
迷いもない即答が気に障ったのか、『あ?』と威圧的な表情を横から発する。
『あんな可愛い彼女がステージに立つのに観に行かないんだ。薄情者だね』
『何回も言っているだろ。白里は彼女じゃないって』
何を勘違いしているのか。
あの日ライブを一緒に観ただけの関係を香織は彼氏彼女の関係だとわざとらしく捉えている。
『ふ~ん。ま、どうでもいいけど、来たいなら言ってね。関係者席用のチケット貰っておくから』
『要らん』
関係者も何もこちとら出演者だっつーの。とは口が裂けても言えず、普段通りの態度で跳ねのけた。
という具合で両者には事前に『三津谷陽一はこの会場に来ない』ことを伝えてあるのだが、イマイチ信じてはもらえず、半信半疑で探られていたのだと当事者の俺はこの場で理解した。
そして、まさか互いに同じ事を考えていた事実に二人は少しばかり呆気に取られた後に少し笑って見せる。
「すみません。あの兄がこんな場所に来る訳がないですね」
「私も自分のステージ観られるの少し恥ずかしかったので、香織ちゃんを観に来てたらどうしようかと……」
「……」
何だ。この何とも居たたまれない状況は。
二人共、自分の兄とクラスメイトの男子が直ぐ真ん前と真横に居る事に気付いていない。
それはそうでないといけないのだが、本人を前にして言うのは何だかな~って感じです。はい。
「じゃあ、次はステージで」
「はい。ステージで会いましょう」
良きライバルと認め合う二人を横目に俺は少しばかり疎外感を覚えるも、それは俺に原因があるので文句は言いたくても言えない。
けれども、この一連の出来事があったお陰でどうにか平常心を取り戻し、体調も普段通りになってきた。緊張や不安も白里が隣に居ると安心感へと変わる。
そんな不思議と温まる白里が「じゃあ、私達も行こうか」と手を掴み、そのままステージ裏の控室用のテントへと向かって歩き出した。




