二百七十三幕 彩香とのレッスン①
元に戻ってから約一か月。
俺はヒカリに成り立ての頃と似た生活を送っていた。
活動再開に向けた準備として約一か月は密かに事務所でレッスンを受ける。
土日に定期公演を行う唯菜達とは別スケジュールで一人動くことの方が多かった。
活動休止中の身であり、横浜アイドルトーナメントでは何の告知なしでの復帰戦となる。
それまでに前よりももっと歌唱力やダンスのレベルを向上することが求められる。
そのための講師として目の前に鬼のような麗人がじっとこちらを見詰めながら歌を聴いていた。
「60点。声は良いけど、音程が微妙に取れてない。表現力でカバーすることに文句はないけどもっと音に耳を傾けて歌いなさい。それと途中、気分良くなって歌が暴走気味なのもよくない。その声を活かした歌い方をもっと工夫するべき……と色々と言いたい」
もう結構言われて心が挫けそうです。
唯菜が初めて指導を受けた時、泣きそうになったのも理解できる。
「カラオケみたいに自分だけが気持ちよくなって歌うのとはまた別。あなたたちは五人で声を揃えて歌わないといけないんだから、自分の声や歌をもっとコントロールできなきゃダメ」
言われることは厳しい。
けど、言われて納得してしまうから聞き入れてしまう。
「けど、不思議なことにあなたが唯菜と歌い始めると自然に声が重なって良い調和が取れてる。あんたら付き合ってるの?」
「付き合ってないです」
「いつ、付き合うの?」
「それは…………」
いつなんだろうか?
「フフッ、冗談。でも、男子はああいうタイプ好きよね。一途で真っ直ぐな可愛い子」
「否定はしません」
「ま、私も好き。ああいう素直で可愛い子は特に」
彩香さんが唯菜を贔屓している。
それを尋ねた所で隠さないのは何となく分かる。
かといって、特別扱いもしていない。
「唯菜は不器用で苦手なことが多くても、それを練習と経験で補う力がある。特に自信が付いた場合、その力はあの子だけのものになる」
「それって最近の唯菜を指してますか?」
「ええ、そうね。以前に比べれば格段に歌が上手くなっている。年明け以降なんて、大化けしたと言っても過言ではない」
彩香さんがそう評価するほど唯菜の勢いは凄い。
苦手意識を持っていた歌唱力は大きく向上し、単独の定期公演ではソロ曲を披露している。
以前行っていた路上ライブ特訓で聴いてくれたお客さんも今では唯菜の歌を聴きにポーチカファンとしてやってくる。
「正直、ここまで成長するとは思っていなかった。始まりが酷かったから期待もなかったけど」
苦笑いを浮かべるしかない。
「だから、良い意味で期待を裏切ってくれた。指導者としてここまで鼻が高いと私も嬉しいわ」
彩香さんのアドバイスが上手い。
それも一因としてあるだろうが、俺は唯菜がどれだけ努力してきたか知ってる。
彼女がどれだけ自信を持てずにいたのかも知っている。
挫けて。
泣いて。
下を向いても……絶対に上を向く。
諦めない。
挫けたままでいるもんか。
そんな強い意志が唯菜を成長させる。
そして、その成長が大きく結びつく要因なのが自信だ。
自信がつくことで心に余裕が生じ、思い切ってパフォーマンスできる。
人が成長するための好循環を唯菜はあるステップ毎に着実に踏んで進んでいる。
「唯菜は前に一度、あなたに追いつきたいと言った。でも、あなたは唯菜に追いつきたいと思っている。違う?」
「その通りです」
「なら、今言ったことは最低限やること。まぁ、あなたの場合、色々と特殊だから教えるの大変だけど」
「特殊って、そんなに変わっているように思えますか?」
「変わってるわよ。第一に、急に声質が変わっても違和感なく歌い切れるのは正直言って頭がおかしい」
「言い過ぎでは?」
「事実よ。現に声変わりを経験しているなら分かるでしょ」
その辺り、彩香さんが言わんとしたいことは俺もよく分かる。
陽一とヒカリの声質は全く異なる。
姿が違うだけで180°声のトーンや声色が違う。
日常で使っていた声が突如変わり、慣れない声に違和感を覚えながら発するのは当然。
中学時代、声替わりを迎えた際に上手く人前で歌えなかった苦い思い出が蘇る。
しかし、その時と比べれば変身してから一貫して違和感はない。
まるで自分がこの声をどう扱えばいいか初めから分かっている感覚だ。
「よくは分かりませんが、何故か不思議と声が出せます」
「恐らく腕輪の力でしょうね。今の姿の基となる女の子であるあなたをコピーしているのだから」
「な、なるほど(よく理解できていない)」
「ま、そんなことはどうでもいいわね。少し休憩にしましょ」
彩香さんとの個人レッスンが始まって早一週間。
未だにどういう人なのか上手く掴めていない。
唯菜やジル社長からどういう人なのかは大体聞いているので分かってはいるが、やはり謎に包まれている部分は多い。
特に俺と同じで彩香さんも……
「良かったわね。その姿に成れて」
「え、はい……」
「気を遣わなくていいから。私はもうこっちでの暮らしも慣れたし、そこまで変化ないから」
目の前にいる彼女は松前彩香と名乗っているが本当は松前綾華という並行世界(IFの世界)から来たもう一人の綾華さんと入れ替わる形で存在している。
そんな複雑な状況は俄かに信じ難いが、以前俺もその世界とやらに意識が飛ばされて向こうでこっちの綾華さんを名乗る人と出会っていた。
だから、ある程度の事情は理解できる。
だが、前から一度色々と聞いてみたかったことはある。
向こうの綾華さんから聞いた話が本当だとするならここにいる彩香は間違いなく……」
「あの、彩香さんって実は松前綾華さん……ですよね?」
「……どうしてそう思ったの?」
「それは俺が同じ経験をしているからです」
俺で言うなら『陽一』と『ヒカリ』。
この腕輪を装着した際に『ヒカリ』……名前は後付けになるが、女であるもう一人の自分が誕生した。
しかし、誕生したものの存在を発揮・維持するための情報は遥かに足りなく、存在しても装着者である俺が認知できないような幽霊的な存在でしかなかった。
それはヒカリ本人も言っていたことだ。
後に腕輪がその情報を補うべく並行世界……いや、おそらく腕輪自身が創造した演算領域の世界内で俺の性格やこれまでの人生たる記録を保存した記憶や感情、思考、願望を基に『三津谷明里』なる存在を創造し、俺が『三ツ谷ヒカリ』を違和感なく演じられるよう陰ながら手厚いサポートをしていた。
その結果、足りない情報を俺と『ヒカリ』に付与されたことでヒカリは自我を持ち、存在を確立した。
香織から聞いた話によるとヒカリの性格面は明里と瓜二つだったという。
今の考えは俺の単なる妄想でしかないと思っていたが、意外にもその説は濃厚でダリルさんも同意している。
もしもこの仮説が本当なら今ここにいる彩香さんは……
「残念ながら私は松前彩香よ。でも、綾華としての記憶もある」
「やっぱり」
「けど、あなたが想像しているような形では存在してない。私の場合はもっと別……というか、自己中心的な考えが暴走してこうなった」
後ろめたさ。
その感情を瞳に宿しながら淡々と語る。
「動機は単純。私はジルに恋をしたの」
♢
かなり前。
父が運営する劇団に私は通わされてた。
将来の夢は女優……なんてことは一度も言ったことはない。
むしろ、歌が好きなので歌手を目指したかった。
けれど、父は反対した。
音楽の生活するのは無理だと決めつけ、私に女優の道を示すべく子役になるよう勧めた。
その当時は劇団のレッスンに歌唱力向上を目的とした項目も含まれていたため、表現力を上げるという父の助言の元、いやいやながらも通っていた。
周囲に同年代の子供は少なく、尖っていた私に話しかけるような同性の子は殆どいなかった。
常に孤独で、退屈な日々を序盤は過ごしていた。
そんなある日、綺麗で整った異国情緒を帯びた顔。
日本人とは思えない綺麗な銀髪に碧眼の瞳を宿した少年と出会った。
彼は劇団で最も有名な女優の息子でその容姿から一目置かれる存在だった。
そんな彼が私と同い年だと知り、ふと興味を覚えて話しかけたことが始まり。
その後、彼は私の学校に転校してきて以降は頻繫に話す間柄となった。
ジルという人間を一言で表すなら……その男は優しい。
昔から穏やかで一度たりとも怒った姿なんて見たことがない。
それどころか虫を殺すこともできないくらい臆病で、人を害することなんてできない。
だから、昔からその性格さと容姿が影響して同級生の男子からいじられる対象だった。
そんな幼馴染のジルを……男勝りな性格だった私はよく庇っていた。
『ありがとう、彩香ちゃん』
あの綺麗な瞳の中によく私は映っていた。
いびられて泣きそうになった彼は笑顔で私に何度も礼を言った。
そして、決まって私もこう返す。
『ホント、ジルは男なのに情けない。もっと男らしく反抗しなさいよ』
そう言っても彼は『無理だよ』と苦笑いを浮かべる。
中学生になった時は小学生の頃のあどけなさは抜けて爽やかな美男子へとなり、高校生の時には私よりも一回り以上背丈が大きくなった好青年へと成長していた。
そんなジルと仲が良いと思われていた私はクラスの女子からよく羨望の目で見られ、密かに陰口を叩かれたりしていた。
私もそれに屈する気は全くなく、言われれば睨み付けて返すような性格だった。
正直な所、クラスの女子にどう思われようがどうでもよかった。
友達なんて別に要らないし、放課後は常に空き教室の中でギターと歌の練習に励むことが何よりも楽しかった。
そんな孤独な私を見兼ねたジルはいつもその空き教室に顔を出して、より添うように歌を聴いてくれた。
そこから決して恋に発展することはなかった。
ジルも決してそんな素振りを見せなかったし、私も幼馴染のジルに恋愛感情を抱かなかった。
動機は単純。
顔はいいけど性格面がそこまで好きではなかった。
あれでもうちょっと男らしさがあってギラギラした感じであれば完全に堕ちていた。
けれど、やはり一番なのはジルが私に対して恋愛感情を抱いていないと感じていたことだった。
昔から見てきたその表情は全く変わらない。
感情が表に出やすく、演技が下手なジルであれば直ぐに顔で察せる。
そう分かっていたから尚更、そう強く思い込み……私も変な恋愛感情を抱こうとはしなかった。
しかし、そんなある日……私の意識に異変が生じた。
朝普通に目が覚めて気が付くとそこは病院だった。
一切覚えのない事故に巻き込まれ、私はどうやら気を失っていたらしい。
起きて直ぐに出会ったのはジルだった。
朝早くから見舞いに来た彼は安堵した様子で私に今まで向けたことのない表情で笑った。
『綾華、無事で良かった。意識は大丈夫か?』
口調も少し変。
いつもの穏やかさは消え、一人称は『僕』ではなく『俺』。
それに私のことを『綾華』と呼ぶ。
『あんたこそ、俺ってなに。それに私の名前を間違えるなんていい度胸してるわ』
その瞬間、ジルの表情が真っ青に染まった。
どうしてそんな慌てているのか私も訳が分からなかった。
だけど、その後落ち着いた口調でジルから状況を語られ……私はようやく状況を呑み込んだ。
この非現実的な事件に運悪くも巻き込まれてしまったのだと。
しかし、あまり実感がなかった。
体感している世界はほぼ同じで何も変わらない。
変わったことがあるとすればそれはただ一つ。
私の知っているジルがそこにはいないということ。
むしろ、そこにいたのは私が求めていたジルだった。
一人称は『俺』。
基本的に負けず嫌い。
意見の合わない父とは常に対立している。
いつもは穏やかで見た目は華々しくも映るが、己の中に鋭い牙を秘めていてどこかギラギラした一面もあった。
そして、彼は私……『綾華』が好きで大事にしていた。
恋愛感情を私だけに向けていた。
だから、いいと思ってしまった。
私が望んでいるジル・ゴロウィンという男が目の前にいて私を好きでいてくれる。
そんな彼を私は直ぐに好きなり、迂闊にも彩香としてアプローチしてしまった。
けれど、やはり彼は『綾華』が好きだった。
綾華という女性に惚れ込み、彼女のためにサポートを尽力していた。
外見は同じだろうが、私と『綾華』は全く違う女性で……私は『綾華』を知らない。
そんな『綾華』をジルも取り戻そうと必死で、元の状態に戻るよう努めていた。
こうなった原因の元である腕輪を私に与え、問題の解消を図るも事態はよりややこしくなった。
私の秘めていた恋愛感情を悟られ、元々の所持者だった松前綾華の情報が私の中に付け加えられ、疑似的に記憶を共有することなった。
結果的に、私は『綾華』と成り切り彼に再びアプローチを試みた。
記憶を共有し、私は完全に松前綾華として振る舞った。
けれど、そこに恋愛感情を出してはいけなかった。
松前綾華に成り切るつもりが、彩香としての自分の気持ちが先行してしまい気付かれてしまった。
私が本物の綾華ではないと分かった途端、ジルは冷めた眼差しを向け、そこで私も気付いた。
こっちのジルは私なんて求めていないと。
今思えばそうさせることがジルはこの問題の解決方法になると思ったのかもしれない。
きっぱりと断り、私に気付かせることで私が元の世界に戻りたいと願わせ、入れ替わり現象を再び違う形で発動させる。
策略深く聡明な彼だからこそ考えつきそうなやり方。
でも、私には反ってそれが愚策だった。
そんなジルがやっぱり好きで、嫌いになんてなれなかった。
歪んだ恋愛感情だと自分でも思う。
こっちの綾華のためやジルのためにも自分は早々に消えるべきだと分かっている。
けれど、戻れない。
私がこの気持ちに整理をつけ、この世界での未練が消えない限り……私はこの世界に縛られ続ける。




