二百二十五幕 陽一とヒカリ①
「おーい、あの~」
聞き覚えのある声。
普段から聞いていたその声が今は遠くから聞こえる。
「朝だよ。起きてお兄ちゃん」
身体を揺さぶれ意識が徐々にはっきりする。
すっと軽くなった瞼を開き、バッと起き上がって声の方に顔を挙げる。
するとそこには……
「え、まさかお兄ちゃん呼びで起きるとは……」
急に目を覚ましたことに驚いた様子の三ツ谷ヒカリが腹の辺りに跨っていた。
「……重いんだが」
「起きて早々失礼だよ」
「なら、退いてくれ」
案外素直に退く。
俺が寝ていた床から立ち上がりベッドに腰掛けると「おはよう、お兄ちゃん」と改めて挨拶をしてくるが……不思議とイラッとした感情が込み上げる。
「そのお兄ちゃんって止めてくれないか。妙にイラッとする」
「確かに、お兄ちゃんってなんだか変だよね。私達は別に兄妹でもなんでもないんだし。いやでも、私が香織のお姉ちゃんで、あなたがお兄ちゃんなら私達も兄妹みたいなものか。でも、私が下というのは些か納得いかないなぁ」
「別にどうでもいいだろ。てか、お前が俺の分身体みたいなもんなら本物の俺が上だろう」
「あ、そういう論争しちゃう?いいよ、私も自分が偽物だっていう自覚あるけど対抗するよ」
「いや、しないでいい。面倒くさい」
意外にもよく喋る上に妙にテンションが高い。
女になった自分を想像しても淡泊な人間性だと思っていたが、少し違ったみたいだ。
若干だが香織に似た部分を感じる。
「それでお前は……」
「ヒカリ。私は三ツ谷ヒカリ」
「それは見れば分かる。俺が聞きたいのはお前が……」
「ヒカリだよ」
「……分かった。それでヒカリ、俺を一体ここに呼びつけて何の用だ?」
見た感じここは現実世界ではない。
夢の中の世界。
あるいは俺の精神世界とでも表現すべきなのだろうか。
俺たちがいる空間は先程までいたマンションの部屋と風景は変わらない。
しかし、暑さや寒さといった温度も感じない。
窓を開ければ響く都会の喧騒もなく静寂たる時間の中に俺と彼女のみが存在する。
だから、ここは夢の中であり俺の精神世界でもあるのだろう。
「あなたが知りたいことを教えてあげようと思って」
その答えにヒカリは薄く笑って見せた。
自分が謎多き重要人物にでもなった気分で演技しているのか分からないが浅はかな考えが手に取るように分かり不愉快だ。
「自然体で接してくれ。そういうのは求めてない」
「いいじゃん、ちょっとぐらい付き合ってくれたってぇ」
「キャラに合ってない。もう少しお淑やかでいてくれ」
「それこそ私のキャラと合ってないって。少しくらいお茶目な所があっても良いと思う!第一、私の姿で過ごしている時のあなたって素の自分を見せ過ぎだと思う!表情筋が硬くて不器用な性格だとしてももう少し茶目っ気出さないと人気でないよ?」
「男の俺が茶目っ気なんて出してどうする?それに、ライブパフォーマンスとファン対応のギャップになんか良いって感じるファンが多いからこれはこれで良いんだよ!」
「全然良くないから!そんなんじゃいつか絶対に飽きられるし。いい加減何年もアイドルをやってればもうちょっと自分らしさを出して欲しいとかって求められますぅ」
「そんなのもっと後の話だろ。今はこれでいいんだよ!今は!」
気が付くとお互いに息があがっていた。
面と向かい合って引くに引けない口論をしてしまった。
「取り敢えず、この話はもうここで止めようか」
「同感だ」
「それで、何から聞きたい?」
偉そうに足を組みなおしてほれほれと言わんばかりの顔で催促する。
無論、この女から聞きたいことは色々とある。
それには順を追って聞かなければいけない。
「じゃあ、先ず……どうしてお前は俺の身体を乗っとったんだ?」
率直な問いにヒカリは「言い方悪」と怪訝そうに口にする。
「でも、あながち間違っていない。あなたの意志に沿ったと言えども……意識と身体を半ば強引に奪った事実は本当だから」
うっかり告白してしまい、再び小春の気持ちを知ったことで三津谷陽一の姿で彼女達と接することに悩ましさを感じ、ヒカリの姿であればどんだけ楽かと願ったことがきっかけであることはどうやら間違いないらしい。
「そのことは怒ってもいないし責める気もないから安心してくれ」
「大丈夫、私も悪いと思っていないから」
微塵もと言えば嘘だ。
多少の罪悪感はあるのが表情から漏れている。
「その余計な一言と茶目っ気は要らん」
「えーキャラが付くと思うけどな」
「変なキャラ付けしたくない」
ヒカリの姿で過ごす際、本来の自分とかけ離れた言動はなるべく避けるよう心掛けている。
故に俺がきゃぴッとした感じで軽い冗談を披露するヒカリを演じることはない。
そう絶対にだ。
「ま、別にいいけど。私もそういう性格じゃないし」
「なら求めるなよ」
「少し揶揄いたくなって」
自然と許した。
何故かは分からない。
ヒカリにどんなに揶揄われようが多少イラッとするもの最終的には許してしまう。
逆にこう問いたくなった。
「お前は怒っていないのか?」
「どうしてそう思うの?」
「自分が俺の都合や願望で造られた存在だって分かっているなら理不尽だって感じたりするだろうなって」
ヒカリは先程、自分が偽りの存在だと述べた。
腕輪によって造られた存在。
詰まる所、彼女は俺の深層心理によって生み出された人格といっても過言ではない。
そして、俺の都合次第では消される運命であることも分かっている。
そんな理不尽は簡単に許容できるものではないだろう。
しかし……
「そうは思ってないよ。むしろ、今はあなたに戻ってもらいたい。香織や唯菜のいる日常に三津谷陽一は必要だから」
噓偽りのない。
穏やかな笑顔で彼女はそれが最善だと語る。
「唯菜と喧嘩して居心地悪くなったとかではないんだな?」
その指摘を受けるとバツの悪そうに視線を逸らす。
「喧嘩はしてないけど……少し居心地悪くなったっていうのは微妙に当てはまります」
「一体、何を言い争ったんだよ」
「それは……話すと長くなるかもしれないけどいい?」
「付き合うよ」
そう告げるとヒカリは台所の方へと赴きお茶を用意し始める。
相当な長話になる予感を抱きながらふとテーブルに置かれていた砂時計を見つける。
俺の知っている現実での部屋と一切変わり映えのない風景ではあるが一つだけその砂時計だけは不思議と異様に映った。
時間の流れが断絶されているため時計の秒針は止まっている。
ガスや電気はどうなっているのか分からないが、どうやら蛇口を捻れば水は出る。
外の明るさや様子はまるで絵に描いたかのような偽りの風景でしかなくまるで自分が箱の中の世界に蓋をされて閉じ込められたかのような感覚に陥る。
一部を除き、全てが止まっている世界の中……砂時計だけが静かに時の流れを示していた。




