二百二十一幕 いつもの姿
気が付くと部屋は暗くなっていた。
身体を起こして外の方を眺めると空はまだ少し明るい。
まだ微かに遠くの空は橙色に染まっている。
そんな光景を眺めながらぼんやりとする意識を徐々に覚醒させ、足元のレバーをゆっくりと上げる。
ベッドから背もたれ機能に変わると上半身をソファへと預ける。
「はぁ~、もうこんな時間か」
大分、寝ていたような気がする。
寝すぎたせいか全然頭が働かない。
それに身体が重くも感じる。
「あー腹減った」
ぐぅと鳴る腹の音と同時にこの身体が朝から何も摂取していないことに気が付く。
冷蔵庫に何かないかと立ち上がって確認しようとすると……
「ん、そう言えばさっきから声が低くなっているような……」
そこでハッと気づく。
慌てて鏡のある方へと駆けるとそこに映っていたのは……元の自分の姿だった。
♢
「ただいま~」
撮影の仕事を終え、半ば疲弊した声で自宅ではなくヒカリの部屋へと戻ってきた香織は灯りのついているリビングのドアを開ける。
「ヒカリお姉ぇ~何かご飯でも作ってぇ~」と姉に甘える妹っぽく懇願するもそこにいたのは……
「……おかえり」
何食わぬ顔でソファから顔を向ける兄の姿であった。
「え……は!?」
一瞬、理解が追い付かないどころかそれを流し見するも、驚きのあまり二度見する。
「え、お兄ぃなの?」
「ほかの誰に見えるんだ」
「元に戻れたの?」
「そうみたいだな」
淡泊な返事。
このやり取りだけでそこに座っているのが正真正銘、自分の兄であると分かる。
「え、いつ戻ったの?」
「さぁな。起きたらこうなってたんだ」
「起きたらって……まぁ、戻れただけマシか。てか、言うべきことはそれだけ?」
「他に何か言ってほしいことでもあるのか?」
あまりに適当な説明と普段の素っ気ない態度にムッときた香織は荷物を床に置いてソファの前へと回る。
「あのさ、こっちは物凄く心配したわけ。お兄ぃの変身が一向に解けないし、原因も解明できないから気が気でなかった。それに居ない間、お父さんとお母さんに誤魔化すのも大変だったんだから!」
「悪かったよ。その辺りのフォロー助かった」
「ホント、もっと感謝してよね」
「後で何でもお礼してやるよ」
その約束を取り付けたことに概ね満足した香織は再度疑問を投げる。
「それで戻ったのはいいとして……ヒカリとして過ごした自分の感想は?」
「感想も何も……正直言って、あまり実感がない」
「それってヒカリの時のことをあんまり覚えていないってこと?」
「覚えてはいる。けど、どうにもその内容を鮮明に思い出せない。身体は不思議と覚えている感じがするのにな」
「……脳神経外科行った方がいいよ」
「マジトーンで心配顔すな」
「ま、病院に行った所でそれをどう説明して納得してもらうかが問題だし」
「だろ。だから明日、脳神経外科よりも詳しく診てもらえそうな人の所に行くよ」
兄の言葉から香織は容易にその人物を想像する。
「ジルさんには言ったの?」
「まだ何も言ってない」
「サプライズで会いに行くつもり?戻りましたよーって」
「驚いた反応を期待するだけ無駄だろ。あの人なら謝罪と『おかえり』の一言で終わりそうだ」
「確かに……」
ジルという人間をよく知っている兄の指摘通りの光景を香織も頭に浮かべた。
「だから、取り敢えずジル社長へ会いには行ってくるよ。色々と聞きたいことと……相談しないといけないことがあるからな」
顔はテレビの画面を向いたまま淡々と言葉を返す様の兄に香織は少し違和感を抱く。
(おかしいな。お兄ぃってこんなにも淡泊な人間だっけ)
素っ気ない態度であることはいつものこと。
兄妹で話す際も基本的に顔や身体は明後日の方向で、意識や耳、口だけは向けてくれる。
だから、いつも通りこんな感じで会話は続く。
そういつも通りだ。
いつも通りな筈……なのにどうしても香織は目の前の兄が本当に自分の知っている陽一であるのか疑ってしまう。
「ちなみになんだけど、どこから記憶が曖昧でどこがはっきりしてるの?」
確認がてらそう尋ねる。
「そうだな。ここ一か月の記憶は殆ど曖昧だな。最後に覚えているのは先月のKIFの前後だな」
近くのカレンダーを見ながらそう答える。
「その前とかは?」
「はっきり覚えている。覚えてないのはここ一か月だけだ」
「じゃあ、私と一緒にお風呂に入ったことは?」
「……は?お前と風呂!?」
一旦、間を置いた後に振り向いて驚いた反応を示す。
演技的な部分を一切感じさせないリアルな反応から香織も覚えていないのだと判断する。
しかし、意地悪くもう少し突っつく。
「本当に覚えてないの?昨日のことだよ」
「昨日……」
ヒントを与えて思い出させようとするも……
「入ったようで入ってない気が……」
「どっち」
「いや、覚えてない。つか、鮮明に思い出せん!」
「思い出さなくていいから。覚えてたら記憶消えるまで殴る」
「バイオレンスアイドルは他所でやってくれ」
「清楚系でお淑やかなクールアイドルが売りですが?」
「今の要素、一つもお前に合ってないから変えた方がいいぞ。腹黒系策略陰謀アイドルでも名乗っとけ」
兄の言葉に香織は静かな怒りを覚える。
「KIFでの記憶はあるんでしょ?なら、あの時に作った借りを覚えてるよね?」
「あ、借りってなんのこと……だ。いや、覚えてます」
香織の言う借りとは……詰まる所、KIFで陽一が香織に代演をお願いしたことである。
「あの時のお礼とかまだ全然済んでないよね?おにぃ~ちゃん」
「そら、お前。俺が正常じゃなかったんだから仕方ないだろ」
「ま、その件は今回の事も含めて後々、倍にして返してもらうから覚悟して」
「はい……」
流石の陽一もこれには素直に受け入れざるを得なかった。
KIFや今回の事といい……香織に助けは大いに役立ち、事なきを得た。
陽一にとっては本当に頭が上がらないことであった。
この一連のやり取りで目の前にいる人物が概ね兄であることの確認が取れた香織は次の本題に移る。
「これはさておき……で、何が原因だったの?」
「いや、知らん」
「知らん、じゃないよ」
「いや、マジで知らんから。俺の感覚だと寝て起きたら知らぬ間に一か月経ってたみたいなホラー現象なんだからな?」
「でも、感覚的には覚えているんでしょ?」
「まぁ、それはそうだが……」
「分かった。もう聞かない」
「……」
「記憶戻って昨日のこととか思い出してもらっても困るし」
「え、マジで入ったのか?」
「あくまでも女の子の姿で、ヒカリと一緒にだから」
「え、そうなの?それを先に言ってくれよ。てっきり俺とお前が……」
「なわけないでしょ。仮に今の姿でお兄ぃの中身がヒカリでも一緒はイヤだから」
痛烈な拒絶に「そうですか」と興味失せたように身体をテレビの方へと向き直す。
そんな兄の後ろで香織は「バカ」と軽く言い放ち、床に半ば放っていたトートバッグを再度定位置に置き直してから「詰めて」と兄の掛けるソファに座る。
唐突に戻れなくなり、唐突に戻ってきた兄を存在を肩を並べて感じた香織は心のどこかでようやくホッすることができた。
「とにかく、戻れた良かったね。お兄ぃ」
「あぁ、そうだな」
その割には言葉と表情、態度が全く釣り合っていない様子。
「まさか、ヒカリで居た方が良かったの?」
「そうじゃない」
「じゃあ、何が不服なの?」
「不服って訳じゃないが……問題はある」
「それって?」
一度、テレビから視線を外し、左手首を擦るようにして陽一は答える。
「変身できなくなった」




