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二百十五幕 ヒカリと唯菜④

「あっ!」


 腕を振り払われた香織は必死に遠ざかろうとするその背中に手を伸ばすことは出来ず、立ち止まったまま徐々に遠ざかっていく唯菜を見詰めるしかなかった。

 

 本当ならここで追うべきなのだろう。

 あんなにも精神状態が不安定な唯菜を一人にするのは気が退ける。でも、自分が追い駆けて、傍に寄り添った所で解決に繋がるとは限らない。

 

(追うべき相手は私じゃない。だけど……)


 生憎とヒカリは唯菜が逃げ出してしまったことに気付いていない。

 それ所か、ひたすらに唯菜の戻りを待ち続けて場の繋ぎに努めている。

 一生懸命に役割を果たそうとしているのも歌を聴けば分かる。


 しかし、それがこの結果を生じさせてしまったこともまた事実。

 これは傍から俯瞰していた香織にとっては過去の傷を抉るような想いであった。


 かつて、自分が兄に振り向いて欲しいと努力を重ねた結果が、兄の心を折り、自分から遠ざかって行った苦い記憶。

 今は兄の方から再び歩み寄ってくれたからどうにかなった。

 しかし、香織は未だにあの時の自分が本当はどうしたら良かったのか分かっていない。


 兄の心を察して自分も平凡さをアピールすれば良かったのか。それとも、兄の心なんて気にも留めず、自分のしたいようにすれば良かったのか。

 

 どちらにせよ、幼い頃の香織からすればそんな器用に振る舞うことは出来ない。

 ただ純粋に兄に構って欲しい、もっと目を向けてもらいたい一心でやっていたに過ぎない。

 それが反って、兄を傷つけていたことも露知らず。


 そして今、それと似たことが自分の目の前で生じている気がしてならない。

 特に唯菜の心はあまりにも偏屈さを抱えてしまい、心に余裕がない。

 目の前の現実から目を逸らしたい一心で、辛そうだった。


 それでも、香織は逃げて欲しくはなかった。

 逃げることで何も解決しない。

 むしろ、余計に問題をややこしくして、拗れるだけだと分かっている。

 

 だから、手を離さないつもりだった。

 唯菜を気持ちを理解しているからこそ、離しちゃいけない。

 自分とヒカリとしっかり向き合わなければ良くない方向にズルズルと進んでしまいそうで怖かったから。


「ああもう、なんで私が……いや、今はとにかく伝えないと」


 先ずは唯菜が戻ってこない事実を伝える必要があるとした香織は人集りに沿って、ポーチカの関係者がいるであろう場所へと駆けた。


「あのすいません……!」


 音楽機器を操作する女性。

 その人物の顔を目の当たりにした香織は一度、大きく目を見開くも……以前ジルから聞いたあの話を思い出し、今の彼女の名で話しかける。


「ポーチカの曲を製作している彩香さんですよね?」

「そう、だけど……あなたは?」


 被っていたフードを脱いで正体を明かす。


「私は三津谷香織です。すみませんが時間もないので手短に要件を伝えます」


 香織は端的に唯菜がいなくなってしまった経緯を話す。


「唯菜……分かった。教えてくれてありがとう」

「いえ、こちらこそ止めれなくて申し訳ございません」

「気にすることじゃないから大丈夫。それよりも……」


 彩香もまたどうしようかといった具合でヒカリの方を見遣る。

 唯菜が戻ってこない以上、路上ライブを続ける理由がない。

 今すぐにでも中止にして、探す方が先決かと考えていると……


「おや、唯菜ちゃんはどうしたんだい?」


 背後から主役が代わっている事実に驚く声が聞こえ、二人は同時に振り向く。


「ジルさん」

「香織ちゃん?もしかして、応援かい?感謝するよ。それより、唯菜ちゃんではなく彼女が歌っているのはどうしてなんだい?」


 その問いに事情を知る香織が先程と同じ説明を繰り返す。


「え、そのまま逃げちゃったの!?」

「はい……」

「そ、そっか……」


 ジルもまた唯菜が逃げ出したという事実を受け入れることに時間がかかった。

 ジルからしてみれば、どうしてこうなったのかも検討が付かず、到着早々に突然の緊急事態を前にして珍しく困惑を見せた。


「一先ず、路上ライブは一旦中止にしよう。それとナイル」

「はっ」

「周辺で唯菜ちゃんの捜索を。荷物がここにある以上、まだそう遠くは行っていない筈だ。見つけ次第、保護を頼む」

「承知致しました」


 命令を聞き、唯菜の走って行った方向へと素早く行動を移す。

 そうして、ジルもまたヒカリの歌が終わったタイミングを見計らって人前へと立ち、唯菜が戻って来れない理由を誤解や変な噂が流れないよう伝え、路上ライブの中止を発表する。


 最後に代わってヒカリがクリスマスライブの宣伝を行い、残った時間でチケット販売を開始する。

 ヒカリの歌を聴き、多くの人が集まったことでチケットもかなり売れた。

 流石にヒカリ一人では捌き切れず、ジルもまた横で並び立って二人体制で販売する。


かなり余っていたチケットも残り僅かになり、あれだけ集まっていた人集りも霧散していく。ヒカリに代わって一時的にカメラマンを引き継いでいた詩音とヒカリ、彩香、それからいつの間にか合流していた香織とジルの五人がその場に残る。


「あの、そろそろ事情を説明してもらえますか?」


 唯菜が戻って来れなくなり、ライブを中心にせざるを得ない本当の理由をヒカリはまだ知らない。

 

「あれ、そう言えばなんで香織がここに?」

「恰好から察するにお忍びで応援なんでしょう」

「そういうあんたも同じでしょ。てか、もうちょっと変装しなさいよ」


 アイドルとしての自覚が足りない詩音に注意を促した香織は話し辛そうにヒカリと向き合う。


「……香織?」

「ごめん。唯菜ちゃんを止められなかった」

「え、どういうこと?」


 話の要点が全く掴めない所か、香織の言葉に困惑しかない。

 全ての事情を知る香織の代わりにジルが端的に説明する。


「彼女曰く、どうやら唯菜ちゃんは逃げてしまったらしい」

「……逃げた!?なんで?」

「それは……」


 その理由をどう伝えるべきか香織は迷っていた。

 なんで唯菜が逃げてしまった。

 それは本人の口から訳を聞かない限り、断定したことは言えない。

 でも、香織はその概ねの理由を先程のやり取りから察していた。


「いや、それよりも唯菜を探さないと……」


 理解が未だ追い付かないヒカリは若干焦っていた。

 今すぐにでも自分も捜索に加わろうとするも、ジルに腕を掴まれて制される。


「待つんだ。今はナイルに捜索してもらっているから暫くはここで……」

「いくらナイルさんでも新宿の広い範囲を一人でなんて無理です!」

「落ち着いて。今は唯菜ちゃんを下手に追うよりも、ここで待っている方がいいと思う。それに……今、ヒカリと話すと反って逆効果になるかもしれない」


 自信なく香織はそう告げる。

 当然、この一言だけでヒカリが『分かった』と納得する筈もなく、より一層疑問を持つ。


「どうして、そう思うの?香織は何か知ってるんだよね?」

「……」


 一刻も早く唯菜を探しに行きたいヒカリにとってこの煮え切らない回答を待つ時間こそ焦れったさを覚えていた。香織に聞くよりも、唯菜本人から訳を聞いた方が話は早い。

 

「教えてくれないなら、私は……」

「ヒカリさん、答えは簡単です。唯菜さんはヒカリさんの歌を聴いて逃げてしまったんですよ」


 いつまでも黙る香織に代わって詩音が答える。


「どういうこと?」

「ヒカリさんの歌はとても素晴らしかったです。それはもう唯菜さんと比べれば圧倒的なまでに」

「いや、唯菜の歌も充分凄かったでしょ。第一に、これは唯菜の歌を聴く場であって私はただの場繋ぎとして歌ってただけで……」

「現に多くの人がヒカリさんの歌を聴くために足を止めて集まっていました。その光景は紛れもない事実で、唯菜さんからすればそれはヒカリさんとの実力差を知る現実とも思えます」

「……じゃあ、唯菜が逃げた理由ってもしかして私のせい……なの?」


 ヒカリは改めて香織の方を向いてそう尋ねる。

 実際は詩音の言う通りなのかもしれない。

 ヒカリが捉えるように『自分のせい』ではなかったとしても、少なからずヒカリが歌ったことによる影響は関係している。しかし……

 

「ヒカリの所為なんかじゃない。それに唯菜ちゃんも悪くはない」


 そう、誰が悪いとかではない。

 これは多分、偶然の結果かあるいは……いずれ二人に直面するであろう現実が起きてしまっただけに過ぎない。

 それもタイミングの悪い時に。


「ん、済まない。ナイルから連絡がきた」


 突然、ジルのスマホから電話通知が鳴り響く。

 その電話主と軽い応対を交わしたジルは「分かった。そこで暫く待機していてくれ」と最後に告げる。


「唯菜、見つかったんですか?」

「直ぐ近くに居たようだ。ちょうど、あの高架下辺りに」


 先ずは見つかったことにヒカリは落ち着く。

 

「こういう場合、君たちの関係を崩さないよう取り持つのが大人の役目だ。だから、君の代わりに僕が先に唯菜ちゃんから事情を聴こう」

「ですが……」

「今、君と向き合えば彼女は感情的になってしまうかもしれない。それに多分、唯菜ちゃんもどうしたらいいのか自分で整理・理解できていないだろう」

「ジル社長が先に話しを聞いて、落ち着かせると?」

「そういうことさ。その方が唯菜ちゃんは素直になれるだろうし」


 穏やかな口調に含まれる妙な説得力がヒカリの心に刺さる。

 

「当人同士の解決に繋げた方がいいのは僕も承知している。だから今は任せて欲しい」


 肩にポンと手を置いたジルは一方的に自分の主張をまかり通す。

 一理あると納得したヒカリも仕方なくそれを受け入れた。

 

「……分かりました。唯菜をお願いします」

「勿論だよ。それと今日はもうここで解散としよう。この後のレッスンはお休みにしてね」


 『いえ、一人でもやります』という気にはなれなかった。

 ヒカリもまた唯菜のことで少しばかり気を負ってしまい、それでいて分からない部分が多く混乱している。

 

 何が原因だったのか。

 唯菜に色々と聞きたい部分もあったが、ジルの言う通りにした方が今は得策だと自分でも判断し「はい」と元気なく返事をする。


「今日の件は後で連絡するよ。それと済まないが、彩香……君も来てくれると助かる」

「分かった」


 機材の片付けはもう一人の付き人に任せ、ジルと彩香は唯菜の居る方へと向かった。

 

「それでは、私もこの辺で失礼させていただきます」

「うん……詩音も色々とありがとうね」

「いえ、少しの間ですが楽しかったです。それでは……」


 そうにこやかに挨拶すると詩音もまた駅の方へと戻っていく。

 ヒカリと香織。

 残った二人はお互いに顔を見合い……「じゃ、帰ろっか」と伝えるヒカリに「うん」と香織も答え、二人住んでいるの自宅ではなくマンションに帰ることとした。

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