二百〇七幕 香織との一幕
夕食を終えた私は台所にかなり溜まっていた食器類の片付けを済ませた。その間に香織はリビングの掃除を済ませ、部屋の隅に置かれた籠に積み重ねられた洋服や制服のアイロン掛けを行っていた。
タオルで手を拭いた私は香織の横に立って「何か、手伝えることある?」と尋ねるも「ううん、ゆっくりしてて」と返される。
やはり私が兄じゃないと分かった時点から香織は私をヒカリだと思って接している。
そのことに半分感謝しつつも、普段の兄妹で見せるフランクな態度ではないことに何だか寂しさを覚える。
「あ、ヒカリの制服は今日洗う?」
「大丈夫。明日はまたマンションの方に戻るし。また暫くは戻って来れないと思うから」
「別に毎日帰ってきてもいいからね。ここはヒカリの家でもあるんだから遠慮とか要らない」
「ありがとう。でも、明日とかはまた路上ライブがあってその後にレッスンとかだからこっちに帰ってくる余裕はないんだよ」
「唯菜ちゃんの路上ライブまだやってるんだ」
「明日が最後になるかな」
今日まで五回行ってきた路上ライブも明日が最終日を迎える。
「そもそも、なんで路上ライブしてるの?」
「唯菜が歌に自信を持ちたいから実践形式で特訓……みたいな感じ。一応、チケット売りも兼ねてやっているけどね」
「なるほどね。で、ヒカリも歌っているの?」
「私はチケット売りの手伝いと一応、配信ライブも兼ねてやってるからその撮影係」
「一緒に歌えばいいじゃん」
「一人で歌わないと意味がないって唯菜が言うから手伝いに徹してる」
「ふーん、一人でねぇ……唯菜ちゃんは本当にチャレンジャーだよ」
その言葉は全く以て同意見だった。
ここ数週間、唯菜に同行して見守り続けていたけど……私には到底真似できない。
知らない人が多く行き交う場で、たった一人で歌うのは相当勇気がいる。
勇気だけではなく度胸と自信も必要だ。
グループとしてステージに立って歌うのと……たった一人だけで歌うのでは背負う緊張感も違う。
直ぐ真後ろでは多くの車が喧騒を奏でながら往来する。
だから、その音に負けない声の大きさで歌わなければ人には届かない。
そして、人に届かせる声を出すにしてもただ大きければ済む問題でもない。
しっかりと奏でる音を集中して聴き入りながら、誰かを振り向かせるくらいの声で歌わなければ都会に流れるBGM程度に処理される。
実際、唯菜の歌を聴いて足を止めた人は通行人の一割にも満たない。
時間帯的にもかなり人通りが多く、耳にしてもらえるとは言えども環境は決して向いているとは思わない。その辺りのメリット・デメリットははっきりと私の目に映った。
「結局のところ、何人くらい集まったの?」
「だいたい30人から40人くらいかな」
「私も新宿駅の南口はたまに通るから分かるけど、結構多い方だよね。凄いじゃん唯菜ちゃん」
香織の言う通り、かなり多い方ではある。
唯菜と同時刻で離れた位置で同様に路上ライブをしている人達と比べても倍はいる。
若干、歌に評価されたというよりも唯菜の整った顔立ちに魅かれて興味を抱く人がチラホラ居るのは聴衆の会話から伺える。しかし、きっかけは何であれ、途中からしっかりと歌の方を評価して新たにファンになってくれた方もいる。
だから、ちゃんと実績は積めているのだ。うん。
「それなら、クリスマスライブも凄く期待できる。当日は現地で応援してるから」
「あれSCARLETはクリスマスライブとかないの?」
「ないない。先週の時点でツアーは終わったから年末まで大きな仕事はないよ」
「へー……ってあれ?年始じゃなくて?」
「あれ唯菜ちゃんから聞いてなかった?私達、年末のカウントライブみたいのに出る予定だって話」
あーそう言えば、前に部屋で物凄く唯菜が騒いでいた気がする。
『年末年始はヒカリの部屋で応援だから!』とか何とか意気込んでいたっけ。
その時、私はあまりにも眠たくてウトウトしがら返事していたから良くは覚えてない。
「凄いね。SCARLETもテレビ進出かぁー」
「テレビのオファーとかは前々から来てたみたいだけど、麗華さんが上手く断っていたみたい。私達が高校生だから平日の撮影とかはあんまり参加できないし。かといって、休みを減らしてまで仕事はさせたくないっていう気心を回してくれるお陰でね」
「良いマネージャーさんだ」
「それは認める。麗華さんはしっかり私達を第一に考えてくれるから安心する。最初に私達をデビューさせてくれたあの人はかなりデキるマネージャーだったのかもしれないけど……正直、信頼は出来なかった。なんか何を考えているのか掴み辛い人だったし」
「え、何の話?」
「麗華さんの前のマネージャーがいたって話」
「初耳なんだけど」
恐らく唯菜でも知らないSCARLETのデビュー譚に関わる話なのだろう。
少し興味はある。
「ねぇ、立っているのもなんだし。座ったら?」
「そうだね。話も長くなりそうだし、アイロン掛け終わったら向こうのソファで話そ」
さっきからずっと横で立ながら話している光景に気を遣ってくれた香織の言葉に甘んじて私も床に座ることにしよう……と思ったけどなんだか長話になる気がしたので、二人でソファに座って落ち着くことを促す。
残り数着のアイロン掛けが終わるまでに温かいお茶を二つ用意した私はマグカップの片方を香織へと手渡し、再び二人並んでいつものソファへと腰掛けた。
それからさっきの話の続きを再開する。
「デビュー前も麗華さんがマネージャーじゃなかったの?」
「一応ね。その時はまだ事務所も新しくなったばかりで麗華さんも凄くバタバタしてたからマネージャー業務をやる暇がなかったから代わりに男の人が面倒をみてくれて、デビューまでさせてくれたの」
「どんな人だった?」
「細身で背丈の高い黒髪の人だったかな。あと、なんかいつも仮面付けてた」
「仮面?」
「そうそう狐の仮面。だから、その人の素顔は見たことなかったんだよね。名前も知らないし」
「ちなみにその人は今、事務所にいるの?」
「多分居ないかな。何でもマネージャー見習いの立場だったのにもかかわらず、麗華さんに了解なく私達を勝手にデビューさせたみたいで……終わった後でクビにされたっぽい」
それはクビにされて当然だ。
一歩間違えれば香織達SCARLETは最悪の形でデビューを迎え、失敗に終わっていたかもしれない。無論、結果として成功だったとは言えどもあまりにも独断が過ぎる。
「多分かなりデキる人だとは思うよ。あんな大きなフェスに無名の私達をコネで出すとかどんなボンボンよ」
「金持ちなの?」
「身なりは良さげだった。ずっとスーツだったし……それに凄く頭もキレる」
「ふむふむ……なんかジル社長みたい」
香織の話を頭の中で纏めると薄っすら該当人物が思い浮かんだ。
「所々当てはまる部分はあるけど、ジルさんは黒髪じゃないしあんな非常識な人ではないでしょ」
「……そうかな?」
黒髪も染色かかつらを被れば変えられる。
それに私の記憶上、ジル社長は十分非常識なことはやってのける人だと思う。
現に私の存在を生み出している時点で非常識極まりない。
「それにジルさんはあんなにもトゲトゲしくないし、一人称も俺じゃないから違うって」
雰囲気は穏やかで物腰柔らか、一人称は基本的に『僕』。
内面からして別人であることは明らか。
「曲、衣装の作製依頼からライブ会場の手配まで全部してくれたから実質、私達をプロデュースしたのはあの人。以降は正式に麗華さんがマネージャーに付いてくれて、今に至るって感じかな」
「意外な歴史」
「そう言えば、あまり公言したことはなかったから話すのはこれが初めてかも。一応、麗華さんには内緒にしておくよう言われているから唯菜ちゃんには言わないでね」
「……なんで私には言ったの?」
「身内話ってやつ」
そういうことにしておこう。
「話は脱線しちゃったけど、クリスマスライブは私も観に行くからチケットよろしくね」
「え、買ってくれないの?」
そのニュアンスだと頂戴と言っているようなもの。
「買ってもいいけど、関係者席以外じゃ観れないから」
確かに香織が一般人と混じってライブ観賞はあまりにも危険過ぎる。
ポーチカのファン内にSCARLETは多数いる。
素顔を隠して場に溶け込もうとしても身バレする確率は十分有り得る。
「この際、言っておくけど唯菜ちゃんがおかしいんであって普通、私達はちゃんと関係者席で観た方がいいに決まっているんだから!」
「いやー、唯菜が推しのアイドルは出来る限り近い所から応援するのがファンの務め……とかいつも言っているからてっきり……」
「春乃も同じこと言ってるけどちゃんと弁えさせているから。そこの所をちゃんと唯菜ちゃんに言って聞かせた方がいいと思うけど」
「無理かなー。それだけは絶対に譲る気なさそうだし」
言っても聞かない。
むしろ、物凄い反論が返ってきて何も言えなくなってしまうのが目に見えている。
「まぁ、一途で真っ直ぐな唯菜ちゃんに私も感謝してるから直接は言えないけどね」
「心配してたってことだけは伝えておくよ」
香織の心配なら多少なりとも唯菜も心に留めるだろう。
「えぇ、お願いね。それからチケットを四枚用意するのもお願い」
春乃さんと柚野さん、それから麗華さんの分だろう。
「それなら麗華さんの方からジル社長にお願いしてるんじゃないかな?」
「お願いしたくないから私を介してヒカリに頼むよう言われてるの」
「あぁ、そういうこと。分かった、私の方から明日にでも伝えておく」
「うん、よろしく。まだ残っていたらで構わないから」
「それにはご安心をまだ沢山残っているっぽいから!」
「なんで、誇らしげなの……」
自分で言っていても少し心苦しい。
クリスマスライブまでにチケットを完売させるという目標を立てているものの、ここ最近の売れ筋は芳しくなく……この勢いだと全て完売には至らない。
それでも既に千枚は売れているらしく、ポーチカの売上史上過去最高を更新している。
ジル社長は概ねそれでも満足とのことで、現実的な数字を見ても当初の目標通りになる見込みだと前に話していた。
「ポーチカはクリスマスライブが大勝負だと思っている感じ?」
「ジル社長はステップアップって言ってたけど、唯菜はそうだと思っているのかな」
「ヒカリは?」
「私も多分、ここが重要だと思ってる。初めての規模が大きい会場でお客さんも多く入るならポーチカを大々的にアピールするチャンスだし」
「それは同意。この時期はクリスマスライブを名目に他の有名なアーティストとかが同じ時期に色んなライブ会場を使うから私達がいつも使っているような規模感でのライブって難しいの。麗華さんも予定はしてたけど抑えられなかったって嘆いていたし」
SCARLETのファンが収容できるとなると日比谷公会堂のような規模感では少し物足りないのだろう。
「クリスマスライブってファンにとっては結構特別だし、出来るなら全員に参加して欲しい。だから、なるべく大きな会場を使ってやる必要がある。私達の場合、先週末にツアー公演の最後があったから早めのクリスマスって感じでやってたけどね」
先週末となると12月の二週目。
クリスマスまでは二週間近くある。
「クリスマス辺りで活動できるアイドルグループは限られるし、やるとしたら小規模のライブハウスで人数を限定したものになる。それだと不公平な感じで中途半端なものになるからかもしれないから……やるならちゃんとした時にやりたい」
それは最善策だと思う。
やるなら自分達や来てくれたファンやお客さん達も満足してもらう形で行うことの方がベスト。
「クリスマスでの世間的なアイドルの活動状況はだいたいこんな感じ。日比谷公会堂くらいの大きさでライブやってるアイドルグループってかなりレアだし羨ましい。アイドル好きな人からすれば今やポーチカは注目の的、そこそこ大きなライブ会場でクリスマスライブするって言うなら興味が湧いて参加する人も多いだろうしね。ホント、よく使えたね」
「それはジル社長の手腕だろね」
「多分、ジルさんもこの状況を見越した上で開催を決定したんだろうね。ポーチカを次のステージに押し上げるために」
「だから、唯菜もあんなに張り切って……」
「そう。ここを乗り越えればポーチカはSCARLETに近づける。時期的にもタイミング的にもポーチカを後押しする要素がかなり多い。私達がデビューした時の状況とは正反対なくらいにね」
「根に持ってる?」
「少しだけね。あの人、なんでか知らないけど私達を潰そうとしてステージに立たせたみたいだから恨み半分感謝半分って感じ」
ホント、SCARLETをデビューさせた人ってどんな人なんだろう。
一度でもいいからその狐の仮面を付けた元マネージャーさんに会ってみたいものだけど……ロクな人じゃないのは話から分かる。もしも、業界にまだ残っているならきっと合わない方が吉だ。
「ま、あくまでも今の話は長年培った経験から故の憶測に過ぎないから信じる信じないはヒカリ次第で」
「あそこまでペラペラと喋っておいて!?」
でも、ある程度は事実なのだろう。
経験者は語ると言う。
香織が自信を持って明かしたということは概ね正しいのだろう。
今のは香織のちょっとした悪癖だ。
「ふふっ、冗談。でも、成功して欲しいと私も願っているから頑張ってね」
「勿論」
「じゃあ、今からポーチカの振り付け一緒に練習しておく?私も何だかんだ予習しておきたいし」
「え、嫌だよ。香織に教えたら完コピされる以上になるし」
その上、ダメ出しまでされて不思議と厳しいレッスンへと発展する。
「いいからやろう。ほら、立った立った」
そう振り回される形で私達は立ち上がるとお互いに制服のまま、何故かダンスの練習をリビングで始めるのであった。




