二百〇五幕 帰宅
暫く時は流れて……12月中旬。
レッスンがない学校帰り、普段使っているマンションではなく実家のある自宅へと帰る必要があった私は薄っすらとした記憶を頼りに家へと辿り着いた。
果たして本当にここが自分の自宅であるのか。
疑わしい気持ちに駆られながらも家の鍵穴にゆっくりと鍵を差し込み、カチャッと右に回す。
「うん。合ってるよね」
ふぅ~と息を吐いた私はゆっくりとドアを引く。
「た、ただいま~」
分厚い玄関扉を開け、自信なく小さなで発する。
ここは私の家だ。
堂々と出入りすればいい……のだけど、妙に縮こまってしまい、入りづらい。
それに今の姿を香織以外の家の人に見られたら赤の他人も同然。
だから『ただいま』という言葉より『お邪魔します』と口にする方が正しかったかもしれない。
けれども、私の声に反応する人は中にいなさそう。
玄関はおろか部屋に明かりは一切付いておらず、静かな真っ暗闇が私を出迎える。
「いないのかな?」
玄関に置いてある靴の数もやけに少ない。
まだ誰も帰宅していないと判断した私は緊張を解いて玄関に入ろうとする……
「早く入ってよ」
「……!!」
背後からの声に驚いて慌てて振り向くとそこには学校帰りの香織がいた。
「お、おかえり」
「ただいま……なに?」
「いや、なんでも……」
「いいから早く入ってってば」
痺れを切らした香織は無理矢理背中を押して玄関へと入らせる。
その横を通って何事もなかったように靴を脱ぐ。
「お母さん達ならいないから安心して。まだ向こうでの出張が長引くみたいだからクリスマスまでは帰れないって」
「う、うん……」
そう促される形で私も中に入る。
明るくなったリビングは私が思っていた以上に広く……どこか懐かしくもあった。
すると次第に私がこの姿で少しだけここで暮らしていた記憶が蘇る。
「そう言えば、いつも……」
その記憶を頼りに自然体を装ってテレビの前のソファに座る。
背もたれに体重を掛けながら軽くスマホに触れ、唯菜から届いていたメッセージを返す。
そして、手洗いうがいを済ませた香織も制服着のまま隣に並んで座り、スマホ画面を覗き込む形で訊いてくる。
「……ねぇ、なんで帰ってきたの?」
「帰ってきちゃいけなかった?」
質問を質問で返すことに香織は大きく息を吐いてうんざりしてみせる。
都合が悪い事実を隠す場合、私は大抵こんな風にして答えているのだと無意識に悟った。
けれど、私が香織に兄ではないバレないように言動から雰囲気を装うことには上手くいってる……と思いたい。
「別にそうは言ってない。でも、ここ一か月の間一向に帰ってくる気配がしなかった上に音沙汰もなく急に家に帰ってきたら変に映るでしょ。特に玄関で中の様子を窺いながら入ろうとする人が居れば尚更ね」
「あははは……」
「で、お兄ぃはなんで帰ってきたの?」
そう言われても香織が納得するような回答は持ち合わせていない。
しかし、ここは敢えて男の私だったら答えそうな言葉を選ぶ。
「気分」
たった一言。
これで納得してもらえるとは全く思っていないけど……
「……あっそ。気分でいきなり帰ってこられてもお兄ぃの夕食とか何も用意していないから」
意外にも通った。
なるほど、男の私が何となく淡泊な人間であると理解した。
「なら、自分で作るよ。食材あるでしょ?」
「え、自分で!?」
「……何か変?」
意外にも驚く反応が反ってきて私も驚いた。
「変でしょ。あれ程、自分で料理するのめんどくさがっていつも弁当ばっかり食べてた人が……はっ!まさか、唯菜ちゃんとの同棲を介して一緒に料理を作ることを覚えたの?」
「まぁ、それもある」
十中八区、香織の予想は当たっている。
本人は冗談半分で言っていたようだが、唯菜との同棲……もといシェアハウスで料理・洗濯・掃除の当番を日替わりで分担していたため自ずと料理することも覚えた。というより、覚えさせられた。
「ふぅーん、意外にも楽しんでいるんだ。通りで帰ってこない訳ね」
無論、理由はそうではないのだがそういうことにしておく。
「それで唯菜ちゃんとの同棲を介して色々と進展した?」
「色々って?」
「ほら、好きな気持ちとか。告白した相手に正体を偽って接することへのドキドキとか」
「ないって」
「本当に?」
「今までと何も変わらない。この姿の時はいつも変わらず仲良く過ごしているよ」
決して噓は吐いていない。
無論、私に告白云々の話を尋ねられても告白した際の記憶はないから唯菜の前で変に動揺とかはない。
香織も何だかんだ疑いを掛けてくるも「なるほどねー」とあっさり受け入れた。
「まぁ、一緒に寝てるくらいだもんね。こんな感じで」
そう言って香織は私と唯菜が同じソファベッドの上で顔を近づけ合いながら仲睦まじそうに眠る姿を映し出す写真を見せる。
その撮影者と情報提供者が同一人物であることは直ぐに分かった。
「ルーチェめ……」
「ぷぷぷ~お可愛いことで」
「別にいいよ。事実だし」
香織に見られたからといって恥ずかしいとは思わない。
中身が私でなければ激しく動揺して見せるのかもしれない。
けれど、今はその反応があまり良くなかった。
「やっぱり。お兄ぃはお兄ぃじゃないんだね」
急激な態度の変化に私は更にドキッと心臓を鷲掴みにされる。
「いやいや、何を言って……」
「別に隠そうとしなくていいよ。お兄ぃ…じゃなかった、ヒカリの事情はルーチェから聞いてるし」
私のことを『ヒカリ』と呼ぶ様子からして隠し通せそうにはない。
香織には出来れば中身が兄のままだと思わせたかったけど、やはりそう上手くはいかない。
鋭い洞察力を持つ香織には遠からずバレるとは分かっていた。
例え、ジル社長に事実を隠すよう言われても……。
「ルーチェが話したの?」
「取引したらあっさりと」
今の写真の件といい、私の知らぬ所で二人が繋がっていてもおかしくはない。
香織もルーチェも性格面では意外にも気が合う。この間、一緒にゲームした時も二人は打ち解け合った状態でお互いに話していたのも踏まえれば納得はできる。
『取引』というワードは結構引っ掛かるけど……知られているのであればもう演技する必要もない。
「……もしかして、今まで試してた?」
「半信半疑だったからね。それに余所余所しい態度も結構前からバレバレ。何年兄妹やってきてると思ってんの」
「うっ……」
流石に血縁者を欺くには無理があった。
特に勘が鋭く、観察力の長けた妹を欺くのは至難の業。
どの道、バレることは確定していた訳だ。
「大丈夫。中身が違うことで責めようとかじゃないし。ただ確認が取りたかっただけ」
「確認?」
「本当に私の知ってるお兄ちゃんが消えたのかどうか」
消えた。
消えてない。
その二択で答えるとすれば私は後者を選びたい。
ダリルさんの話通りであれば今の私は記憶を限定的に制限されヒカリだと思い込んでいる陽一。
だから、消えてない。
「安心して。ダリルさんが言うには私が陽一というもう一人の自分を知らないだけだから」
「そうなの?」
「うん」
「でも、お兄ぃがヒカリで過ごした時の記憶はあるんでしょ」
「うん」
「なら、記憶はあるでしょ。少なからず私が知ってる限り、ヒカリの姿でもお兄ぃはお兄ぃのままだった。上手い具合に自分を残しつつも三ツ谷ヒカリという少女を演じて周囲と関わっていたから……お兄ぃの気持ちや想いが含まれる記憶は絶対にあるでしょ」
「……」
答えない私の顔を香織は横から伺う。
「ごめん。本当に何も覚えていないんだ……ううん。覚えていないというよりちぐはぐな感じ。記憶は確かにあるんだろうけど、モヤがかかって何も思い出せない。なのに、私は不思議と違和感がない。覚えていないことを当然だと思ってもいる」
何度も言うけど、まるで機械のよう。
記憶がないことに恐怖と不安はない。
それどころか、こうして話していても何も感じない。
平然としたままおかしなことを言えてしまう。
「違う。私はそういうことを聞きたいんじゃないの。ヒカリの中にある記憶はお兄ぃと共通してる部分があるから……いや、私もどう伝えれていいのかこんがらがってきた」
何となく香織が聞きたいことが分かった。
「多分、今の横にいる私は香織の知ってるお兄ちゃんじゃない。香織からすれば赤の他人も同然。だから……私は陽一じゃなくてヒカリなの」
求めている回答なのか分からない。
でも、香織は「分かった」と納得してくれた。
「これ以上は聞かないであげる。どうせ、聞いても分からないんだろうし」
「そうしてもらえると助かる……」
深く追及された所で私が私を分かっていない以上、何も答えてはあげられない。
香織もまた納得はしてくれているけど、表情は微妙に暗く映る。
それが今は妙にもどかしく心を締め付けてきた。
「ごめん。いずれ元には戻るだろうから。それまでは私で我慢してね」
我慢という言葉が正しいのかは分からない。
話した感じ、香織は多分だけど本当のお兄ちゃんに戻ってもらいたいんだと思う。
実の兄である以上に三津谷陽一は大切な家族。
今後、その兄ともう二度と会えないかもしれない。
そんな不安が恐らくずっと付き纏っていたのだろう。
ここ最近、部屋に来なかったのも唯菜がいることに気を遣っていたとかではなく……私を避けていたのだろう。
今こうしてルーチェから聞いた事実が真実だと知り、複雑な心境であるに違いない。
かと思いきや……
「うーん。このまま姉として優しく接してくれるなら戻らなくてもいいかな。実際、ヒカリが明里お姉ちゃんとして接してくれた時はお兄ぃよりも遥かに居心地良かったし、姉妹って感じが気持ち良かったから」
あれれ?
あんまり気にしていないっぽい?
「あーそっか。入れ替わりのことは知らないのね。なら、何でもないから安心して」
「う、うん」
「それより、夕食何か作ってよ。お腹空いた~」
「え、弁当は?」
「惣菜を二人で分けて、ご飯を食べれば大丈夫。だから手料理なんか作って」
「唯菜から教えてもらったやつでいいなら」
「じゃ、おねが~い」
上機嫌になった香織は甘える口調で伝える。
外では凛として振る舞い、妹として甘える姿なんて見せない香織に私も姉として受け入れていた。
私は三ツ谷ヒカリであると同時に三津谷明里という本名に近い偽名もある。
もしも、陽一が男ではなく女の子として生まれていたなら。
私が香織のお姉ちゃんとして仲睦まじく接し、お姉ちゃんらしく妹を甘やかしていたのだろうか。
多分、きっとそうなのだろう。
不思議とそんな気がした。
「あ、今日はここに泊まって行くんだよね?」
「夜も遅いし。そうするつもりかな。嫌とか言われたら困るけど」
「ここ私達の家なんだから嫌も何もないでしょ」
「だよね。あはは……」
「やれやれ、中身が変わって唯菜ちゃんと同棲し始めたから結構まともになったかと期待してたんだけど……ポンコツお姉ちゃんに変わりなさそうだね」
言葉の釘が心にグサッと刺さるも唯菜に散々ポンコツと言われ続けたので傷は浅い。
「ま、まぁ……ここ最近はちゃんとこまめに部屋も掃除するようになったし。自炊も覚えてきたから生活力は上がってますとも」
「本当に?全部唯菜ちゃんに任せているとかじゃなくて?」
「勿論。当番制にして分担してるから」
「ふーん。本当かな?」
「そういう香織こそ……なんか洗濯物とか溜め込んでるんじゃない?」
リビングの隅に置かれている洗濯物の籠が山の様に積まれている。
三日分は溜めているのだろう。
「ここ最近、忙しくて手につかなかっただけだから。お母さん達もまだ出張で帰ってこないし。誰かさんも帰って来ないからあそこにちょっと置いてただけ」
少しだけ慌てるように答える。
差し詰め、洗濯物を見られても困るような相手がいないから溜めて一気にやる考えなのだろう。
そういう性格面はやはり姉妹似るものなのかな?
「取り敢えず、私は洗濯物を片付けるからお兄ぃ……じゃなかった、ヒカリは夕食を作っておいて!あと、出来れば部屋の掃除もやっておいて欲しいな~。ね、お姉ちゃん」
何とも都合の良い呼び方だと思いつつも可愛い妹の頼みを断れないのも姉としての性なのだろうか。
そんな気持ちに流されたまま「仕方ないな~」の一言で私は快く妹の我儘を受諾してしまった。




