百九十三幕 理解と思惑
目の前にいる三ツ谷ヒカリが腕輪によって生み出された新たな人格だと仮定した所で、依然この問題の解決への糸口は見つからない。それどころか、事態はより悪化している。
「これ、このまま放置してたら明らかに不味いでしょ。今すぐに腕輪を外すでもしないとヤバイんじゃないの?」
ルーチェに言われるまでもなく早急な対応が必要とされるべきであり、ジルもある程度用意していた。しかし、新たな人格が芽生えてしまった以上は……それを行使するべきか悩む。
「一応、彼を元に戻すための手が決してない訳ではないんだ。しかし……」
「いいからその前置き、出来ない理由を教えて」
目の前でひたすらキョトンとした顔で聞いているヒカリを気遣っていたジルは仕方なくルーチェの要望に応じる。
「じゃあ先ず、結論から言えば彼を元の姿に戻すことは可能だ。腕輪の機能を強制的に全て解除する設定に変更すれば直ぐにでも元に戻れる」
「それが出来ない理由は?」
せっかちな妹の要望に若干のペースを崩されるも、ジルは「二つある」と自身の見解を語る。
「今の状態で強制解除に至ると眠っている彼の人格が正常に呼び起こせなくなり、何かしら危険性を伴った問題が生じる可能性が十分に高いことが挙がる」
先程、ジルは陽一の意識が腕輪のシステムによって掌握されている推察した。
意識がシステムに管理されているのであれば、強制的にシステムを解除すれば掌握は解除される。しかし、そこに一切の危険性が伴わないという保障もない。
「記憶や意識障害といった後遺症が残ることも考慮すれば今すぐにするべきではない。まだ、彼の意識が顕著に現れていたのであれば強制解除に踏んでも問題はなかった」
「でも、兄貴はコイツの異変が生じた初期にそれをしなかったんでしょ」
鋭い指摘にジルは「その通りさ」と認める。
そして、それが二つ目の理由でもあった。
「この強制解除というのはシステムを全て停止させるのではないんだ。これはある意味で『初期化』に等しい」
「つまり、リセットってこと?」
「腕輪が有する彼の情報は全て消去され、機能を停止する。結果的に目の前にいる彼女の人格諸共消失し、装着者は元の状態へと帰す」
その仕組みは理解できた。
けれども、それが果たして二つ目の回答に繋がっているのかルーチェの中では怪しく映った。
「なるほどね。それで、その強制解除を行うと何か更なる不都合があるの?」
その問いにジルは私的感情を交えて話す。
「彼はもう二度と三ツ谷ヒカリには変身出来なくなり……事実上、ポーチカからの引退となる」
それが実行出来ない二つ目の理由であった。
プロデューサーでありマネージャーを務めるジルからすればそれは最も避けたい判断であり、決して私的感情を交えてはいけない究極の選択肢であった。
「今の現状を踏まえればその選択が如何に難しいか……ルーチェも分かる筈だ」
この話を目の前で聞いているのはヒカリであって陽一ではない。
だからこそ、敢えて二人に伝えた。
「流石に同情するわ。その選択以外ないのなら尚更ね」
「あ、あの!」
緊張感を含んだ声で反応したヒカリにジルは視線を向ける。
「さっきから一体何の話をしているんですか?まるで私が創られた存在であるみたいに……」
激しい動揺。
呼吸は浅くなり額に若干の汗が滲んでいる。
二人の会話を黙って聞きに徹していたヒカリにとって目の前で交わされる会話は自分の存在定義が異質であることを直に伝えられていることに等しく、到底容易に受け入れられる内容ではない。
故に理解が追い付かなくなり、焦る様子になるのも当然。
腕輪が生み出した人格と言えども人間味を帯びている。
その事実にジルはやり辛さを感じた。
「すまない。こちらで勝手に話を進めてしまっていた」
「いえ、それより今の話は……」
「全て、事実さ。君は創られた存在であって三ツ谷ヒカリという少女は本来、この世界には存在しない」
「何を言っているんですか、現に私は……」
「もう一度、よく考え直して欲しい。君の過去、両親や妹との関わり、何より君がアイドルを始めた理由をしっかりと思い出してくれ」
分からない。
ヒカリの中でジルの言葉はあまりに痛烈で酷く困惑を招くものであった。
自分自身を見詰め直した所で答えは見つからない。
空欄のまま不思議とその穴埋めに関する答えを埋めなくても問題ないと意識が誘導され、分からないことを分からないままでも構わないと思えた。
なのに、自分が創られた存在であることに違和感を抱く。
この大きな齟齬にヒカリは声を震わせて答える。
「ごめんなさい。私は何も……分かりません」
ジルとルーチェの知っている三ツ谷ヒカリであれば決して発しないであろう恐怖を帯びた言葉。
感覚的に全身を襲う未知の恐怖が少女らしき一面を垣間見せる。
このままでは自己の矛盾に陥り、自己破綻を招く恐れがあると判断したジルはこれ以上の追及を止めた。
「いや、すまない。君を故意的に追い詰めたことは謝罪する」
頭を下げ不安がらせたことを詫びる。
「でも、僕は嘘を言うつもりない。だから、今から話すことを落ち着いてよく聞いて欲しい」
精神的に大きなショックを経験させてから本題へと舵を切る。
人としてはあまりにも冷酷な話術であると自負しながらもジルは様子を窺いながら話した。
♢
「つまり、私の本来の姿は三津谷陽一という男の子であって、この姿や私はこの腕輪が生み出した創りものだということですか?」
ジルの説明をヒカリは端的に纏めて解釈を示す。
「その通りだよ」
先程に比べると困惑した様子はなく落ち着いていた。
自分が何者であるかという疑問を深くは抱いてはいないものの、客観的な事実をしっかり聞き入れていた。
「まだ、納得はしてません。でも、私が男だった……というのもなんだか話しを聞いていれば不思議と段々受け入れられる気がして……複雑です」
複雑……その単語が聞けたことにジルは安堵した。
男だった事実を決して受け入れず、断固として否定されるようであればヒカリの精神に異常をきたしかねないという懸念もあった。
むしろ、こうして頭を柔らかくして徐々にそういう自分がいてもおかしくないと思えるである方が観測者としては気が楽で、好都合である。
「繰り返しになるが、君を元の状態に戻すに暫し検討が必要だと思う。それぞ、君が自分自身に対して直接的な疑問を持たない限りは実行に移せない」
「もしも、ジル社長が強制解除なることを実行すれば私は消えてしまうんですよね?」
「そこは希望的な観測を持ってもらうよう……元に戻ると言っておくよ。あくまでも、三ツ谷ヒカリという人格は消えてしまうかもしれないが、ここで交わした内容や君が経験した記憶は全て本来の君自身に還元されるとも言える」
ペラペラと自身の見解を述べる兄に対して(都合良過ぎでしょ)とルーチェは内心でツッコミを入れる。更に(アイツ、この時の事を覚えてたら身悶えしそうなくらい恥ずかしがるんじゃない?)と勝手に想像してはこの時の記憶が残ってて欲しいと意地悪く願った。
「とにかく、暫くはどうかそのままで居て欲しい。三ツ谷ヒカリという自分として普段通り生活してもらいたい」
「わかりました……」
「それとこれはお願いでもあるのだけど……香織ちゃんの前ではどうか兄として振る舞って欲しい」
「何でですか?」
「君が本当の兄でないと知れば彼女は酷く心配するからさ。SCARLETも年末に向けて今がかなり忙しい時期だ。余計な心配を抱えながらのお仕事は香織ちゃんにも良くないからね」
「そう、ですね。そこは承知しました」
「助かるよ。それとルーチェ、君も余計な事を漏らさないでくれよ」
「分かったわよ。その代わりもう幸香さんと結託して私の教育指導という名の監禁生活を強いるのは止めてよね」
「色々と語弊を招く言い方だけど了解した」
あっさりとそれに応じた兄に対して横目で一瞥した後に、ルーチェはふと時計で時刻を確認する。
「あれ、もうこんな時間なの?あと一時間でレッスン始まるじゃん。一回戻って準備しないといけないから兄貴、マスターキー貸して」
マンションを管理しているオーナーのジルであれば必ず持っているマスターキーをもらおうことも兼ねてここにやってきたことを思い出したルーチェは部屋の鍵を受け取る。
「ほら、あんたも何も用意してないんだから戻るんでしょ」
「う、うん……」
ヒカリを半ば強引に連れ出す形でルーチェは執務室を後にした。
彼女達を見送ったジルは天井を仰ぐ形で肩の力を抜く。
「ルーチェには完全に見透かされたかな……」
今し方、ジルはヒカリに対して話した内容の全て……それは勿論、噓でも本当でもないただの主観的な憶測に過ぎない。
結局の所、陽一を元に戻す為に一番手っ取り早い方法は腕輪の強制解除を行うことに限る。
自分が立てた懸念も本当に起こり得る可能性はある。
だが、強制解除が意識や記憶障害を起こす程の可能性は極めて低い。
入れ替わりの現象以降、安全面を考慮した改善が開発者の父の下で為された。
故に今回のヒカリという新たな人格誕生に関する問題も突き詰めればいずれ解決策は見つかる。
強制解除を行う程のことではない。
そうジルは自分に言い聞かせ、利己的なまでに言葉巧みにヒカリを利用した。
その思惑を恐らくルーチェには見抜かれていた。
けれども、口煩く言及してこなかったのはルーチェもまた理解していたからである。
「今のポーチカに彼女は必要だ。仮に中身が彼ではなくともその存在が大きな支柱であることに変わりはいない」
現実的な状況を顧みてもヒカリを欠く選択だけは絶対に取れない。
グループの大黒柱でもあり、今や中心と成りつつある彼女を自ら手放す行為はあまりにも愚策で、これまで積み上げてきた努力を全て投げ捨てることに等しい。
「ははっ、僕もいつの間にか彼がなくてはならない存在になっているとはね……」
期待以上の働きを続ける三津谷陽一という存在を頼もしく思う反面で、唯菜同様に自分の傍になくてはならないになっている。
しかし、唯菜がヒカリに向ける想いや感情とは違って、ジルが背負わせる期待はビジネスの色が濃い。利益を考えるあまり倫理観が少しばかり損なっていることは自分でも分かっている。
本当ならば陽一に対して心苦しさを感じ、申し訳なさを抱く筈なのに……不思議とその感情が湧いてこない。
「機械染みているのは一体、どっちなんだろうね……」
まるで利益を追求する機械の様に成りつつある自分を省みたジルは自嘲気味に笑った。