百九十二幕 違和感の正体
カタカタとキーボードを叩く音と建物に面した大通りから響く車の喧騒が響く執務室にもう一つ、ドンと勢いよくドアを開く音が加わる。
一度、手を動かすことを止めたジルは顔を挙げて二人の来訪者へ視線を移す。
「急に何の用だい、ルーチェ」
幸香の家に自分を縛りつけたことの文句でも言いに来た……という感じでもない。
文句を言うだけならわざわざこうして二人で出向く必要はない。
だとすると、他の用件があってのこと……
「コイツ、頭おかしくなってるわよ」
他人に対して失礼極まりない妹の言葉にジルは幸香の家で何を学んでいたのかと溜息を交える。
「ルーチェにだけは言われたくないと思うよ」
「同意」
「いや、事実でしょうが。自分が何者か分からなくなっている時点で頭おかしくなっているようなもんよ」
普段は自分から連絡すらしてこないルーチェが急な用事があると言って、いきなりヒカリと共にやってきた理由をようやくジルは理解した。
「それで、どうおかしくなったんだい?僕には普段通りの彼女にしか映らないけど」
「言ったでしょ。頭がおかしいって、外見の問題じゃない」
あまりに口の悪い言い方ではあるが、ルーチェの言わんとしている内容を察する。
「コイツ、自分の事を女の子だと思っているわ」
「それは……俯瞰視すれば当たり前じゃないかい?」
「だから、外見面では言ってない。私は内面が変化していることを言ってるの」
「……!詰まる所、彼の意識がないと?」
「残っているかどうかは分からないけど、本当の自分が三津谷陽一であることが分からなくなっている程には……重症よ」
「確かにそれは重症だ」
二人のやり取りを聞いているヒカリは自分が『頭おかしい人間』だと認定されていることにかなりショックを受けている。
「私って、変な子なの……ルーチェより?」
だが、事実。
ジルの目には明らかにおかしくなっていることは間違いなかった。
(まさか、彼は……)
ルーチェの言う重症がどれくらいの度合いかを自分でも確かめるべく、ジルはヒカリを応接用のソファへと座るよう促し、軽いカウンセリングを自ら行うとした。
「それじゃあ、先ず始めに……君の名前は?」
自分がおかしいことに自覚がないのか、戸惑いながらヒカリは答える。
「三ツ谷ヒカリです」
アウト。
自信を持ってそう名乗った時点でルーチェの主張は正しい。
(……取り敢えず、質問を続けよう)
「君の本名を教えてもらえるかな?」
「本名は……三津谷明里です」
芸名よりも自分の本名の方が自信なさげであることにジルは違和感を抱く。
「ほらおかしいでしょ」
ジルの横にちょこんと座るルーチェも同様に再確認する。
「現状を把握したいから続けて色々と質問させてもらうよ」
このカウンセリングが行われる理由が検討も付かない上に、ルーチェから一方的に『頭がおかしい』と指摘され続けることに酷く困惑している時点でおかしくなっているのは明らか。
そう判断したジルはヒカリの内面を出来るだけ刺激させないように横でしつこく連呼する妹の口を半ば強引に塞ぎながら確認を取る。
「家族は何人だい?」
「父と母に、妹が一人います」
「僕と初めて会った場所は?」
「えっと…………覚えてないです。すいません」
「SCARLETのライブを初めて観たのはいつだい?」
「……デビューライブの横浜赤レンガ倉庫でのイベントで観たのが初めてだと思います」
「夏休み初めに行った遠征先は?」
「沖縄です」
「君の妹はアイドルかい?」
「はい。SCARLETっていうグループに所属しています」
「香織ちゃんとの関係は?」
「一応、良好だと思います」
「以前はどうだったんだい?」
「以前もそこまで……悪くはなかったと思います」
基本的な質問事項の回答を聞きながらジルは手探りでいくつか質問を投げていく。
それに対して時折、ヒカリは言葉が詰まる様子を見せつつも回答を重ねていく。
特に目立った様子の変化はなく、答えられるものは淡々と回答し、答えられないものは深く悩まず『分からない』と回答する。
(自分を女だと思っているどころか、男だった時の事を覚えてないみたいに答えるわね。それに、なんか人間味があるようでないのが不気味に映る……)
大人しく黙って質問のやり取りを聞きに徹したルーチェも妙な違和感を覚える。
「君と唯菜ちゃんの関係は?」
「……同じグループのメンバーで、友達です」
「春ちゃんはどうかな?」
「春も友達です」
「じゃあ、最後に一つ。君は唯菜ちゃんと春ちゃん、どっちが好きなんだい?」
笑顔でそう尋ねる兄に対して「なに、その質問……趣味悪」とドン引きしつつも、少し気になった様子でヒカリがどう答えるのかを横目で伺う。
「それは……少し答え辛い質問ですね」
「ふむ。では、こうしよう……君は恋愛対象として見るならどっちがいいかな?」
「いや、質問の意図悪化してるでしょ。そう簡単に答える訳が……」
そうルーチェが苦言を呈していると……
「唯菜です」
と、ヒカリはあさっり答えた。
「私は唯菜と春のことは二人とも好ましく思っていますし、仲の良い友人だと思っています。でも、二人に対する違う好意があることもまた事実です」
正直に胸の内を明かすヒカリにルーチェは半開きにした口を閉じ、兄の反応を伺う。
「分かった。ありがとう、正直に答えてくれて」
「いえ、ちなみになんですがこれって何の確認ですか?」
「君が果たして本当に僕達の知る三津谷陽一君であるかどうかの確認さ」
ジルの発した名前の人物に対してヒカリは『誰です?』と小首を傾げる。
やはり知らない。知らないというよりも覚えていないのだろう。
今の彼……いや、彼女には三津谷陽一としての自分の記憶が完全に蓋をされて封じられている状態に近い。完全な記憶喪失や記憶消去といった類ではなく、あくまでも部分的な欠如のみ。
「ねぇ、さっきの質問意図はなんだった訳?」
小声で尋ねるルーチェにジルは簡単に答える。
「僕の予想だと彼の意識や認識は……恐らく腕輪が彼の意識や認識を掌握している可能性が高い」
「どういうこと?」
「あのカウンセリングは自分を見つめ直すことを目的として聞いたんだ。彼女に今の自分をどれくらい知ってもらうか直に確認するために」
「もったいぶらずにちゃんと説明して」と文句を言うルーチェの為に説明を続ける。
「今し方、彼女がいくつか質問に答えられないことがあった。おかしいと思わないかい?自分のことを知らないことがあることに」
「確かにそうね」
「そうなれば思い出せないことを不思議に感じ、自分に対して疑問を抱く筈だ。自分とは一体何者なのかと……」
その意味合いも兼ねてジルはカウンセリングを行い、ヒカリの反応を注視して伺った。
「普通の人間なら自分を知らないことに困惑して動揺する。今の様に何の疑問も抱かずに流すことは絶対に有り得ない」
「……!」
ルーチェはようやく違和感の正体に気付いた。
目の前にいるヒカリが妙に気味悪く感じていた理由をジルの一言で察した。
「じゃあ、目の前にいるコイツは……」
「恐らく彼女は腕輪が彼の変身時に得た情報を基に生み出した新たな人格……」
三津谷陽一でも、三津谷明里でもない……第三の存在。
「彼女は三ツ谷ヒカリ、本人さ」