百八十七幕 勉強会/香織の疑念
放課後、唯菜の提案で二人は勉強会を開くことにした。
場所は勿論、ヒカリが借りているマンションの一室。
その狭い通路の前を歩くヒカリの後ろで唯菜は若干ソワソワしながら付いて行く。
「……なんか落ち着きなくない?」
「だって、久しぶり来たからなんか楽しみで」
唯菜がこうしてヒカリの部屋に訪れたのは約三ヶ月振り。
二学期が始まってからはあまり訪れる機会がなかった。
「ヒカリってば最近は香織ちゃんの家で過ごすこととか多かったからこうして家にあげてもらえるのはなんか時間が空いたように感じる」
「そう言われれば、そうだね」
扉の前で部屋の鍵を開けながらそう肯定する。
「じゃあ、久しぶりに私の部屋へようこそ」
とそう招かれた唯菜は「お邪魔しまーす」と玄関に入る。
すると、中は思ったよりも埃っぽくはなく、丁寧な掃除が定期的に施されているのが分かる。
あれ、意外にもしっかり掃除している?
いや、待て待て。ヒカリの事だから簡単な掃除はマメにしつつ、面倒なことは溜めてから一辺にやるようにしているに違いない。特にリビングなんかも以前同様に散らかって……いない!
廊下を抜けてリビングへと出る。
そこに広がっていたのは物が床に雑然と置かれ、片付け途中の衣服が椅子のソファにかかっていて、ベッドのシーツは大きく乱れたまま放置されているヒカリの部屋を象徴する光景……などではなく、整理整頓がしっかりと施された綺麗な部屋の光景だった。
部屋の中を隅々まで実際に触れて確認し、見せない所までしっかり掃除が行き届いているかチェックする。その傍らでヒカリはソファの上に置いてある革製の鞄に目を向けた。
「これって……」
「私、てっきり勉強する云々に先ず、掃除をする所から始まるって覚悟してたよ」
「いや、来る前に何回も言ってたじゃん。片付けているって」
「ヒカリの片付けや掃除って私の中ではした範疇に入らないからって思ってたけど……偉いよ。改善したんだね」
涙を瞼に浮かべ微笑ましい表情で肩に触れて讃える。
「それにしても掃除だけじゃなくて洗濯もちゃんと出来るようになったんだね。服とかベランダに干せてるし……んん?これ、本当に自分でやった?」
わざわざベランダに出ては干してある衣服を確認して更なる疑いの眼差しを向ける。
「そんな疑う?」
「うーん。ヒカリなら干す所まではちゃんとするけど、服の形とか考えてまで干さないと思うんだよね。陽光に当てればバッチグーみたいな発想するよね?」
「……」
図星過ぎるあまりヒカリは何も言い返せなくなる。
なんせ、部屋の掃除はともかく服を洗濯しているのはヒカリではなく……
「流石は唯菜ちゃんだね。洗濯は私が担当してまーす」
ヒカリの横から突如として現れた香織が代わって唯菜の疑問に答える。
「え、香織ちゃん!?どうしてここに?」
「ここ、私も使わせてもらうことになったの。ヒカリだけこんな良いマンションを使わせてもらっているのズルいし」
「そうなの?じゃあ、二人でここに暮らしているの?」
その回答に香織は首を横に振る。
「私の放課後からレッスンまでの間で時間潰し用とかに使わせてもらってるの。夜遅い時とかはたまに寝泊まりもするかな」
「なるほど、従姉妹のヒカリちゃんが一緒なら安心だね」
「そうでもないよ。ヒカリってば脱いだ服とか散らかすし、洗濯は出来ないから代わりにまとめて私がやってるんだよ~。苦労してます」
「余計なことは言わなくていいから」
香織の横腹を軽く肘で突っつき、これ以上の無駄口を叩かせないようにする。
「いいな~。私も二人みたいな仲の良い従姉妹が同じようにアイドルやってルームシェアとかしてみたいよ」
「じゃあ、唯菜ちゃんも定期的においでよ。私ならいつでもウェルカムだからさ!」
「本当に!?」
「あの~家主はこっちなんだけど」
「家主はヒカリじゃなくてジルさんでしょ。それよりも何、唯菜ちゃんを部屋に招きたくない理由でもあるのかなぁ~」
「いや、無いけど」
「ならいいじゃん。こうして二人で学校帰りに寄ってそのままレッスン行くなら入れてあげなよ。部屋デートにもなるし」
「デートって……そもそも同性なんだからデートって概念ないから。それに今日、唯菜がウチに来たのは勉強するためだから」
「素直じゃないなぁ~」と小声で呟きつつも香織はヒカリの言葉を聞き入れる。
「それより、今日はレッスンない日なのに何でいるの?」
「遊びに来た」
SCARLETの定休日が火曜日。
普段であれば学校帰りにそのまま自宅に直帰する香織であるが、ここぞとばかりに変なセンサーを張り巡らせこの部屋に遊びに来た次第であった。
そして、予感通り……兄が好きな相手を内緒で部屋に連れ来んでいるといった状況に先回りして遭遇することが出来た。当然、その本音は隠したまま逆質問を返す。
「そういうヒカリも今日はレッスンないよね?」
「こっちは勉強」
「勉強?あ~もしかして、試験が近いからその勉強とか?」
「うん。そのつもりだよ」
「なるほど、じゃあ私はお邪魔だったかな?」
二人で勉強会を開こうとしていた目論でいたと察し、わざとらしく自分がお邪魔であることをアピールする。
「ううん、そんなことないよ!むしろ、居てくれて嬉しいよ!」
プライベートでの香織を前にしてSCARLETファンとしての気持ちを抑えられずにいた唯菜は食い気味に「是非、一緒に勉強しませんか?」と目を輝かせて尋ねる。
当然とも言うべき唯菜の反応にニコリと香織は笑む。
「じゃあ、私も時間あるし。私も試験勉強をしようかな。いいでしょ?」
「香織がいなくてもそのつもり」
「なになに~その態度。なんか拗ねてない?」
「拗ねてない」
「拗ねてるじゃん!なんか怖いし」
「同じ顔」
「私はもっと可愛い顔してますぅ」
「中身同様に全然可愛くない」
「おーおー言ってくれるね。唯菜ちゃんに有ること無いこと話しちゃうよ」
「有ることは話して下さい!」
「いや、聞かなくていいし。話す必要もないから」
「唯菜ちゃん、ヒカリの寝顔アルバム見たい~?」
「見たいです!」
「見せるな!」
かくして、ヒカリと唯菜の大学を見据えた成績向上のための勉強会は新たな参加者を加えて、三人で始まるのであった。このやり取りを終え、香織と唯菜の両者が本人に隠れて密かに撮り溜めたヒカリに関する様々な写真アルバム鑑賞が済んだ二時間後に……
♢
唯菜を最寄りの駅まで見送ったヒカリと香織は二人で近くの飲食店で夕食を取り、再び部屋へと戻った。暗くなったリビングの照明を付け、満腹になったヒカリは近くのソファに腰掛けてはリモコンでテレビを付けてはくつろぎ始める。
その光景に香織は疑問を抱く。
「今日も帰らないの?」
このままこの部屋で過ごすと言わんばかりの動き。
時計の短針は既に九時を回り、帰るにしては遅い時間帯。
両親が家に居ないから心配されないとしても、不思議とずっとここで暮らそうとする兄に対して香織は懐疑的な感情を抱く。
「その予定かな。香織はどうする?別に泊まってもいいけど」
ヒカリはあっさりと帰らないことを認めた。
別に香織としてもわざわざ自宅に戻る必要はない。
家から学校に通うよりもこの部屋から通った方がいつもの30分近く時間は短縮できる上にゆっくりとした朝を過せる。
だが、香織が聞きたいのはそういうことではなかった。
「お兄ぃってばもう家には帰らないつもり?ずっとここで一人暮らしでもする気なの?」
その問いの答えが直ぐに返ってくることはなかった。
数秒の沈黙が続き、ヒカリは依然とテレビに顔を向けたまま振り返ろうとしない。
痺れを切らした香織は感情的になって正面に回ろうとする……
「この姿だとなんか家に帰り辛くて……時折帰るようにするから」
背を向けたままヒカリはそう答えた。
本音と噓を両方交えて。
当然、香織には『時折帰る』という言葉が噓だと分かっていた。
自分の気持ちに踏ん切りがつく間まではこっちで生活し続ける。
それまでは家に帰らない。
そんな意志が言葉から伝わり、香織は自ずと踏み出しかけた足を止めていた。
「別に気にする必要ある?姿は違ってもお兄ぃの家に変わりはないでしょ」
「分かってるけど、気持ちの問題なんだよ。これは」
「……」
そう言われてしまっては何も言い返せなかった。
複雑な立場に置かれる兄の心境を考慮すれば精神的に不安定になるのも仕方がなく、女の子の外見に引っ張られて普段は吐かない弱音を聞くと同情が生まれ、いつもの軽口は叩けなかった。
そして、そんな兄を目の当たりにすると香織は余計に不満が膨れ上がる。
「ねぇ、このまま一生元の姿に戻れなかったらどうするの?」
その問いでようやくヒカリは振り返った。
「怖いこと聞くじゃん」
「実際どうなの?元に戻れる目処はついているの?」
「今の所はないよ。前も言ったと思うけど暫くはこのまま」
「じゃあ、暫くはずっと帰ってこないの?」
「時折は帰るってさっきも……」
「嘘吐かないで!」
溜まりに溜まった不満が炸裂した。
ずっと自分の気持ちを偽って嘘を吐き続けることに対する不満……それも勿論ある。
だが、香織の中の一番の不満は……
「帰る気ないんでしょ」
「……」
「私の目には頑なに家に帰ることを避けようとしている風にしか映らない。自分の居場所は家じゃなくてこっちだと思ってるんでしょ」
そう告げられるとヒカリはバツの悪そうな顔で再びテレビへと向く。
明らかに図星だった。
表情を悟られることを明らかに隠そうとする仕草に少しばかり怒りを覚えた香織はソファへと回って横に座る。
そのまま両手で顔を掴んで無理矢理自分の方へと向けさせて目を合わせる。
「なに、急に」
「全然こっち見ないから無理矢理見させてるの」
「首、痛いんだけど」
「じゃあ、こっちみて」
香織の圧に屈したヒカリはテレビの電源を切る。
静かになった部屋の中に妙な緊張感が漂い、ヒカリは後頭部を掻きながら渋々身体を横に向けた。
すると突然、強く肩を掴んだ香織によって押し倒され、太股辺りに跨って馬乗りにされる。
「な、なに……急に……」
「ねぇ、本当に私の知ってる兄の陽一?」
目の前にいるのが兄ではないことを疑う。
その発言にヒカリは大きく困惑する。
「あ、当たり前じゃん。どうしたの本当に……」
「どうしたこうもない。こうして喋っていると兄らしさをまるで感じない……なんか別の人と話してるような違和感でしかない」
「……!」
「もしかして、ヒカリのままになったことで心までも女の子になったとかじゃないよね?それだったらそれだったで別にいいけど」
「いや、良くないから」
冗談か本気で言っているのか分からない香織の発言に対して冷静なツッコミを入れる。
「ねぇ、正直に教えて……お兄ぃはお兄ちゃんのままなんだよね?こんなオッパイしてるけど」
辛気臭い台詞を述べつつ、両手を胸に伸ばして容赦なく鷲掴みにする。
揉んでみると若干自分よりもサイズ感の大きい胸の膨らみであることに更なる怒りが込み上がる。
このまま胸を揉みしだいてやろうかと力を込めるも「おいバカ!止めろ」と振り払われる。
揉まれたことへの恥ずかしさ故か、揉まれたことで少し気持ち良さを覚えたことに赤面した様子を後者の方で指摘する。
「……なに、感じてんの。変態」
「揉んだのはお前だろ」
「意外と大きいんだもん。腹立つ」
「そんな理不尽な怒りをぶつけられてもなぁ……」
「ま、今のでお兄ぃを感じたからこれでチャラにしてあげる」
そう言って香織はヒカリの上から退く。
そのまま立ち上がって近くに置いてあった鞄を手に持つ。
「帰るのか?」
「替えの制服とか用意してないし。明日のレッスン着も取りに行かないといけないから今日は帰る」
「分かった。まぁ、気を付けて帰れよ」
ヒカリの放ったその一言に少しの笑みを浮かべた香織は「おやすみ」と告げて部屋を後にしていく。玄関の閉まる音が聞こえ、本当に帰ったことを確認したヒカリは未だ残る胸の感触に手を当てながら「なんだったんだ。一体……」と声を漏らす。
相変わらず思考の読めない妹の行動に対して後ろ首を掻く。
「てか、俺ってなんだよ」
香織の発言を振り返って言葉に出した途端、激しい眩暈に襲われる。
思考が搔き乱され、不安に感じていた何かが徐々に薄まり……消えていく。
そして、同時にはっきりとしていた意識もまた霞の如きモヤがかかる
「……っ、俺……私は……クソ意識が……」
混濁とした視界の中、強烈な眠気に襲われたヒカリはソファへと横になり……床へと意識は沈んでいった。