百八十六幕 朝の時間/進路
日課の朝練を終えた私は朝日が差し込む閑散とした教室に入り、自分の席に着く。
鞄からスマホを取り出して、今朝方送ったメッセージの既読がついているか確認する。
けれども、まだ既読は付いていなかった。
「ヒカリ、まだ寝てるのかな」
転校二日目にして遅刻……ヒカリに限っては有り得ないと思いたい。
時折、時間に少しルーズな所はあるが、時間厳守を基本的に行動しているため今まで遅刻している所は見たことがない。
それにホームルームの始まる20分前だと教室にはまだ誰もいない。
この時間だと私以外に来る人は殆どいない。
みんな、ホームルームが始まる5分前あたりに集中してやってくる。
鐘が鳴る1分前に登校する名雪はともかく、10分前くらいに登校する夏美ちゃんもまだ来ていない。だから、ヒカリがまだ登校していなくても当然……なのだけど、早く来て欲しい気持ちで一杯だった。それに返信がないことも気になる。
「念の為にもう一度、送っておこう……」
手持ち無沙汰な私は心配になって再度『起きてるよね?』とメッセージを送信。
ヒカリの返信が遅いことくらい常のことだと分かっているが……妙に心配で仕方ない。
「あ~早く来ないかな。ヒカリ」
空いた隣の席には今日も彼女が座る。
どんな時間を一緒に過ごそうか。それを想像するだけでも楽しみな気持ちでスマホを眺めていると……
「教室では明里だってば」
「え?……うわっ!ビックリしたぁ~」
一瞬、心臓が飛び出るかと思った。
いつの間にか背後にいたヒカリ……じゃなかった、明里はそのまま自分の席に鞄を置くと椅子に並んで座る。
「は、早いね。明里」
自分の独り言が聞かれていたことに少し動揺しながらも身体を横に向けて話しかけた。
「まぁ、今日は三津谷家じゃなくて私の部屋からの登校だからさ。早めに出たんだけど……予定よりも早く着いた」
明里の暮らすマンションは東京都の原宿近郊。
そこから学校に通うとなると片道で一時間は軽くかかる上に都内から神奈川まで通うとなると朝のラッシュに巻き込まれるのは確実。
最悪の場合、電車が止まって遅延する事態もかなりの高頻度で有り得る。
変な所で用心深い明里は『転校二日目にして遅刻はしたくない』からという理由で早めに出たと説明した。やはり時間に関してはしっかりとしている。
「そういう唯菜は朝練?」
「うん。そうだけど、なんで知ってるの?」
私が朝練をしてることを明里に伝えたことはない筈。
なのに、彼女はあたかも知っているかのように尋ねてきた。
「見れば何となく分かるよ。髪の毛乱れている所とか、レッスン終わりみたいだし」
「え?……あ!本当だ。髪の毛、整えるの忘れてた」
朝練終わりはいつも教室に入る前に女子トイレの鏡で乱れた髪の毛を整えている。
それを怠っていたことを明里に指摘された私は恥ずかしくもなんだか嬉しかった。
「意外だね。そういう細かい所とか明里ってば気にしてくれるんだね」
「まぁ、多少は……それより早く直してくれば?凄いよ髪」
「うん、そうする……けどね」
その前に私も一つ言っておきたいことがあった。
机の上で頬杖を突いてクスッと笑っている明里の腕を掴む。
「え、なに?」
「なに?じゃないよ。明里も人のこと言えないくらい頭ボサボサだから」
そう言って私は明里の腕を引っ張って女子トイレの鏡の前へと連行する。
改めて見た自分の頭を見た明里に尋ねる。
「この髪見て、私のこと笑える?」
「……笑えないです」
「運動した後の私よりも酷い寝癖だよね?」
起きてから今に至るまで鏡で自分の姿を全く確認しなかったのかと思うくらい細かい毛がぴょんぴょんと頭の至る所からはねている。その光景から目を逸らそうとしたので、両手で顔を掴んで真っ直ぐと鏡に向き合わせる。
「一応、整えた……筈なんだけど……」
「どうせ、櫛で簡単に溶かしたつもりなんだろうけど、その癖毛はそう簡単には治らないから。ほら、鏡向いてて……私が代わりに治すからさ」
「ありがと」
近くの置いてある椅子に明里を座らせ、自分の髪よりも少々時間がかかりそうな方の髪のケアを先ずは行い、その後はナイショで持ってきたヘアゴムで少しアレンジを加えた。
♢
午前の授業が終わり、お昼の時間になる。
普段は基本的に私が名雪や夏美ちゃんの方へと移動して三人でお弁当を囲むのが定例ではあったものの、明里が転校してからは二人がこっちに来てくれる。
「それにしても、その窓際の席羨ましいわ~」
名雪の言葉に「どうして?」と尋ねる。
「だって、一番後ろで端っこの席なんだから授業中にスマホとかいじってても先生にバレにくいし」
「あ~そういう」
確かに明里の座っている席も然り、私の席も教壇からだと上手い具合に隠れてスマホに触れられる。現に授業中、バレないようにスマホに触れている生徒はいる。
気付かれるかどうかの瀬戸際で上手い具合に先生から見つからないようにやり過ごす……といったチキンレースをしている男子も前の方でチラホラいたりする。
「真面目に勉強しなよ。来月、学期末試験あるんだし」
「うわ。でた~唯菜の真面目っ子発言」
「不真面目に成績落とすよりはマシだよ」
名雪の成績は学年全体の中で言うと中の下。
文系科目ではそこそこ良い点を取ってはいるものの……先月に行われた中間試験では理系科目で何個か赤点を取っていた。成績にかなり足を引っ張るくらい。
一方で、夏美ちゃんはかなり成績が良い。
学年全体で見ると上位10人以内に入るくらい頭が良い。
進学を念頭に置いているからか、日々の勉強をしっかりとこなして着実に成績向上に結びつける努力家な所は私も感心を寄せていた。
「そういう唯菜だって別にそこまで成績良くないでしょ」
「う……」
確かに私も人のことをあまり言えた成績ではない。
前回の試験結果はどれも平均点上々で特に自慢できる程の点数ではない。
至って平均的な学力である。
「それでも赤点取っている人よりはマシだよ」
「唯菜ちゃんの場合はアイドル活動もあるから勉強するのも大変だよね」
「そうなんだよ。ありがとう夏美ちゃん、分かってくれて」
勉強とアイドルという難しい二足の草鞋に理解を示してくれるその気遣いが大変心に染みる。
「そういう明里は勉強どうなの?転校する前に編入試験みたいのやったんでしょ」
「一応やったよ。九教科で」
前回の中間試験と同じ科目数。
恐らく明里も編入試験で同じ内容の試験問題を解いたに違いない。
「ちなみに、総合点はいくつ?」
ずけずけと人の点数を軽々と聞く名雪に明里もまた素直に答える。
「確か、総合で700点くらいは超えてたかな」
え……意外にも高い。
私なんて合計で600点もいかなかったのに。
てか、ルーチェちゃん達と休みの日はゲームばっかりしてるのにそんな頭良かったの?
なんかすごく悔しい。
「へー明里ってば勉強できるんだね」
「一応、コツコツしてはいるから」
「明里ちゃんも真面目そうだもんね」
「勉強は別に嫌いではないし……進学も考えてはいるから」
「え、そうなの?」
そのカミングアウトに少し反応してしまった。
「進学って大学?」
「四年制の」
「ポーチカを続けながら?」
「一応はそのつもり」
意外にも意外だった。明里が進学を見据えた上でアイドル活動をしていくとは思ってもいなかったからそんな回答が出るとは完全に予想外。
「そう言えば、唯菜はどうするつもりなの?夏美はともかく、唯菜はまだその辺あんまり決めてないんだっけ?」
「いやぁ~私も進学は考えているかな……一応」
曖昧な返答で進学を希望していると答えたものの、確固たる意志はない。
大学に入ってもアイドルは続けられる。
現役大学生の幸香さんがまさにその実例として相応しく、参考にさせてもらってはいる。
けれども、大学での学びをイマイチ見つけられずにいる現状や今の成績を省みると進学は少し厳しいのかもしれない。受験を考える生徒はこの冬から真剣に勉強していかないと大学への合格は難しいと先生達も口を酸っぱくして意識させるように伝えている。
高校受験の時みたいな安易な考えは通用しない。
やるなら今よりも多く勉強時間を取る必要がある。
その一方で、ポーチカの活動を両立させるとなると少々厳しくなってくる。
昨日の全体ミーティングで発表されたクリスマスまでの活動予定表を思い出すと土日は基本的に定期公演が予定され、平日もレッスンやラジオその他の収録、アイドル誌のインタビューといったことも色々と組み込まれていた。
ジルさんも学生の本業は学業であると重きに置いている観点からあまり負担はかけないスケジュールを組んでくれてはいる。それでも、前と比べると勉強に当てる時間は少なく、休みもあまりない。
それにクリスマスライブ次第では今後、より多くの仕事が舞い込んでくることもある。
そうなれば来年、私達が三年生になったタイミングでポーチカは更なる注目を浴びて、今よりも更なるステージへとステップアップする挑戦の時期にも成り得る。
勉強か、アイドルか……両立するのは勿論なのだけど、どちらかを優先する場合もある。
そこまで頭が良くない私の未来を想像すると……勉強の方が中途半端になってしまって大学進学に失敗してしまいそうな気がしてならない。
「夏美は推薦だっけ?」
「一般も考えてはいるよ。明君と同じ大学に行きたいし……」
「なるほど、彼氏と同じ大学に通う選択肢はアリだね。私も塾通い始めようかな」
二人のやり取りから各々の彼氏が進学を希望しているのだと察する。
恋する二人の乙女から漏れる本音に若干の甘酸っぱさを感じつつ、内心で少し羨ましいと思った。
ん……待てよ。それで言うなら、明里が進学を希望しているなら私もそれに乗っかればこのまま同じように過ごせるのではないか?
明里と同じ大学で学部学科なら二人でどうにか難しい学業も乗り越えられる気がする。
それに何よりも明里が隣にいるという安心感はどこにいても変わらないのは事実。
動機は少し不純かもしれないけど……二人ならきっと……
「ちなみに、明里はどうやって進学するつもりなの?」
「一般よりも推薦。勉強に割く時間はあまりないから出来れば推薦で進学するつもり」
意外にも堅実的で現状を踏まえた上で受験を想定している。
編入試験で700点越えの点数を取っているのであれば元々ある成績もそこそこ良い筈。
明里の学力がどれくらいかは具体的に知らないけど、なるべく上の大学を目指しているに違いない。
「……唯菜?」
「……」
正直に言って、この話をしていると進路がかなり不安になってきた。
そもそもの話、私も明里の進路を聞いて同じ大学の学部学科を目指そうにも推薦の枠が一つであればそこを掛けて奪い合わなければならない。無論、相手は明里のみだけではないのも分かっている。
その上、ある程度の基準を満たした成績でなければ、推薦枠の争奪戦に参加すら不可能。
推薦受験は一般受験よりも遥かに難易度が低いとは言えども、小数名との推薦枠を勝ち取るための
熾烈な戦いに身を投じることになるのは覚悟が必要。
そして、成績向上が必須条件な私にとって更なる勉強量が求められる。
それらを考慮すればするほど……先行きが不安で仕方ない。
「唯菜」
肩をポンと叩かれた私は一旦、思考を止めて明里へと向く。
「あ、ごめん。進路のことを考えてて話聞いてなかった。アハハ……」
「進路について悩んでる?」
「……まぁ、少しね。私は明里よりも勉強出来ないから大学はちょっと不安で」
思わず本音がポロッと出てしまった。
自信がない姿をヒカリにはいつも見せてきたからか、名雪や夏美ちゃんの前では決して見せない素の自分もまた現れてしまう。
「大丈夫だよ。唯菜ちゃんは努力家だからコツコツ勉強すれば大学にも行けるよ」
「そうね、アホみたいに真面目な唯菜がおバカとか似合わないし」
「それ、褒めてるの?貶してるの?」
「どっちも~」
気を紛らわそうと言葉を掛けてくれる二人の優しさに内心では深く感謝してる。
けど、それでもこの不安は容易に払拭されない。
現実がそう甘くないことくらい私は身に染みて理解している。
過去の実績を踏まえれば……理想が現実となるには私が想定する努力を遥かにこなさなければ叶うことはない。特に時間が限られる今の現状では楽観視してはいられない。
大学進学を本気で考えるなら、これからの時間の使い方を大きく見直す必要が……
「私さ。出来れば唯菜と同じ大学に通いたいんだよね」
「……え?」
「ポーチカで一緒にいるのもいいけど、他の時間でも出来ればこうして一緒に居たい。唯菜といる時間はもの凄く楽しいから」
窓際の席に天使がいた。
身体を正面に向けて陽光を一杯に浴びながら照れ臭そうにしつつも真っ直ぐな秘めた想いを告白した彼女が不思議と特別に輝いて見えた。
それが不思議と明里の言葉の様であって……そうでない様な気もした。
例え、私の心情を把握して気を利かせてかけた言葉であったとしても、今の言葉が本心から出た気持ちであり、明里の願望であることは間違いない。
それを聞いた私はいつの間にか難しく考えることを止めていた。
明里がそう望むのであれば、彼女もまた手伝ってくれる。
いつも通り、お互いに自分にはない要素や苦手な部分を補完し合って助け合い……切磋琢磨に高め合う。
そうすれば大丈夫であるように思えてきた。
クスリと笑んだ私は一つある提案を促す。
「じゃあさ、これからは明里の部屋で勉強とか教えてよね。なんなら一緒にしようよ!」
「教えられる程、頭は良くないけど」
「私よりも点数良い人が文句言わない!」
「別に文句じゃなくて事実で……」
「一緒の大学行くならそれくらい手伝って」
迫る勢いに折れた明里は「分かったよ」と承諾してくれた。
本当は一人で勉強する方が効率良いとか思っているのだろう。
けれども、満更でもなく嬉しそうに横を向いて表情を隠そうとする明里がどうしようもなく可愛く見えた。