百六十七幕 KIF/妹との一幕⑮
深々と溜息を吐いていると……楽屋のドアがノックもされずに開く音が耳に届く。
「まーた、重たい顔してる」
その声に俺はムッとした表情で衣装を纏った妹を見詰める。
「ったく、誰のせいで悩んでいると思っているんだ」
KIFのリハーサル前日。
学校から帰って直ぐ、家のリビングでくつろいでいた香織から小春の言伝を唐突に伝えられたのがこの悩みの始まりだった。
「仕方ないじゃん。幸村さんに伝えて欲しいってお願いされたから伝えたんだよ」
「伝えた所で俺が元の姿で参加出来ないって分かっていただろ」
「それはそうなんだけど……お兄ぃならどうにかするのかなーって」
「この腕輪に自分の分身体を作る機能なんてない」
「ま、でもちゃんと真剣に考えているあたり……まだ幸村さんのこと想ってたりしてるの?」
香織の言葉を直ぐには否定出来なかった。
正直、何で俺はこんなにも小春の事を今更ながら考えているのだろうか。
そもそも、俺の気持ちは今……唯菜に向いている。
どちらが好きかという天秤は間違いなく唯菜に傾いていて……その気持ちに噓や偽りはない。
だが、小春を悲しませたくない。
かつての恋心が未だに引き摺ったままモヤモヤとした状態で胸の中で燻り続けては消えずにいる。
ずっとだ。
小春に告白し、彼女が去ってからずっと……後悔に似た何かが俺の中で小春への想いを完全に断ち切らせずにいる。
しかし、それは過去の自分であって……今の自分はもう別の恋心を抱いている。
傾いている天秤が再び過去に傾くことはもうない。
今は白里唯菜が好きだ。
そう自分に言い聞かせた俺は落ち着いてゆっくり答える。
「もう好きじゃない」
「……」
「でも、なんだか放ってはおけない。そんな気がしてならないんだ」
「へぇ……じゃあ、今は唯菜ちゃんの方が好きだと?」
「……なんでそうなる」
「隠さなくてもいいよ。今のお兄ぃの顔は中学校の時と同じだから何となくわかっちゃうもん」
こう言えば、俺が簡単に認めると思ったら大間違いだ。
そこは察していても黙っているのが思い遣りの精神だと思うが……この妹にそんなことを求めても無駄である。知った途端にズケズケと自ら踏み込んでは俺達の関係性を面白く見守ることに徹するであろう。
だから、言質を取ろうと自分で俺の気持ちを勝手に決めつけ、双子の兄妹だから兄の気持ちなぞ容易に知れてる風に装って話す香織に対して俺は冷静の対応をとる。
「ご想像にお任せする」
「今の話。認めるってことでいいの?」
「好きにしてくれ」
反論するだけ疲れる。
ならいっそのこと、俺の口から肯定や否定も入れず、事実を有耶無耶にする方が効果的である。
香織もこれ以上は何も聞けまいと判断したのか食い気味な質問攻めを止める。
「……まったく、往生際が悪いなぁ。そこはあっさり認めちゃえばいいのに」
クソ……この女、いつか男が出来たら絶対に同じ事をしてやる。
ま、この妹に男なんて出来るか微妙だけどな!
無論、俺もこの恋が成就するとは限らないが……。
決して読めないその先を考えるとマイナス思考になりそうなので、少し話しを切り替えよう。
「それにしても、大事な大事な対決が控えているっていうのに随分と気楽だな。お前」
「緊張してるよ」
「緊張の『き』文字も感じられないくらい飄々としているように見えるが?」
「本当だって。だから、こうしてお兄ぃとお話ししにきたんじゃん。それより、他の人達は?」
「みんな、所用があるから出て行った」
「ふーん、じゃあ今はお兄ぃと私だけなんだ」
コイツ、まだここに居座るつもりだな。
ただでさえ、後ろの物で精神を削られているというのにもう一人面倒な会話相手がいると余計疲れが増す。
「ちなみにここはお前の楽屋じゃねーから。許可してないのに勝手に入室するな」
「いいじゃん。今更ケチなこと言わないで」
ずかずかと楽屋に入り、座布団に座ると「お茶」と要求してくる。
「自分で淹れろよ」
「芸歴は私の方が上で先輩なんだよ?ここでは先輩命令を聞くべきだと思う!」
訳の分からない先輩マウントをいきなり取ってくる香織に辟易しながら空いたカップに粉茶を入れ、再びカップにお湯を注ぐ。
「ほれ、衣装に溢さないよう飲めよ」
「言われなくても分かってるし」
ツンとした態度でゆっくりお茶を口にする。
「それ飲んだら早く出てけよ」
「なんで?」
「一人でゆっくりしたいからだ」
「じゃあ、ここに居てもいいじゃん」
頑なに戻ろうとしない。
これ以上、何を言っても機嫌を損ねるだけだと判断して俺もまたお茶を飲んで落ち着く。
「春乃や柚野には悪いけど……やっぱりお兄ぃと居る方が落ち着く」
「なんだよ。急に」
「なんかおうち感あって安心するんだよね」
「今の姿は兄じゃないが」
「でも、話してる相手はお兄ぃでしょ」
「……まぁな」
それは間違いない。
姿、声は違えど俺は陽一だ。
「だから、気張らずに普段の私で居られる」
置き換えると素の自分とも言える。
机を囲み、隣でお茶を飲んでいる姿はまさしく家で見る香織と変わらない。
仲の良い二人の前でもこうやって過ごせばいいのに……と若干思うものの、香織はSCARLETのリーダーだ。本番前に二人の前では毅然とした態度で自信を持って振る舞わないといけない。
いつも通りの【SCARLET】三津谷香織を演じ、二人が安心してステージに臨める心持ちを本番前から牽引する必要がある……などと真面目ちゃん振っているんだろう。
だから、少し空いた時間を見つけて自分の気持ちを落ち着かせる場へとやってきて和んでいる。
試合前のコンディションをしっかり整えているあたり……プロ意識が高い。
「安心して」
「何がだ?」
「次のライブ。安心して私達を観てて」
「詩音に負ける自信なんてないって顔だな」
「当たり前じゃん。私があの女に負けたことなんて一度たりともないから!」
「そう言えば、なんでお前達はそんなにいがみあっているわけ?」
目の敵にしているのは香織の方な気もしなくはないが。
「それは説明すると長いから後で教える」
「ん」
時計を確認した香織は立ち上がって「んー」と身体を伸ばし、リフレッシュした状態で挑めると自信付けた。
「てか、ヒカリってその恰好で司会席に座るの?」
ポーチカのステージ衣装を脱ぎ、普段着のTシャツの上にパーカーを一枚、上から羽織った恰好。
あまりにもラフな恰好であることから「衣装で出ないの」と尋ねる香織に「衣装は一応、用意されている」と背後の方に親指を指し示す。
この後の【SCARLET】VS【赤羽詩音】とのイベントに際して、ヒカリは司会者側の席に登壇する予定。
そして、その衣装はイベントスタッフが楽屋の中にその衣装を用意していた。俺もその衣装とやらに一度、目を通して説明を受けて外的に納得した意志は示したものの……どう足掻いても心は拒絶している。だから、ずっと衣装と背を向けて座り続けている。
「あー、これは笑いたいけど笑えないやつだね」
「いっその事、笑ってもいいぞ」
「笑ったら絶対に根に持つじゃん」
「当たり前だ」
「……ま、今回ばかりはお兄ぃに同情するよ」
俺の心中を察した香織も流石にこの件で茶化しにはこない。
むしろ、気の毒そうな顔で「お着替え、手伝ってあげようか?」と優しく声を掛けてきた。
出来れば着替えたくない。
しかし、用意されて色々と説明を受けてしまった以上、着ないという選択肢は既に断たれているに等しく……着方が分からなくて困っていた所を丁度香織が手伝うと言うので「頼む」とうつむき加減で着替えを手伝ってもらうことにした。