百五十一幕 幕間/少女の看病①
目覚めると気怠さが増していた。
喉の奥がイガイガと痛み、声が自由に出せない。
身体を起こそうとすれば激しい頭痛に見舞われる。
「くっそ……風邪、ひいた……」
ベッドの上で目を覚ました俺は額に手を当てて熱を測る。
体温計を部屋に置いていないため正確な数値は分からないが、恐らく平熱を大きく上回っている気がした。
だいたい37.5分くらい。
顔を横に向けるとリビングが広がっていた。
一人で使う分には無駄に広く、人がいないと寂しく映る光景に昨晩のことを回想する。
レッスン終わりにちょっとした気怠さと頭痛が疲れから生じるものだと思い、一眠り就いてから帰宅しようとした。しかし目覚めた時点で、今と同じくらいの気怠さや頭痛が襲った。自力で帰る気力すらなかったため、昨晩は帰宅を断念してそのまま飲まず食わずで寝てしまった。
そして、翌日の朝を迎えた現在……病症はより一層のこと悪化しており、今日のレッスンに参加する気力、体力、体調が万全でないのは明らかだった。
一先ず、ジル社長に休むことを伝えようとスマホ画面を開く……
「ん、香織からか?」
昨晩、家に帰って来なかったことに対する言及してくるメッセージが届いていた。
それに一言『風邪ひいた』と返す。間もなく『え、大丈夫なの?』『そっちの部屋に行こうか?』と連絡が返ってくる。その直後、香織から電話がかかる。
「……なんだ」
『いや、なんだ。じゃないし、熱あるの?』
「一応。体温計ないから何度か分からないが」
『まぁ、そのガラガラ声を聞けば風邪だって分かった。で、看病して欲しいのかなお兄ちゃんは?』
香織の冗談に反応する余力を残していなかった俺はスルーして要件を伝える。
「何でもいいから風邪薬でももってきてくれないか?あと、何か食べ物も」
『あーそうしてあげたいのは山々なんだけど、今日これから大阪行かないとだから今仕度中。お母さん達はまだ出張でいないし……てか、そこには行かせられないし』
「分かった。とりあえず、寝て直す」
『いやいや、その感じだと昨日から飲まず食わずなんでしょ。あの中身カラカラの冷蔵庫を見れば分かるから……しゃーない。ここは私の方から応援を要請しとくから。その子に看病されな。あ、ちゃんと変身してお迎えしてね。じゃ、バイバ〜イ』
最後の方でペラペラと勢いよく話していたせいか上手く聞き取れなかった。
『要請』『看病』『変身』の三単語だけは聞き取れた。
一体誰に何を要請したのか……そこを深く考える思考力すら残していなかった俺は香織に言われた通り、ヒカリに変身してから看病しにくる代理人がくるまでの間、もう一眠りに就く……前に最低限の着替えだけは済ませておいた。
♢
正午。
ビニール袋とトートバッグを持った唯菜はマンションの前に立ちインターホンを押した。
「……」
扉越しでも聞こえるインターホンの鳴り響く音。そこから先、部屋の中でいつものようなドタバタ音どころか「はーい」といった返事もこない。
不在でないことは情報提供者の香織からの連絡で分かっている。
しかし、待っていても一向にインターホンに応じる様子がないことからまだ寝ているのだと判断し、事務所に立ち寄った際にジルから借り受けたマスターキーを用いて電子ロックを解除する。
「お、お邪魔しまーす」
物音一つしない部屋の中にゆっくりと立ち入る。
玄関で靴を脱ぎ、廊下を真っ直ぐと進んで彼女が寝ているであろうリビングへと出た。
カーテンが光を遮り、昼過ぎにも関わらず部屋は薄暗く静か。
一瞬、誰も居ないのではないか。
そんな風なひっそりとした静かな雰囲気にそう思うとふとベッドのある方に目を配る。
その上で毛布と布団にくるまった彼女がスースーと寝息を立てているのが見て分かる。
「インターホンを鳴らしても反応しない訳だ」
人が来たことに一切気付かず、ぐっすりと眠り続ける光景が知っている人物と重なる。
「三津谷君と一緒だね」
マイペースなまでに眠り続ける彼と落ち着いた表情で眠るヒカリが唯菜の目には同様に映る。
それでもヒカリの方が百倍寝顔が可愛かった。
可愛いから一枚だけでも写真に収めようと無意識にスマホを取り出してカメラを構えていた。
「ん~これ写真に撮って収めてちゃ……ダメだよね」
一旦、冷静に立ち返って自制を促す。
本人の了承なく写真に残していたら前みたく怒られてしまう。
それで以前、隠し撮りしていた写真を集めていた『ヒカリちゃん専用フォルダ』を丸ごと消された過去を思い出しては再び悔やむ。
「……それにしては随分と落ち着いて寝ているような気がする」
別段、熱で苦しんでいる様子は目立って見られない。
落ち着いて寝ている。唯菜の目にはそうとしか映らなかった。
「香織ちゃんからは熱で苦しんでいるから看病してあげてって言われたけど、特に苦しそうには見えないんだよね。見た感じ……」
失礼します。と手で額に触れて体温を確認。
ヒカリの柔肌に触れつつ熱の具合を何となく自分なりに測ってみると……意外にも熱は高い気がした。自分の体温と比較してもヒカリの方が高い。
「一応、測ってみないと分からないよね」
ここはやはり機器に頼るしかないと、トートバッグから持参した体温計を取り出す。
本来ならばここで一旦、起こしてから自分で脇に差し込んで測ってもらうべきなのだが……当の本人は未だぐっすりと眠り続けている。
ちょっとしたことでは絶対に起きない所も一緒だと勝手に勘違いした唯菜は上半身に覆い被さる毛布を剥して、シャツの隙間から体温計を通して脇に差し込もうと手を伸ばす。
その途中で柔らかな膨らみに手が当たってしまい若干の興奮を覚えながらも脇に体温計を挟ませた。抜けない様に差した方の肩を反対側へと流し、体温計を手で支えていると……ふと、ヒカリと目が合う。
「……」
「……」
「お、おはよう。ヒカリちゃん」
「う、うん。おはよう唯菜……」
お互いに微妙な空気で見つめ合う。
冷静になった唯菜は自分の行動を俯瞰して顔を赤く染める。
「こ、これは……」
「熱、測ってる?」
「うん。起きそうにもなかったから勝手に測ってる……」
そのタイミングで体温計が測り終えたことを知らせる。
「38,0分だって。結構熱あるね」
「意外と高い……」
「ヒカリちゃん体調の方は?」
「頭痛と喉が痛いくらい。そう言えば、唯菜も風邪ひいたんじゃ?」
「私のは単なる疲れだよ。一日休めば直ぐに元気なったから」
「そっか……それよりもどうしてここに?」
「香織ちゃんから聞いてない?代理で看病しに来るって」
「あー言ってた気がする」
一瞬、どうして自分がここに来たのか。
何も聞いてないって反応を見せるヒカリに唯菜は少々驚くも、やり取りを思い出したのか納得して受け入れてくれたことにホッとする。
「うん。だから安心して、今日は私に看病を任せて」
「分かった。でも、体温計くらいは自分で測れるから流石に起こして欲しい」
ヒカリの指摘に「うん……そうするね」と先程のことを思い出して恥ずかしくなった唯菜は苦笑いを浮かべた。
そのタイミングでヒカリの空腹が限界を迎える知らせが二人の耳に鳴り響く。
「そう言えば、昨日から何も食べてないんだっけ?」
「うん……」
今朝方、香織から唯菜のスマホに届いたメッセージには看病をして欲しいというお願い文と共に『お腹を空かせているであろうから手料理でも振る舞ってあげて下さい』と添えられていた。
だから、病人でも軽く食べられるような材料をここに来る途中で買い足して用意しておいた。
「なら、おかゆでも作るよ。台所を借りるね」
おかゆ用の材料が入っているビニール袋を持って唯菜は台所へと向かい、長い髪を後ろで一つに結んでからこの部屋の主のエプロンを借り着けた。
「えっと、確かおかゆは……」
料理動画を見ながら現在進行形でおかゆの作り方を学びながら作る……その前に土鍋やまな板を用意をする。以前、食器棚の中にそういった類の物が置かれていたことを思い出し、取り出しては水で濯いでいると……ベッドから起き上がったヒカリがテーブル席のあるソファ前まで移動しようとする光景が映る。
今にも倒れそうなくらいフラフラな足取りでゆったりと動くヒカリは気力を振り絞ってソファに移動する様子に肩でも貸そうかと思うも、転ぶことなく無事にソファへと辿り着き……そこで力尽きていた。
動いたことで余計に体温が上がってしまい辛そうに項垂れる様子。
それを見兼ねた唯菜は台所での作業を中断し、部屋に来る途中で立ち寄ったドラッグストアで購入した物をテーブルに置く。
「前、失礼するね」
スポーツ飲料の入ったペットボトルと額に貼る用の熱冷ましシート。その一枚を唯菜は袋から取り出し、ヒカリの前髪を片手で上の方にかきあげるように抑えつけ、そのままピタッと貼り付けた。
ひんやりとした刺激が脳に直接届き、スッキリした爽快感が気を楽にしてくれる。
唯菜も熱を出して苦しんだ際に母から熱冷ましシートで気が和らいだことを思い出して尋ねる。
「どう気持ちいい?」
「……気持ちいいです」
「なら、良かったよ」
どこか恥ずかし気に頬を赤く染めるヒカリ。
それが一体何の感情を表しているのか唯菜は気になるも、直ぐに台所へと戻っていく。
「ちょっと待っててね。今から作るから」
「……うん」
振り向き際にどこか楽しそうにして待っているヒカリに思わず唯菜は嬉しくなった。
言葉では直接伝えずとも、雰囲気から自分の手料理を楽しみにしていると感じたから。
そんな彼女の期待に応えようと保険用の料理動画を消し。
以前、家庭料理を学んだ先生の教えを基に自分なりのおかゆを作ることに決めた。