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百五十幕 幕間⑦

 かくして、修学旅行は終わった。

 

 三津谷陽一の姿で気兼ねなく、本来の学校生活を楽しむべく迎えた一生に一度しかない修学旅行……楽しい日々を過ごしたあっという間の三日間ではあったものの、心と身体は全くと言っていいくらい安らぎを得られなかった。


 空港に到着した時点で何か嫌な予感が胸の中に渦巻き、その後に起こった度重なる予期しない出来事の連続に期間中、心は全く落ち着かなかった。その心労に伴って肉体にも多少なりとも影響が及び、帰りの飛行機内は離陸から着陸までの時間、誰一人と会話せずに爆睡していた。


 寝惚け眼で目を開けるといつの間にか、羽田へと到着して現実に戻った実感が湧く。

 窓の外は暗くシトシトと雨も降っていて、気温も少し寒い。

 羽田は沖縄よりも10℃気温が低い。残暑とも言える沖縄の暑さに慣れていた身体には流石にこの気温は低く思えた。


 行きの時点でこっちがこれくらい寒ければ上着を用意したであろう。しかし、行きの時点でこっちも沖縄と大して変わらない気温であったことに加え、三日でこうも気温差が激しく変動するとは思いもしなかった。

 九月、十月の節目に変わる季節はあまり読めないという教訓を最後の最後にして得た。

 そして、この肌寒さに耐えながら半袖短パンのまま修学旅行生は各々の帰路についた。

 翌日の土曜日。

 修学旅行で生じた疲れを残しつつも俺は気力を振り絞って事務所へとやってきた。

 勿論、ヒカリの姿で。


 午前中は少し身体を休め、午後からのレッスンに参加しようとスタジオに入ると……午前中にレッスンを行っていたルーチェと幸香さんは二人が先に新曲を流して踊っていた。


 息の合った二人のダンス。

 身長差はかなり激しいものの、お互いに滑らかな動きで振り付けをなぞっていく。

 その光景にパートが終わるまでの間、暫し扉から顔だけを出して静観していた。

 

「これが新曲……」


 KIFのイベント参加に向けた予選で上位入着を果たすべく、二人は三人が不在の間に新曲の練習を少しずつ先取りで進めていた。

 と言っても、たった三日。

 三日分、二人は少し先取りにしていたに過ぎないから慌てずとも追い付く。


 そんな楽観的に構えてレッスンに来た俺は自分が甘いことに気付く。

 たった三日。

 その期間で二人は新曲の半分以上を頭と身体に刻み、何度も繰り返し練習することでモノにしている。かく言う俺は送られきた動画で踊りを確認し、歌を何度か聴いてメロディーを大まかに掴んだ程度。それはもはや、何も予習していないに等しいと二人を見ると思ってしまった。


 修学旅行があったから……と言い訳するつもりもない。

 ただ、KIFの予選まであと一週間半しかない状況を改めて省みると、楽に構えていられる余裕がないと焦ってしまう。

 

「ねぇ、さっきから扉の隙間で伺っていないで早く入れば?」


 タオルで汗を拭うルーチェの目がこちらに注がれていた。

 

「あら、ヒカリちゃん。おかえりなさい」

「ただいま戻りました……」

 

 ちなみに、幸香さんはヒカリの正体について少なからず知っている。

 TSリング……腕輪の存在や彩華さんを知る一人としてジル社長から事情を伝え聞いている者の一人。それでも尚、ヒカリとして当たり前の様に接してくるあたりポーチカのお姉ちゃんとして幸香さんは慕うべき存在だと思っている。


 一方でポーチカの妹的存在であるルーチェは手を前に差し出しては『何かよこせ』と全然可愛くない顔で暗に示す。


「お土産は?」

「ない」

「なんで?」

「渡したらバレるだろう」


 ヒカリは沖縄に行っていない。

 その事を隠している以上、不用意にお土産は渡せないと思って持って来ていない。


「今日は二人、来ないんだからへーき」

「え、来ないの?」


 午前中にルーチェと幸香さんの二人がレッスンを行い、午後に不在組の三人が基礎から新曲の確認の動きをタムタムに教わる予定……だったのだが、どうやら唯菜と春は休みらしい。


「二人共、風邪なの」

「どうせ、はしゃぎすぎて疲れたんでしょ」

「直ぐに良くなるといいけど……」


 予選まで時間がない現在、風邪で休んでしまうとかなりスケジュールが厳しくなるだろう。

 特に練習面において、俺達三人は圧倒的に足りていない。

 来週までに動画選考の撮影時間基準に当たる1コーラスまで全て覚えないと翌週の撮影に間に合わない。全体練習も総じて時間が取れない以上、悠長に構えてはいられない。


 その三人の中でもアイドルとしての歴が浅いヒカリは特に……


「大丈夫よ、ヒカリちゃん。そう焦らなくてもいいから」

「そうね。私的にはKIFなんてイベント興味ないし、出たくないからこのまま新曲は覚えなくても……」

「そういう訳にはいかない。KIFの参加は絶対だと僕は決めている」


 講師のタムタム……こと田村善男と一緒にスタジオに入るジル社長。

 「おかえり」と一声掛けられた後にKIF参加の意気込みを語る。


「このイベントは君たち、ポーチカが多くのアイドルファン達に知ってもらう絶好の機会なんだ。ここで出場で名乗りを挙げるかどうかで今後の活動に大きく影響を与えると踏んでいる」

「じゃあ、出れば仕事が増えるかもしれないんでしょ。なら尚更出たくない」

「動画配信で視聴者を稼ぐチャンスだと僕は思うよ」

「……」

「視聴数、停まりつつあることに困っているんだろ?」

「どうしてそれを……」

「最近、動画の再生数に伸び悩んであれやこれやと動画内で新しい企画に挑戦してはいるけど、空回りしていま一つ効果がでてないこともね」


 再生数の伸び悩みの事実を容赦なく指摘してくることにルーチェはイラつきを露わにする。


「はっ、中には一万を超えた動画だってあるし。登録者だってポーチカの数倍はいるから!」


 ルーチェの動画再生回数は平均して3000回。

 中には最大で100万回を突破した動画もあるにはあるが……その回数を含めずにカウントすると平均はそのくらいの数字。登録者数も1500人越えと有名所な配信者と比べると遥かに劣るものの、個人でやっている分にはかなり多い人数である。


 対してポーチカの動画視聴回数は平均して1000以下。

 中には最大で1万回を突破したものもあるにはあるが……それでも登録者=ファンの数は700人と少ない。このうちの半分がポーチカのファンで、もう半分がルーチェ個人の動画配信から流れてきたアイドルにあまり興味がないルーチェのファンだとジル社長は見立てている。


「正直、動画配信での宣伝にはかなり力を入れていきたい所ではある……しかし、アイドルのファンを獲得するにはより多くのアイドルファンがいる目の前に立つ方が早い上に効果的だ。それは横浜やSCARLETのライブを通じて実証されていると僕は思うんだ」


 夏休み期間に様々なアイドルグループとの間で対バンライブを行ってはきたが、新たなファンを獲得するには中々至らなかった。むしろ、大きなイベントや動員数の多いステージに立った後の方がファンの数は劇的に変わる結果を招いている。


「てか、そのファンって殆どがSCARLETのオタク共でしょ。麗華さんの所からチョロチョロとファンをかすめとって何が効果的なんだか」


 ここぞとばかりにルーチェもぐうの音が出ない指摘を入れて言い返す。


「それはその通りだと認めざるを得ない……が、だからこそ今回のKIFには参加意義がある」

「ファン集めね~。そう上手くいくの?」

「難しいだろうね。会場には何万人のアイドルファンがお台場へと全国各地から集まってくる。そして、出演するアイドルもSCARLETを始めとしたノリに乗っているアイドルや大御所事務所お抱えの人気アイドルグループといった具合にバラバラだ」

「会場も九つに別れていて、有名な子達が自分達の裏で出演していたら観客がそっちに取られてしまうなんてこともあるにはあるのよ」

「なるほど。ま、そもそも私達は予選会に出て上位に入らないと出られない訳なんだし……先ずは予選に突破することを考えた方がいいんじゃないの?」


 ルーチェの言う通り、先ずはそこの目標を達成していかなければ話は……


「いや、僕たちが予選会に出る必要はなくなった」

「「……え?」」


 ルーチェと声が重なる。


「先程、運営からグループでの参加打診が来てね。それで出る必要はなくなったんだ」

「そうなんですか?」

「あぁ、これで僕達のKIF参加は確定した」

「けど、なんで急に?」


 肝心な理由が抜けているとルーチェは尋ねる。

 そこでジル社長は俺の方を顔を向けるや否やスッと身体を床に伏せ、土下座に移行した。


 訳の分からない唐突の土下座に俺は恐怖を覚える。

 ルーチェは笑いながら無様な兄の頭を踏み付けようと足をあげるも、幸香さんに肩を触れられて止める。


「え、一体何事ですか?」


 呆れたタムタムに説明を求む。


「KIF参加に際して、ジルはヒカリちゃんを売ったのよ」

「はい?」

「もう知っていると思うけど、SCARLETと詩音ちゃんが対決イベントを行うのは知ってるわよね」

「はい……」

「そこで詩音ちゃんの事務所からSCARLETに勝利した暁にはあなたをこちらの事務所に移籍させ、詩音ちゃんとユニットを結成するといった話が届いたの」


 詩音とユニットを結成?

 あいつ、そんなことを考えていたのか。


「初めは何のことかよく分からなかったのだけど、後で麗華ちゃんの方から香織ちゃん達が勝手に決めた勝負事だと詳しく聞いて色々と理解したわ。修学旅行、色々と大変だったみたいね」

「はい。本当に大変でした」


 この件も含めて色々と……


「それで兄貴がコイツを売ったっていうのは?」

「ジルにその話をしたのは詩音ちゃんのマネージャー。以前からジルと懇意にしている大手芸能事務所の人でKIF運営委員会にも精通する人物なの」

「あーそれでポーチカの参加をこじつける代わりに勝敗の賭け事としてヒカリを売った訳ね」


 詰まる所、ヒカリはKIF参加の交渉材料として使われたのだろう。

 それも本人の了承一切なく。

 だからケジメとして土下座しているのか。


「これは踏みつけていい案件ね。やらないやら私がやるけど」

「お前が踏みたいだけだろそれは……」

「現に踏むまで待っているわよ。このクソニキ」

「はぁ……別にいいですよ。頭を上げて下さい」


 ルーチェが踏みつける前にジル社長はゆっくりと頭を上げる。

 反省の色も全くない。形だけの土下座なのが表情から分かる。


「ちなみに、SCARLETが勝てばその話はなかったことになるんですよね?」

「勿論だとも」

「分かりました。あとはもう香織達に任せます」


 まさか、こうも現実味を帯びた話として本格的に発展するとは思いもしなかったが、SCARLETが勝てば全て万々歳で終わる。負けた後のことは……あまり考えないようにしよう。

 それに疲れているのだろうか、なんだか少し頭が痛い。


「それにしても意外だったよ。詩音ちゃんと君に接点があったとはね」


 改めて立ち上がったジル社長に詩音との関係を話す。


「同じ学校だったんですよ。詩音とは修学旅行で初めて知り合って、その時にヒカリが興味あるとかで少し話した程度で……あ、麗華さんの娘さんっていうことも知りました」


 恐らくここにいる全員が周知の話だろう。

 幸香さんやルーチェも詩音との関わりはなくとも麗華さんとの関わりが深いから知っている筈。

 二人がどういう関係であるのかも。


「それなら、話は早い。二人の対決は恐らく詩音ちゃんによる一方的な復讐だとも言える」


 復讐……というのは大げさな表現だとは思うが詩音の二人に対する恨みはそれに近しいものだ。

 母に対する恨みとその母が手掛けるアイドルに対する嫉妬。

 それらが混じり合った感情を香織にぶつけている。八つ当たりの様に……


「まぁ、麗華さんと詩音ちゃんの件は当事者間で任せるとして……君たちは自身のステージに集中して欲しい」

「新曲はどうするの?」

「MV撮影は一旦、中止だ。新曲は善男の指導で継続して学んでいって欲しい」

「分かりました」

「りょーかい」

「……」

「大丈夫かい?君も少し疲れているように見えるが」

「正直に言えば、結構疲れてます」


 身体が気怠く感じるくらいには。


「新曲を覚える期間は伸びた。焦る必要はないから今日は帰って休んだ方がいい」

「そうね。身体が資本だもの。唯菜ちゃん達も休んでいるから無理は禁物」

「分かりました。お言葉に甘えて、今日は帰ります」


 これで焦る必要はなくなった。

 KIFの本番までに新曲を覚えれば問題はない。

 猶予が伸びたことにホッとする。


「おっと、そろそろ時間だ。僕はこれからも運営の会議に出席しないといけないから退席するよ。二人も今日は切り上げて構わない。善男、戸締りを頼んだ」


 腕時計で時間を確認し、慌ただしくスタジオから出て行き、そのまま地下駐車場へと向かったのだろう。急に参加が決まったこともあり、ポーチカのタイムスケジュールやステージ場の調整に顔を出さないといけないのだろう。


 そんな彼を見送って直ぐ、俺も簡単な荷物を持って練習着のまま部屋に戻る。

 

「へっくち」


 道中、肌寒い気温が薄い半袖シャツの上に一枚羽織っただけのパーカーを通して肌に触れる。

 夏用の短パンもこの時期はもう合わないと悟る。せめて下にロングスパッツでも履かないと耐えれそうにない。

 

「さむ……」


 昨日までの暑さは消え、秋風が都内に吹く。

 長かった夏は終わりを告げ、秋の季節がやってくる。

 それに伴い、そろそろ冬用の練習着やらを買い足さなければと改めて感じた。

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