百四十四幕 修学旅行/一難去ってまた一難?⑬
「急がないと!」
寝間着姿の唯菜は早足でホテルの廊下を駆けていた。
夕食から一時間後、香織と春乃の部屋で集まるを約束していた。
それまでに同室の二人よりも早くシャワーを浴びて身なりを整えていたものの、その準備にあまりにも時間をかけすぎた結果……時間がギリギリになってしまった。
香織達の部屋は唯菜の部屋がある棟と真反対。
棟と棟を繋ぐ廊下を越え、その上五階まで上がらないといけない。
約束の時間まであと五分もない。
そんな切羽詰まった中、ふと唯菜はプールの奥側に位置し、海が一望できるテーブルが置かれた辺りで明るい髪色の影を見た。
「え……」
見覚えのあるクリーム色の髪に後ろ姿。
誰かと椅子に座りながら話すその人物に目が留まり、思わず足を止めてしまう。
「うそ……あれって……」
ドクンドクンと激しくなる鼓動がある予感を告げる。
『有り得ない』と心では否定するが、完全に後ろ姿が唯菜の知る一人の少女と合致した。
それを確かめるべく、唯菜は心の中で待っている香織達に謝ってテラスの方へと駆けた。
♢
「え、変身?どんな手品なの!?」
ヒカリの姿に変わったことを手品だと思い込んでいるようだ。
「ちなみに、その胸は?」
「……本物」
膨らんだTシャツの上からすくいあげるように胸を強調する。
「だよね。前に空港で後ろから鷲掴みした時、パッドじゃないのは確認してるし……実際に、香織よりもヒカリちゃんの方が大きかったし」
空で手をモミモミ動かして鮮明に思い出している様子。
最後の一言は余計な情報だったが、正直内心でガッツポーズをした。
香織には決して誇れないが。
一応、春乃さんにはTSリングを介した変身のおおまかな概要を説明した。
「へーなるほど、世界って広いね」
「多分、俺だけが特別かもしれないけど」
「そりゃそうだよ。こんなの世間に知れ渡ったらニュース沙汰どころじゃ済まないって!」
「なので、この件は他言無用でお願いします」
「うん……それは絶対に誓う。ちなみに香織も知っているんだよね?」
「知ってる。あとはジル社長やルーチェ、タムタム、それからそっちのマネージャーの麗華さん……くらいしか知らないと思う」
「麗華さんまで……フムフム、何か色々と訳ありな様だね。ちなみに、唯菜ちゃん達には明かさないの?」
ニマニマとした笑みを浮かべながら分かり切ったことを訊いてくる。
「言える訳がない。特に唯菜と小春には……」
「だよね。でも、だとすると三人の関係は……フムフム、私好みな複雑関係でいいね!」
「性格悪っ」
「あーそういうゴミみたい目、香織みたいでゾクゾクするよ~最高!!」
急激に途轍もなくテンションを上げる春乃さんにイマイチ付いていけない。
「まぁ、なんにせよ。このことは他言無用且つ香織にも言わないようにしておくから」
「別にそれくらいは……」
「いやー伏せた方がいいと思うよ。多分、私が知ったらヒカリちゃん……じゃなかった。お兄さんが物凄く香織にキレられると思う。あと、私も」
俺よりも友人として香織を良く知る人物からのアドバイス。
それに本人が言わないというスタンスを取るならそれに越したことはない……のだが、もう一つ性悪な裏に何か変な企みを隠していることを言い当てる。
「ホントは自分だけが俺達の関係を全て知る唯一の人物として、楽しそうに高みの見物をかましたいだけではないの?」
「勿論、それもあります!」
隠す気ゼロだ、この人。
「でも、これはお兄さんにとってもかなり良い話だと思うけどな~」
「例えば?」
「俗に言う、美少女ゲーで攻略情報を提示する友人キャラが味方になる……みたいな」
お嬢様の春乃さんから『美少女ゲー』という言葉が出てくるのは意外だったが……言おうとしていることは分からなくはない。
詰まる所……
「相談役を買うと?」
「うん。そうだね」
「……アリよりのナシ?」
「逆、逆!ナシよりのアリでしょ!」
食い気味に否定する春乃さんに思わず笑ってしまう。
「冗談だって」
「もぉー、でもやっぱり不思議だね。こうして話しているとお兄さんじゃなくてヒカリちゃんと話している実感があるけど、中身はお兄さんなんだもんね」
「そこはあまり深く考えないことをオススメしておくよ」
「だね。公の場で話す時はそれぞれの姿のまま普段通り話すようにするよ」
理解が早くて助かる。
「さて、今日の夜会はこれにてお開きにしようか。これから部屋で明日の作戦会議しないとだから……って、やば。香織からめっちゃ早く戻ってこいっていう連絡来てた」
既読にして慌てて返す春乃さんは高速で指をスワイプさせて返信する。
「ふぅー」と一段落ついた素振りを示すとわざとらしくニマニマとした顔を浮かべる。
「あ、申し訳ないんだけど、私達男子禁制だから……お兄さんは入れないんだけどヒカリちゃんとしてなら来てもいいよ!」
「いや、唯菜がいるんでしょ。なら、俺はそこにはいけな……」
「ヒカリちゃん!」
突然、この姿の名前を呼ばれた俺はビクッと肩を震わせた。
声の主からして直ぐ後ろにいるのは……唯菜、であるに違いない。
現に唯菜の方へと身体を向ける春乃さんも驚いた表情で、視線だけこちらに向けて本人であると合図を送る。
だが、それが分かった以上、尚更振り向く訳にはいかない。
三ツ谷ヒカリはこのホテルはおろか、沖縄には居ないことになっている。
おまけに今は俺の私服着のまま変身している。
振り向けば「どうしているの?」という質問攻めどころじゃ済まない。
よって、ここで取るべき手段は一つ。
春乃さんに再度、視線を送ってコクリと頷く。
何を理解したのかは分からないが、春乃さんも何となく察して頷き返す。
そして、徐々に近付く足音が聞こえる合間にズボンの紐を結び直し、少しダボダボになったシャツをズボンにインして……逃走した。
「え、ちょっと!」
唯菜の制止に似た声を振り払って、動き辛い格好のまま階段を颯爽と下りていく。
すると、納得がいかない唯菜もまた後を追いかけてくる。
くそ。
ピューと走り去って、突然いなくなるヒカリを前にした唯菜が啞然として足を止めてしまう……ことで撒く作戦だったが見事に釣ってしまった。戸惑いながらも必死に追っかけてくるのが背後から届く床を蹴る音で分かる。
さて、どうする。
このまま捕まる訳にはいかない。
どうにかして唯菜をどこかで撒かねば死活問題になりかねない。
「ねぇ!ヒカリちゃんなんでしょ!待って!」
後ろから猛追しながらも止まるよう声を掛けてくる。
それでも振り向く訳には行かず、ホテルを囲う大きな庭の第二コーナーを全力疾走のまま大きく曲がり、先頭で走り続ける。しかし、そう体力は長く続かない。
日頃から朝練で体力をつける唯菜の方が持久力の面では俺よりも上回っている。
恥ずかしながらこのままだと捕まるのも時間の問題。
それなら……
外からホテル内へと逃げ込む。
記憶を頼りにある場所へと向かって走り続ける。
「よし、ここだ」
最高の隠れ場を見つけ、角を曲がって死角に入ったタイミングでスパートをかける。
そのまま全力疾走である場所へと駆け込み、身を潜めると同時に変身を解く。
「はぁはぁはぁ……逃げられたか?」
俺が逃げ込んだのはホテル内の男子トイレ。
ここは蘭陵女子学園の生徒しか使っていない棟だ。ホテルの利用客でこの男子トイレを使う人はほぼいないという推測通りここは空きトイレそのものだった。
そこで一旦は元の姿に戻り、女子トイレに逃げ込んだと勘違いした唯菜を撒くのが狙い。
そして、案の定……
「ヒカリちゃん!もう逃げられないよ。さぁ、観念して出てきて!」
隣の女子トイレの方から大きな声で叫びながらドンドンと個室を叩く騒々しい音が伝わる。
ヒカリだと分かり、いきなり訳も分からず逃げられた手前、トイレに籠るといった行動に流石の唯菜も困惑した状態で声を掛けている……のだが、恐らくそれは完全に人違い。
ヒカリでもなければ、ましてや自分が知る人でもないだろう。
トイレの個室にいるのは完全に赤の他人。
中にいる人にとってもいきなり訳の分からない状況に陥って容易に外に出れない恐怖に見舞われているに違いない。
正直に言って、想像すると少し笑えてしまうが……この窮地を凌ぐにはこれを笑って見過ごす他ない。
非道と蔑まれようとも構わない。
何も関係ない個室トイレの中の人には申し訳ないが、暫く唯菜をそこで引きつけておいてくれ。その間に俺はそろ~っと男子トイレから抜け出し、自分の部屋へと戻るとした。
♢
「って、いう事があったんです!!」
遅れた事情を春乃のベッドの上で半ば泣きそうになりながら訴える唯菜に全てを知る春乃は「大変だったねー」と他人事の様に返す。一方で、事情を聞いた香織は『どういうこと?』とイマイチ状況が掴めずにいた。
「それで女子トイレに居たのはウチの学校の子だったの?」
「……はい。埋まっていた個室が一つしかなかったので、絶対にヒカリちゃんだと思っていたら凄くビクビクした様子で知らない女の子が出てきて……」
大変申し訳なさそうにしょんぼりとした唯菜の頭を軽く撫で、よしよしと宥める春乃は内心で必死に笑いを堪えながらも『彼、上手く撒いたなー』と評した。
「唯菜さん、本当なの?ヒカリがいたって」
何かの間違いなのでは?
そう言いたい香織に唯菜は「あれは間違いなくヒカリちゃんでした!」と強く断言する。
それには春乃も『正解だね』と頷くが、決して表面には出さない。
「あれ、そう言えばさっき春乃ちゃん、ヒカリちゃんと何か話してたよね?」
「ううん。話してないよー」
「え?」
「だって、さっき逃げたのはヒカリちゃんではないからね」
「え、えぇぇぇぇぇぇぇぇ!?で、でも、あれは確かに……」
「あの子、実はポーチカのファンなんだよ。ちなみにヒカリちゃん推しで髪色とか髪型とか寄せてたから唯菜ちゃんが勘違いしちゃったんだよ」
「な、なるほど。でも、なんで逃げたの?」
「恥ずかしかったからじゃない?あの子、唯菜ちゃんの事も好きみたいだから急に話しかけられてビックリして逃げちゃった……みたいな」
春乃は平然と噓を吐く。
これが通るとは自分でも思っていない。
目の前にいる香織は『それ、噓でしょ』といった顔で完全に疑いの眼差しを向けてきている。
だが、敢えて指摘しないで黙っていたのは自身の兄が何か危うく正体がバレかけた事態に遭遇したのだと察しているからである。
何があったのか。そして、どうして春乃がヒカリの正体を隠すように努めているのか。
その詳しい全容は後日、本人に聞くとして今は唯菜の勘違いを現実にするべく口裏合わせる。
「二組の名取さんでしょ」
「そうそう。元々は香織好きだったんだけど、いつの間にかヒカリちゃんのファンになってて香織ってば物凄く悔しがってたよね」
要らぬ情報まで付け加える春乃にジロりと睨みを利かせる。
「それは言わなくていいでしょ。ってことで、多分唯菜さんが見たのはその子だと私も思う」
「なんだー。あまりにも似てたから本人だとてっきり……」
(間違いなく本人でしょうね)
(間違いなく本人だけどねー)
完全に別人だと唯菜は思い込む。
そのキリが良いタイミングを見計らって春乃は本題へと移す。
「まぁまぁ、それはさておき。今宵はあまり時間ないんだし、明日のことについて話しを進めようよ」
「そうね。唯菜さんはどこか行きたい所とかある?」
「えっと、私はね……」
上手い具合に唯菜を誤魔化した二人。
純粋な唯菜だからこそ通じる手だと思う反面、二人で結託して噓を吐くことに少しばかりの負い目を香織は感じていた。
(はぁ……明日、お兄ぃを色々と問い詰めた上で何か奢ってもらわないと割に合わない)
奢ってもらう事を勝手に決定した香織は自身が食べたい沖縄のスイーツを食べようと行動計画の中に一つだけ織り込んだ。
♢
ホテルの外に設けられた自販機横の椅子。
クタクタな俺は買ったジュースを飲みながら身体を休めていた。
「もうマジでなんだよ。この修学旅行……」
元の姿で過ごしても色々と気が収まらない。
全然、心と身体が修学旅行を楽しんでいない。
むしろ、日を追うごとに疲れが増していく一方だ。
明日の最終日なんて余計に……
「勘弁してくれ」
項垂れながらそう独り言を呟く。
深く息を吐いて、ゆっくりと顔を挙げる。
背筋を伸ばしてンーと身体を伸ばしていると横から誰かがまた近付く。
他の観光客なのだろう。
勝手にそう決めつけては再びカンに口を付けてぐびぐびと潤していると……
「え……」
「え……?」
月明かりが綺麗な夜、ホテルの浴衣を身に纏った小春と偶然にも再会した。