百四十一幕 修学旅行/再会⑩
ホテル内に併設された屋内プール。
夕焼けが差し込むプール内を一人の少女が綺麗なフォームを維持させたまま泳いでいた。
プールの利用客は他に居らず。
4コース設けられた25mプールを一人、貸し切り状態のまま泳いでいた少女は往復50mの距離を全力で泳ぎ切って、水面から顔を挙げる。
「はぁはぁはぁ……」
切らした息を整える。
久しぶりの遊泳もあってか、かなり息があがっていた。
かれこれ30分近く泳いでいた少女は一度プールサイドに上がって足は水に浸かったまま小休憩を挟む。
ゴーグルを取り、水泳キャップを外すと中から葵色の艶やかな髪が水飛沫を飛ばして現れる。
紺色の競泳水着を纏った少女……幸村小春は自身とは反対のプールサイドから見える美しい夕焼けに息を吞む。
「綺麗……」
そう言葉を漏らした後……少し惜しいと感じた。
同室のクラスメイトには何も告げず、レンタル水着で夕食の時間まで気分転換に一人で遊泳しようとやって来た小春。
誰かといるよりも一人の方が気楽でいい。
中学時代から変わらない自分の気のままに従って、こうして一人でいるが……やはり寂しいというのが本音であった。この弱さも中学生の時から変わらない。
一人でいる方が気楽なのに、寂しいと感じる矛盾した気持ち。
それを克服出来ずにいるのは過去の傷を引き摺ってのこと。
学校を転校し、皆性格が上品で優しい学友であることは知っている。
彼女達が自分に害を及ぼさないと分かっていながらも、イマイチ深く距離を近づけず……むしろ、一向に自分から縮められずにいるのは……まだ、小春は中学時代に受けたイジメの傷跡がしっかりと心の奥底に刻まれていたからである。
上品で優しい学友と言えども彼女達も一人の人間。
何を考えているのかはっきりと分からず、裏の読めない表の明るい素振りしか見せない少女達というのが小春にとっては苦手な対象でしかない。
むしろ、ルーチェみたいに日頃から裏表が一切なく、素の自分を前面にアピールする女の子の方が絡みやすくて話しやすかった。
だが、小春の同性に対する苦手意識は徐々に薄れつつある。
ルーチェの勧誘で無理矢理始めさせられたアイドル活動が意外にも対人関係を養う上でのリハビリにもなり、優しいグループメンバーの関わりを通じて多少なりとも人を信頼できるようになれたことがきっかけでもあった。それに伴って、教室でもまた一人、二人と……話す相手を少しずつ増やして友人と呼べる関係を徐々に構築するようにもなった。
だからこそ、惜しいと感じた。
こんな綺麗な景色は自分だけではなく、誰かと共有すればもっと美しく輝いて見えるのではないか。一人ではなく、二人や三人……あるいは自分が特別だと思える誰かと……
そんな淡く切ない想いを胸に秘めた小春は橙色の染まる窓の外をぼんやりと見詰める。
すると、プールサイドに誰かの足音が響く。
ふとその音に反応して振り向く……そこにはシャツを羽織った短パン姿の少年がビニール袋に入った水着を手に立ってゆっくりと進んでいた。
彼が小春に気付く前に、小春は彼の正体に気付く。
「うそ……」
その正体に気付いた小春は無意識にそう呟く。
声に反応した彼がその方を向いたと同時に、小春はFPSゲームで培った反射神経を活かしてすぐさまプールの中に入水する。
水泳キャップやゴーグルも付けないまま水の中に入り、ドキドキと激しく脈打つ鼓動が彼から遠ざかるよう脳内に告げてくる。
それに従って小春は泳いで離れようとした瞬間……
「……っ!!」
右足のふくらはぎに突然、力が入らなくなると同時にピンとした痛烈な刺激が張るように襲う。
思わぬ状況に陥った小春は冷静を欠き、水の中でジタバタと溺れる。
「……ぷはっ、誰か……」
水中で上手く足が使えず、浮かぶことが困難となり徐々に身体が水面下に沈む。
まともな息継ぎも出来ないまま小春は息を止めて水の底にゆっくりと落ちていく。
水面が遠のき、視界も薄暗くなっていく。
もうダメかもしれない。
そんな諦め混じりに瞳を閉じかけたその時……誰かが自分の手をぐいっと思いっ切り引っ張る感覚に思わず目を見開く。
そのまま背中を片方の手で支えられ、勢いよく身体を起こされる。
水面よりも上に顔が挙がったことで小春は咳き込みながらも酸素を取り込む。
その間に脇に腕を回し、半ば抱きかかえられたままプールサイドの方に移動させられる。辛うじて片足が床が付く深さで一旦は落ち着きを取り戻す。
そして、それと同時に横に並んだ彼へと視線を向ける。
「……!」
先程と同じ。
一度は彼をちゃんと直視しては……照れ臭くてまた背けてしまう。
けれども、自分を救ってくれた恩人に対してお礼もせずに顔を背けるのは失礼だと思い、お礼を述べる。
「あの、助けて頂きありがとう……ございます」
彼の正体に気付いていないフリをしてお礼を述べる。
そして、溺れかけた小春を救った陽一もまた気付いていないフリで「どういたしまして」と返す。
「それより、足攣っているみたいだけど大丈夫?」
「う、うん。一人で上がれるから」
腕の力だけでプールサイドに上がる。
先に左足を上げて、攣ってしまった右足を痛みに耐えながらゆっくりと上げる。
「イタタ……」
力が入らず思うように持ち上がらない右足にふと温かくも優しい感触が伝わる。
先にプールサイドへと上がった陽一は足首を掴んで筋を伸ばしたままゆっくりと床に足をつけられるよう支える。
「これ、一人で治せる?足に触れてもいいなら手伝うけど」
陽一の優しい気遣いに小春は『大丈夫』と見栄を張らず「お願いします」と伝える。
爪先を垂直に向けたままゆっくりと身体の方に押して、ふくらはぎの攣った筋肉をほぐす。
硬直した筋肉の痛みに耐えながらも小春は少し顔を俯けたまま処置を手伝う少年を見詰め、内心で嬉しいと懐かしいが合わさった感情に浸っていた。
時間が経つにつれて気持ちが落ち着く。
この空気感に慣れ始め、改まって見詰めた小春は彼がびしょ濡れであることを気に掛ける。
「ごめんなさい。私服のまま……」
「別に気にしなくていいよ。替えの服は部屋にあるから」
「……っ、うん。ありがとう」
自分が誰に助けられたのか。
自分が誰を助けたのか。
お互いに気付いていて……気付いていないフリを努めていた。
それが二人とプール内を取り巻く微妙な空気感を出している。
そして、お互いに無言の時間が長く続き、攣った足は次第に良くなる。
「ありがとう、もう大丈夫。一人で立てそう……です」
爪先から手を放し、陽一は顔を挙げる流れで小春の方を一瞥する。
その様子から小春は空港で陽一を見た時の記憶を蘇らせた。
(やっぱり。私と同じで気付いている……)
けれども、確認を取ろうとしない。
その理由を何となく察していた小春は口を開けて何か伝えようとするも、何をどう言えばいいか分からず言葉を掛けられなかった。
そう戸惑っている間にも陽一は片膝を着いて尋ねる。
「もしも動くのが厳しそうだったら誰か呼ぼうか?」
「ううん。大丈夫」
「なら良かった。じゃあ、俺はこれで……」
飛び込み台の上に置いた携帯端末やビニール袋を拾ってプールサイドから戻ろうと冷たいタイルの上から立ち上がった直後、陽一の腕が掴まれる。
行かないで。
そんな意志を込めて行く手を阻んだ小春の方へと陽一は徐に振り返る。
「ごめん……なさい」
震えた声で腕を伸ばした小春は勇気を振り絞って告げる。
「覚えているよね。私……幸村小春です」
濡れた前髪から瞳を覗かせた陽一は小さく言葉を返す。
「久しぶり。幸村」
陽一の姿で声で……再び彼女の名を口にして挨拶を交わす。
そんな懐かしさに耽りながら当時と変わらない呼び方で身体を正面に向き直した。