百三十・五幕 エピローグ/意外な二人⑦
「ここがお兄ぃの部屋……」
後日、久しぶりの休暇を取れた香織は家から諸々の荷物を持ってジルの有するマンションへ訪れた。
エントランスに入る為のキーは事前にジルから貰い受け、兄が借りている部屋の階へエレベーターで上がり、電子ロックのドア前に立って再び暗証番号をメモした紙を見て入力する。
「お、開いた開いた~」
あっさりと開いた扉の中に入る。
中は意外にも綺麗に整頓され、掃除も丁寧に施されている様子。
兄から聞いていた話とは違う光景に少し困惑を覚えるも、兄が不在時に明里が定期的にこの部屋へ足を運んでは掃除していたという話を交わしていたことを思い出す。
母並みに家事力を身に付けた理想的な姉の女子力の高さに妹である以上に、一人の女として歴然とも言える差を痛いくらい思い知った。そして、甘えた。
普段から甘えることを知らない香織はここぞとばかりに甘えさせてもらった。
家での分担家事を全て姉に押し付けるだけに飽き足らず、一緒にお風呂へ入って背中を流し合うことや同じベッドで睡眠を取ったり、寝惚けたフリをして歯を磨いてもらったりと……兄には決して口が裂けても言えないような要求をして甘えていた。
その歯止めが利かなかったのは姉の明里が何を要求しても『もう~香織は相変わらず甘えん坊だな~』という一言だけで全て通してしまうから。
そんな懐の厚さに香織は名残惜しさを感じる一方で、あのまま依存し続けるといずれ姉離れ出来ない重度のシスコン女に成り果ててしまう恐怖を今は感じていた。
「私もちょっとはお姉ちゃんを見習って家事スキルを磨かないといけないなぁ~」
そう呟いてリビングに足を踏み入れた。
そこでも同様に綺麗に整理整頓された部屋の状態がしっかりと保たれ、生活感は希薄でも誰かが丁寧に掃除を施しているのがよく伝わった。
その上、兄に向けた掃除や洗濯の仕方について細かく詳細に記載された紙の書き置きがテーブルに残してあった。読んでみるととても参考になる知識ばかりだった香織はマスキングテープで見えやすい位置に貼って、残しておくことにした。
「よし……早速だけど、私の服もしーまおっと」
すっからかんだと思っていたタンスを一番下から順に開けてみると意外にも女性用の服が整然と丁寧に敷き詰められていた。
可愛い系からビジュアル、カジュアル系といった……決して兄が着なさそうな服も。現にそれは滅多に着ていないどころかか、一回目も着ていないまま眠っているものもある。
そして、普段から着ているは一つ上の段にあるパーカーや短パン、Tシャツといった簡単に着られそうで尚且つ外で目立たない雰囲気の物ばかり……なのも容易に想像つく。
「ま、中身は男だし……そりゃそうか」
如何にも女の子らしい服を着ているのであれば後で揶揄うネタにでもしようという企みも潰え……一先ず、空いている箇所に自身の私服等を詰め、クローゼット内に制服の上着を掛ける。
「にしても……こんないい部屋を独り占めにしていたとはね」
一人で暮らすには有り余る広さ。
家具や食べ物も部屋には必要最低限の量しか置いていない。
日常で暮らす訳でもないこの部屋は言わば、兄にとっての秘密基地に等しい。
現に家にない筈のPCゲーム機や周辺機器、モニターといったゲーム配信者の仕事部屋を彷彿とさせる空間が少しだけ出来上がっている。
「そりゃ、帰ってこないわけだ」
時折、兄がここで一泊していく理由を香織は部屋の環境から容易に察した。
それにしても、本当にいい部屋。
立地的にもこの場所は都内でも有数の一等地に入る。
外を出歩けば直ぐそこは表参道。
マンションがあるのは大通りから少し外れた路地を進んだ住宅街の中。
それも建ち並ぶのは高級な住宅ばかり。
マンションを借りるにしても家賃はかなり高く、それなりの経済力がなくてはこの辺りでは暮らしてなどいけない。いくらここがジルの有するマンションであったとしても、他の住居者はそれなりの額を家賃として納めている。それを無料で借りているのはあまりにも贅沢な話だと香織は改めて思った。
「ま、今後は私が使ってもいいんだし。文句は言わないようにしよ」
兄の機嫌を損ねて追い出されたりしては面倒だ。
ここで揶揄うのはなるべく控えることを決めた。
「ん~~暇」
時間はお昼過ぎ。
学校の授業は午前中までだった香織は午後の六時からレッスンが始まる前に一度、この部屋に訪れ荷物諸々を置いて、時間まで部屋で休息を取ろうと考えていた。
しかし、見知らぬ部屋に転がり、妙にテンションが上がってしまったせいか寝るのが惜しいと思えてきてしまった。
兄はまだ授業中。
ここへ来るにしても五時間後とかになるだろう。
それまで部屋に一人きりで過ごすことになるのだが……これといってやる事がなかった。
部屋が汚ければ掃除でもしようと思っていたが……三日前に来ていたハウスキーパーさん(姉)に仕事を全て取られてしまい手持ち無沙汰の状態。
『はぁ……』と溜息を吐いた香織はゲーム機を起動させ、普段はしないゲームで時間潰しする。
「さてさて、お兄ぃは一体何のエロゲーを……って、全部FPS系かぁ……」
部屋にエロ本、エロゲーを隠し持たない兄ではあるが、家じゃなきゃ話は違うと睨む。
香織の目論見は外れ、持っていたゲームソフトは全て対戦型のものばかり。
その中でも有名なゲーム配信者達が絶賛するソフトを起動させ、早速ログインする。
すると、PCのメッセージに誰かからメールが送られてきた。
「え、お兄ぃの友達?」
リア友以外は友と呼ばない主義の兄に出来たネット上の友人……かと思いきや、メール相手の名前を見て直ぐに誰であるか見抜く。
「確か、ジルさんの妹さんだっけ。ルーチェって名前……」
直後、カーテンで閉められたガラス戸を思いきり叩く音が部屋に響く。
その鈍い衝撃音に身体を震わせ、窓の方を振り向く。
再び数度、ドンドンとガラス戸を割る勢いで叩いてくる様子に香織は少しばかり恐怖する。
カーテンの奥、ガラス戸を挟んだベランダに居るのは香織が想像している人物なのは間違いない。
もしも、そうでなかったら……自身も思わぬ人物であった場合に備えてスマホでいつでも通報出来るよう、画面を明るくして準備しておく。
そして、姿を確認するべくカーテンを思いきり開く。
そこにはやはり……『アイドル辞めたい』というロゴの入ったぶかぶかなTシャツをだらしなく着こなしている銀髪碧眼毒舌ロリ系美少女がガラス戸に張り付く形で立っていた。
部屋に居るのが香織だと気付くや否や少し驚いた顔で目を細めて睨み付ける。
何か不満気な顔で口を開いて何か呟いているが聞こえない。
不審者ではなく隣人だと判断した香織はそこでガラス戸を開く。
「あの~」
「あんたってSCARLETの三津谷香織だよね?」
「う、うん」
「どうしてここに?」
「ジルさんから聞いてない?私もこの部屋を使わせてもらうことになって……」
「知らないわ」
先日の話ではジルからルーチェに香織も部屋を共有することを伝えておくあった。
ちなみにルーチェは未だそのを話を知らない。兄からの連絡を無視し続けていたから。
だが、何となく察した。
どうしてそう至った経緯か。
「まぁ、いいや。私は隣に住んでいる……ってもう知ってるわよね」
「何度か会ったことあるからね。SCARLETとのイベントとかで。ほら、夏休みの最初、一緒に……」
その単語を出した途端、ルーチェの中で重大な懸念が生じた。
「待って、もしもあんたがここに居座り始めたらあの女もここに!?」
気付いた時には既に遅し、気配を消して忍び寄った獣が獲物の首元に牙を刺し捕らえるようなハンターの如し春乃にルーチェは強烈な恐怖感を抱いていた。
そんなガタガタと過去の傷を思い出しては震えている小さな少女に香織は「それは絶対にないから安心して」と声を掛ける。
「……ならいいわ。それとあんた、リーダーならあの変態女をどうにかして。この間、表参道の通り歩いていたら背後から突然、抱き付かれて襲われた時は心臓止まりかけるくらいビックリしたんだから!それ以降、怖くて一人じゃ歩けなくなったし」
自分の知らない所でそのような迷惑を掛けていたとは香織も知らなかった。
「ごめんね。それに関しては私がよく言っておく」
「……頼んだわよ。それより、ゲームとかするの?」
ゲーム?
ルーチェの視線奥にある起動したままのゲーム機を見て言っているのだと気付く。
「まぁ、たまにやるくらいかな。お兄ぃと料理や家事当番賭けてやったりとか」
「へぇ~、ちなみになんだけどお昼は?」
「まだだけど……」
「じゃあ、私と勝負しない。勝った方がご飯を奢るか、作るか要求出来る」
無論、ルーチェは作る方を望む気でいる。
ここ二週間、香織同様にルーチェもまた明里の家事に関する恩恵を受け続け、甘えさせてもらってた身。特に料理に関しては明里の腕はルーチェの舌を唸らせるものだった。
普段のカップ麵とは違い栄養価が高くバランスの取れた美味しい食事。
それを毎日お昼に食べるのが楽しみな時間であった……だが、明里がいなくなった今、ルーチェの昼食は再び買い置きのカップ麵へと戻りつつある。
再びあの味を堪能するにはあの姉同様に自身も高スペックで有名な香織に頼るしかない!(ルーチェの香織に対する勝手な思い込み)
そう珍しく闘志を燃やしたルーチェは素直に「作って」とは言えず、敢えて自身が得意なゲームでの勝負に持ち込んで作らせることを画策した。
無論、香織がこの勝負を受ける前提として考えを進めているがルーチェの予想通り……
「いいよ。受けてあげるよ」
陽一同様に吹っ掛けられた勝負に挑む性格は兄妹揃って同じ。
そんな自分の思惑通りに事が運んでいることに内心でニヤリと笑む。
「ま、勝負内容はあんたが決めていいわよ」
「そう?じゃあ、私もやったことがあるレースゲームにしようかな」
自宅にもあるゲームソフトのパッケージを拾って宣言する。
それはルーチェ自身も日頃からよく触れる馴染み深いゲーム。
高レート帯で常日頃から理不尽なアイテム攻撃を仕掛けてくる猛者達と順位を競い、たまに対戦する兄の陽一ですら勝敗ではルーチェに負け越している。
それに兄の情報だと妹は普段からゲームを触るような性格ではないと聞く。
そんな相手に負ける訳がない。既に勝ったも同然だと始まる前から勝利を確信した。
「オッケー、それでやろうか」
「何本勝負?」
「三本先取で」
「分かったわ。それでいきましょ」
口元にニヤリと笑みを溢してコントローラーを握ってキャラクターを選択。
画面の前に並んで座り、始まる瞬間まで無言の緊張感が走る。
そして、ラップが赤色に三つ点滅するまでの時間に香織はある一言を告げておく。
「ちなみにだけど私……このゲームでお兄ぃに負けたこと一度もないから」
「え……?」
唐突に放たれた言葉通り、三本中二本を香織が制した。
泣きの一本でも容赦ない大差でゴールを掴んだ香織にルーチェは啞然とした表情を見せつつも、自らお昼を奢ることを宣言したのであった。