百二十九幕 IF/明里と綾華⑱
綾華は最悪な事故を二度も経験した。
一度は腕輪を介した記憶の共有。
それにより膨大な記憶が突然、頭の中に流れ込んで意識を失った。
二度目はその直後に起きた。
その記憶が完全に共有されたその時は講演の真っ最中だった。
他の演者よりも高い段の上に立って独唱する際に意識を失った綾華は倒れるように落下。
一切の受け身を取らず、ステージ上に倒れた綾華は両手足を骨折する重症を負った。
そして、最悪なことに手首を床に打ち付けた際、綾華の身に付けていた腕輪は大きな損傷を負った。
客席から慌てて駆けつけたジルがその腕輪を目の当たりにした時にはもう腕から外れた状態で真っ二つに割れ、原型を留められないくらいバラバラに砕けていた。
結果、二人を繋げていたリンクは完全に途絶え……綾華と彩香は自身の世界から見放された。
♢
「辛くはないんですか?」
「帰れないことが?」
明里は愚問だと分かっていながらも「はい」と答えた。
「そうだね。正直に言えば、私は慣れたかな……向こうもこっちも大して変わらないし」
「私は違いました」
「まぁ、そうだろうね。性別が違えば色々と変わるよ」
明里は自分の居場所が向こうにないことは直ぐに分かった。
どこを探しても三津谷明里を知っている人間は一人たりともいなかった。
家族や妹の香織ですら『明里』を知らない。
話してみると彼女は明里の知っている香織なのに……。
その事実が初めは凄く悲しかった。
寂しさに満ち溢れ、早く帰りたいと切に願った。
ただ自分は巻き込まれただけで、願ってもいなければ予期すらしない突然の事態に訳が分からなく困惑した。
「なんだか、ゴメンね。私達の事情に巻き込んじゃって」
「いえ、大丈夫です。私はまだ帰ってこれましたけど、綾華さんは……」
「私も大丈夫だよ。心配して訪ねてきてくれたんだと思うけど、私はへーき。こっちでの暮らしも案外楽しんでいるし」
噓ではなかった。
彩香として生きていく日々も綾華にとっては楽しく充実した日々であるのは間違いなかった。
世界が変わろうとも綾華自身が傍に居たい人と一緒に過ごせることが何よりも幸せだから。
勿論、心残りもある。
兼ねてから目指していた女優としての道を閉ざし、彩香が目指していた音楽への道へとシフトチェンジしたことや綾華の都合で一方的に巻き込んでしまった本当の彩香に謝罪の一言も掛けられないのは悔やまれ続けることであった。
夢を諦める。
それは自分が長年培ってきた努力を無にすることに等しい。
ましてや、音楽の道……歌手になるなんて夢は自分と最も縁遠い役柄だと思っていた綾華にとってハードな道でしかない。
例え、音楽の才能溢れる彩香と記憶を共有しようとも……彼女も綾華同様に研鑽と努力を重ねてもそれが中々認められない日々を送っていたから。
それを知った綾華は女優の発展形として『松前彩香』になることを決めた。
彼女の道を自分が引き継いで、演じて行く。
いつの日か、自分達が戻れるその日がくるかもしれない。
その時に、彼女の止まっていた時間を少しでも自分が動かして償いが出来ればいい。
なんて安直な考えで四年間過ごしていた。
お互いに戻れないと分かっていながらも。
しかし……でも、やっぱり……
「ねぇ、明里。ジルは元気だった?」
寂しさを帯びた声で綾華は尋ねる。
「わかりません。私が会ったジル社長は私の知っているままでした……でも、雰囲気はどことなく暗い印象を受けました」
それは何となくイメージがついた。
綾華の知るジルは人一倍責任感が強く、過去を引き摺る。
自身の一件で強く責任感を感じていつまでも過去に囚われてしまっていないか。
ジルの中で松前綾華という存在が重たい足枷になっていないか。
その点がずっと気掛かりであった。
しかし、四年が経とうともジルの気持ちは変わっていない。
そのことが綾華の中で妙に嬉しくもあり、彩香には申し訳なさでいっぱいだった。
それに彩香の記憶を共有したから何となく想像つくが……ジルと彩香は相性が悪い。
お互いに素直じゃない上に意地っ張りな性格ときた。
ジルは決して彩香を認めないだろうし、彩香は目の前に居るジルを自分の知っているジルとは決して認めない。故に顔を会わせれば喧嘩する状態が容易に目に浮かぶ。
「でも、どうしようも出来ないからな~」
「……何がです?」
「ううん。こっちの話、それよりもう他に聞きたいことはない?」
「そうですね。特にはないです」
「そっか。じゃあ、これからは綾華としての私もよろしくね、明里」
「はい。でも、私の知っている彩香さんと何も変わらないので、あんまり違和感ないですけど」
明里が彩香に初めて会った時点で、明るくフランクで絡みやすい性格だった。
「あーそれはね。彼女、結構尖っていたから丸くなれば私になる~みたいな感じで通してたらいつの間にか定着してた」
「こっちの彩香さんって結構、恐い方だったんですか」
「うん。絡みづらいとは思う……まぁ、根は優しくて思いやりのある人なんだけどね」
記憶の中の彩香。
特に彼女の学生時代を振り返るとかなり不器用な人柄だと綾華は思っている。
それはひとえに綾華とは違って家族との確執から生じている。
父の意向に沿って女優の道へ進み続けた綾華。
父の意に反して歌手としての道に進み続ける彩香。
彼女の反骨精神はその辺りから始まり……現在は修復不可能な域に向かっている。
(私とは違って……決して歩み寄ろうとはしない)
結果を残して自分の才能を証明してやると息巻いていた。
親が敷いた路線から外れ、自分の決めた道に突き進む。
(彩香は私と大違いだ)
だからこそ、綾華と彩香は繋がった。
綾華が歌を歌えるようになりたいと願っただけに限らず、自分の人生を自分で決めて反発しながらも突き進むその姿に憧れていたことを……腕輪が綾華の深層心理を介して理解した。
そして、悟られてしまった。
(私が彩香のようになりたいと願ってしまったことを)